第29話「新たな脅威」
査問院の会議室は、異様な緊張感に包まれていた。
円卓の向こう側に座る女性を見て、俺は息を呑む。セレナ・エーデルハイト。査問院の新星にして、能力主義の急先鋒。
彼女の瞳は、まるで氷のようだった。美しいが、一切の温もりを感じさせない。でもその奥で、何かが燃えている。沈んだ炎のような、深い痛みが。
「お会いできて光栄です、レオン・グレイ」
セレナが薄く微笑む。でも、その笑みに親しみはない。
「こちらこそ」
俺は慎重に応じた。
隣でエリーゼが緊張している。マルクスとリリアも、明らかに警戒していた。
それほどまでに、この女性からは危険な気配が漂っている。
* * *
「単刀直入に申し上げます」
セレナが背筋を伸ばす。
「あなたたちの活動は、王国の秩序を乱しています」
「どういう意味ですか?」
俺は問い返す。
「商業ギルドの調査? それとも――」
「全てです」
セレナが言葉を遮る。
「無能な者たちに希望を与え、秩序を破壊しようとする。それがあなたたちの罪です」
無能な者たち。
その言葉に、俺の拳が握られる。だが一瞬、セレナの声に深い痛みが溢れたのを俺は聞き逃さなかった。
「誰が無能だと?」
「現実を見てください」
セレナの声は冷静そのものだった。
「男性でも女性でも、能力のない者が権力を持てば、優秀な人間が犠牲になる」
セレナの手が、一瞬だけ微かに震えた。まるで何かを思い出しているように。
* * *
「確かに、現在の女尊男卑は問題です」
セレナが続ける。
「でも、それを男女平等で解決しようとするのは、さらなる愚策です」
「なぜ?」
エリーゼが口を開く。
「平等は理想じゃないの?」
「理想?」
セレナの声に、気づかれないほどの苦しみが溢れる。
「平等という美名の下に、無能者が保護され、有能な者が犠牲になる。それが理想ですか?」
その瞬間、俺には彼女の言葉が個人的な体験から来ていることが分かった。
彼女が身を乗り出す。
「真の理想は、能力ある者が導き、無能な者が従う社会です」
「それは――」
「差別? いいえ、区別です」
セレナの瞳が鋭く光る。
「能力による正当な区別。それこそが、人類の進歩に必要なのです」
* * *
俺は深呼吸して、セレナと向き合った。
「あなたの理論には、根本的な欠陥がある」
「ほう?」
彼女が眉を上げる。
「誰が『能力』を定義するんだ?」
俺は問いかける。
「今は魔術能力で差別される。あなたの社会では、何で差別される?」
「差別ではありません」
セレナが繰り返す。
「客観的な能力評価です」
「その『客観性』を、誰が保証する?」
俺は畳み掛ける。
「評価する側が、自分に都合の良い基準を作るだけじゃないか」
その瞬間、セレナの面上に深い痛みが走った。まるで古い傷が開いたように。
「その通りです」
彼女の声が低く沈んだ。
「私の父も、そうやって排除されました。天才でありながら、『男性だから』という理由で」
俺は驚いた。彼女が自らの過去を明かしたのだ。
「だからこそ、主観ではなく客観的な能力評価が必要なのです。二度とそんな悲劇を繰り返さないために」
* * *
「では、具体的な提案をしましょう」
セレナが書類を取り出す。
「あなたたちは、一週間以内に全ての活動を停止してください」
「は?」
マルクスが声を上げる。
「なんでそんな――」
「従わない場合」
セレナが冷たく続ける。
「査問院の権限で、強制的に活動を停止させます」
脅迫だった。
明確な、権力を背景にした脅し。
「理由は?」
俺は怒りを抑えて問う。
「社会秩序の破壊」
セレナが即答する。
「十分な理由でしょう」
* * *
「レオン・グレイ」
セレナが立ち上がる。
「あなたは優秀です。仲間たちも、それなりに有能でしょう」
彼女が俺たちを見回す。
「だからこそ、残念です」
「何が?」
「その才能を、愚かな理想のために浪費していることが」
セレナの言葉は、鋭い矢のように突き刺さる。
「弱者を守る? 美しい言葉です。でも――」
彼女が冷笑する。
「弱者に引きずられて、強者まで沈む。それが平等の末路です」
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。
「違う」
俺は立ち上がった。
「弱者を切り捨てる社会に、未来なんてない」
* * *
「感情論ですね」
セレナが肩をすくめる。
「では、質問します」
彼女の瞳が、俺を射抜く。
「弱者を守る社会と、強者が導く社会。どちらが人類の未来なのかしら?」
その問いに、俺は即答できなかった。
確かに、歴史を見れば――強者が文明を発展させてきた面もある。
でも、同時に――
「どちらでもない」
俺は答えた。
「え?」
セレナが初めて、意外そうな顔をする。
「俺たちが目指すのは、第三の道だ」
* * *
「第三の道?」
セレナが興味深そうに首を傾げる。
「説明してもらえます?」
「成長と協力の社会」
俺は仲間たちを見回してから続ける。
「弱者を切り捨てるんじゃなく、成長を支援する。強者が独占するんじゃなく、知識を共有する」
「理想論です」
セレナが断じる。
「いや、現実だ」
俺は胸を張った。
「俺自身がその証明だ」
セレナの眉が動く。
「AI依存から脱却し、自力で成長した。仲間と協力して、不可能を可能にした」
俺は一歩前に出る。
「それが、俺たちの答えだ」
* * *
長い沈黙が流れた。
セレナが俺を見つめている。その瞳に、初めて感情らしきものが宿った。
興味? それとも――
「面白いですね」
彼女がゆっくりと微笑む。
「でも、それで社会が変わると本気で思っているのですか?」
「変える」
俺は断言した。
「一人ずつ、少しずつでも」
「……愚かです」
セレナが首を振る。
「でも、その愚かさが、あなたの魅力なのかもしれません」
意外な言葉だった。
* * *
「期限は一週間です」
セレナが踵を返す。
「それまでに、賢明な判断をされることを期待します」
「待て」
俺が呼び止める。
「なぜ、そこまで俺たちを敵視する?」
セレナが振り返る。
その瞳に、一瞬だけ、別の感情が宿った。
「あなたたちが、私の理想を脅かすからです」
彼女の声に、微かな震えがあった。そして、一瞬だけ、少女らしい脆さがこぼれた。
「完璧な能力主義社会。それが、私の――父への誓いです」
言いかけて、セレナは慌てて口を閉じた。まるで余計なことを言ってしまったことを後悔しているように。
そして、今度こそ部屋を出て行く。
* * *
扉が閉まった後、重い沈黙が残された。
「ヤバい相手だな」
マルクスが額の汗を拭う。
「ヴィクトリアとは、タイプが違う」
「知的で、理論的で、そして――」
リリアが続ける。
「本気で自分の理想を信じてる」
そう、それが一番厄介だった。
単純な悪意や私欲じゃない。彼女は本気で、能力主義が正しいと信じている。
「どうする?」
エリーゼが不安そうに問いかける。
「逃げる?」
「逃げない」
俺は即答した。
「ここで逃げたら、彼女の思想を認めることになる」
* * *
『レオン』
アルフィの声が響く。今までにない不安定さがある。
『セレナ・エーデルハイトの情報を検索しました。しかし――』
1.2秒の沈黙。
『私は、あなたに助言を求めたいのです』
「助言を求める?俺に?」
俺は驚いた。いつもは明確な分析と指針を示してくれるアルフィが、俺に判断を委ねるなんて。
『はい。データは収集できました。査問院史上最年少で幹部昇進。IQ180超の天才。しかし――』
『このデータをどう解釈すべきか、あなたの判断が必要です』
天才か。
『しかし』
アルフィが続ける。声に、微かな――感情?――が含まれている。
『彼女の過去には、謎が多いです』
「謎?」
『10年前まで、記録が存在しません』
俺は眉をひそめた。
10年前。それは――
「調査が必要だな」
俺は呟いた。
敵を知らなければ、戦えない。
* * *
夕方、俺たちは執務室で作戦会議を開いた。
「一週間か」
俺は腕を組む。
「短いな」
「でも、逃げないんでしょ?」
エリーゼが確認する。
「ああ」
俺は頷いた。
「むしろ、これはチャンスだ」
「チャンス?」
マルクスが目を丸くする。
「能力主義の問題点を、世間に示すチャンスだ」
俺は立ち上がった。
「セレナとの対決を通じて、俺たちの理想を証明する」
皆の顔に、決意が宿る。
恐怖はある。でも、それ以上に――
信念がある。
* * *
その夜、俺は一人で考え込んでいた。
セレナの問い。
「弱者を守る社会と、強者が導く社会。どちらが人類の未来なのか」
簡単に答えられない問題だ。
でも――
「両方とも間違ってる」
俺は呟いた。
弱者を守るだけでは、確かに発展しない。
強者が支配するだけでは、多様性が失われる。
だから、第三の道。
全員が成長できる社会。
誰も切り捨てない、でも甘やかさない。
それが、俺たちの答えだ。
* * *
深夜、窓の外を見ると、査問院の塔が見えた。
あそこに、セレナがいる。
彼女も今、同じように考えているのだろうか。
自分の理想について。
俺たちとの対決について。
「一週間」
俺は拳を握った。
短い時間だ。でも――
俺たちならできる。
仲間と共に、AIと共に。
そして何より、信念と共に。
新たな脅威に立ち向かう覚悟を、俺は固めた。
明日から、本当の戦いが始まる。
* * *
翌朝早く、予想外の訪問者があった。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、見知らぬ青年だった。査問院の制服を着ているが、雰囲気が他の職員とは違う。
「あなたは?」
「カイル・ベルクマン。セレナ様の補佐官です」
補佐官。
俺は警戒を強めた。
「何の用だ?」
「これを」
カイルが封筒を差し出す。
「セレナ様からの、個人的なメッセージです」
個人的な?
俺は訝しみながら封筒を受け取った。
「それでは」
カイルは一礼して去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は違和感を覚えた。
彼の目に、セレナのような冷たさはなかった。むしろ――
* * *
手紙を開くと、セレナの流麗な文字が並んでいた。
『レオン・グレイ様
昨日の会談、興味深く拝聴しました。
あなたの「第三の道」という考え方は、
私の想定を超えていました。
ただし、理想と現実は異なります。
一週間という期限は変わりません。
追伸:
あなたの過去を調べさせていただきました。
AI「無限の書架」との出会い。
興味深い運命ですね。
セレナ・エーデルハイト』
最後の一文に、俺の背筋が凍った。
彼女は、アルフィのことを知っている。
* * *
「みんな、集まってくれ」
俺は緊急会議を召集した。
手紙の内容を共有すると、全員の顔が青ざめる。
「AI使いってことがバレてる」
マルクスが呟く。
「これは脅しよ」
リリアが拳を握る。
「あなたの秘密を知ってる、って」
確かにそうだ。でも――
「違う気がする」
俺は首を振った。
「脅しなら、もっと直接的にくるはずだ」
「じゃあ、何?」
エリーゼが問いかける。
「分からない。でも――」
俺は手紙を見つめた。
「彼女は、何か別の目的がある気がする」
* * *
午後、俺たちは情報収集を始めた。
セレナ・エーデルハイトという人物について、できる限りの情報を集める。
「見つけた」
リリアが古い新聞を持ってきた。
「15年前の記事。エーデルハイト家の悲劇」
記事には、ある事件が記されていた。
名門貴族エーデルハイト家で起きた、一家惨殺事件。唯一の生き残りが、当時10歳の少女――
「セレナ……」
俺は息を呑んだ。
両親と兄弟を失い、天涯孤独になった少女。しかし、これでは彼女の能力主義への執着は説明できない。
その後、親戚に引き取られたが、5年後に失踪。そして10年前、突如として査問院に現れた天才少女として――
だが、本当の悲劇はその後に起きたのかもしれない。
「壮絶な過去だな」
マルクスが呟く。
でも、これだけでは分からない。
なぜ彼女が、極端な能力主義に傾倒したのか。
* * *
夕方、意外な人物が執務室を訪れた。
「お邪魔して申し訳ありません」
朝に来た補佐官、カイルだった。
「また君か」
俺は警戒しながら応じる。
「今度は何の用だ?」
「個人的に、お話ししたいことが」
カイルが周囲を見回す。
「二人だけで、お願いできますか?」
俺は迷った。罠かもしれない。
でも、彼の目は真剣だった。
「分かった」
俺は仲間たちに目配せして、カイルと二人きりになった。
* * *
「セレナ様のことで」
カイルが口を開く。
「彼女は、本当は――」
言いかけて、彼は口をつぐんだ。
「何だ?」
「いえ、やはり――」
カイルが首を振る。
「ただ、一つだけ」
彼が俺を見つめる。
「セレナ様は、敵ではないかもしれません」
「どういう意味だ?」
「彼女の能力主義は、過去の経験から生まれたものです」
カイルの声が震える。
「弱さゆえに、大切な人を失った経験から」
カイルの声が続く。
「父上を失ったことで、彼女は変わってしまいました。性別による差別を憂い、能力だけが全てを決めるべきだと信じるようになったのです」
* * *
カイルが去った後、俺は深く考え込んだ。
セレナの過去。
能力主義への執着。
そして、俺たちへの複雑な感情。
全てが繋がり始めていた。
『レオン』
アルフィの声が響く。
『新しい情報があります』
「何だ?」
『セレナ・エーデルハイトの査問院での活動記録を分析しました』
2.3秒の異常に長い沈黙。
『興味深いことに、彼女が標的にしてきたのは――』
また間が空く。まるで、言葉を選んでいるような。
『全て、権力を悪用する無能な者たちです』
『レオン……』
アルフィの声が、今までで最も人間的に響いた。
『私は、彼女のことが……理解できません。いえ、理解したくないのかもしれません』
俺は目を見開いた。
つまり――
「彼女の能力主義は、正義感から生まれてる?」
『その可能性が高いです』
複雑だ。
単純な悪役じゃない。むしろ、歪んだ正義感を持つ――
「理解者になれるかもしれない」
俺は呟いた。
でも、そのためには――
彼女の凍った心を、溶かさなければならない。




