第22話「基礎の積み上げ」
朝日が執務室の窓から差し込み、机の上の魔術理論書を照らしていた。
俺はペンを握る手に力を込めた。微かに震えている。昨夜から続けている勉強会で、指先の感覚が鈍くなっていた。
「レオン、コーヒー淹れたわよ」
エリーゼがカップを机に置く。湯気が立ち上り、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「ありがとう」
俺は顔を上げた。首筋に鈍い痛みが走る。徹夜明けの体は、正直にきつかった。
机の上には、分厚い『魔力循環の基礎理論』が開かれている。昨夜から読み続けているが、まだ第三章までしか進んでいない。
学生時代は、暗記すればそれで済んだ。でも今は違う。一つ一つの数式の意味を、本当に理解しようとしている。
「『魔力は意志と感情の具現化である』か……」
俺は呟いた。基礎中の基礎。誰もが知っている定義だ。
でも――
「なぜ意志と感情なのか。なぜ理性ではないのか」
その根本的な理由を、俺は今まで考えたことがなかった。
ノートに数式を書き写しながら、その意味を噛み砕いていく。
魔力密度の公式。循環効率の計算式。出力安定化の条件。
一つずつ、丁寧に。アルフィに頼らず、自分の頭で。
* * *
「おはよう、レオン」
マルクスが部屋に入ってきた。手には同じ理論書を抱えている。
「早いな」
「お前には負けるよ」
マルクスが苦笑する。
「でも、基礎からやり直すって決めてから、色々発見があってさ」
「例えば?」
「魔力循環の第二法則」
マルクスがページを開く。
「『循環速度は使用者の精神状態に反比例する』って書いてあるだろ?」
「ああ」
「でも実際は違う。焦りや怒りで循環が乱れるんじゃない。感情の『質』が問題なんだ」
俺は目を見開いた。
確かに、教科書の説明は表面的だ。でもマルクスの解釈は――
「純粋な感情なら、むしろ循環は加速する」
俺が続けた。
「そうだ!」
マルクスが手を打つ。
「だから戦闘時の怒りが魔力を増幅させることがあるんだ。問題は、その怒りに迷いが混じった時――」
「循環が乱れる」
二人で頷き合った。
こんな単純なことに、今まで気づかなかった。いや、気づこうとしなかった。アルフィがいれば、瞬時に最適解を出してくれるから。
* * *
昼過ぎ、リリアも加わって勉強会は本格化した。
「じゃあ、実践してみましょう」
リリアが小さな魔法陣を机に描く。
「基礎的な光球生成の術式。でも、ちょっと効率が悪いのよね」
俺は魔法陣を見つめた。
六芒星の基本形。魔力の流れを示す回路。出力調整のための制御式。
どこに問題があるのか――
額に汗が滲む。アルフィなら、0.1秒で答えを出すだろう。でも今は、俺が考えなければ。
「この部分」
俺はペンで一箇所を指した。
「魔力の分岐点が鋭角すぎる。流れが滞る原因になってる」
「正解!」
リリアが微笑んだ。
「じゃあ、どう改良する?」
俺は深呼吸した。手が震えそうになるのを、必死で抑える。
ゆっくりと、慎重に、新しい回路を描き始めた。
分岐点を緩やかな曲線に。魔力の流れが自然になるように。理論で学んだことを、一つずつ適用していく。
完成した魔法陣を見て、俺は息を吐いた。
「どう?」
リリアが魔力を流し込む。
光球が生まれた。前より少し明るい。測定器で確認すると――
「効率が12%向上してる」
たった12%。
アルフィと一緒なら、300%は改善できただろう。でも――
「これは、俺の力だ」
胸の奥から、温かいものが湧き上がってきた。
小さな達成感。でも確実に、俺自身が生み出したものだ。
* * *
午後の訓練場で、俺たちは実践練習を始めた。
「基礎術式の連携訓練をしましょう」
リリアが提案した。
「まずは単純な火球術から」
俺は構えを取った。足を肩幅に開き、重心を落とす。基本中の基本の姿勢だ。
魔力を練り上げる。ゆっくりと、丁寧に。急ぐ必要はない。
「火球」
掌から炎が生まれた。拳大の大きさ。威力は――
「うーん、標準以下ね」
リリアが測定器を見る。
「でも、魔力の純度は高い。基礎をしっかりやってる証拠よ」
俺は何度も練習を繰り返した。
一回、また一回。少しずつ感覚を掴んでいく。魔力の流れ方、炎への変換効率、放出のタイミング。
「レオン、ちょっと見て」
マルクスが自分の火球を見せた。
「俺も威力は出ないけど、持続時間なら――」
確かに、マルクスの火球は小さいが安定している。5秒、10秒と形を保ち続ける。
「制御に特化してるんだな」
「そう。威力より制御を重視した結果だ」
俺も試してみた。威力を抑えて、制御に集中する。
結果は――3秒が限界だった。
「難しい……」
額から汗が流れ落ちる。単純な術式一つとっても、奥が深い。
* * *
夕方になると、疲労が限界に近づいていた。
瞼が重い。肩に鈍い痛みが広がっている。ペンを持つ指先の感覚も、朧げになってきた。
「休憩しない?」
エリーゼが心配そうに覗き込む。
「大丈夫」
俺は首を振った。
「もう少しだけ――」
その時、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは、王国査問院の使者だった。
「レオン・グレイ様に、緊急の案件依頼があります」
使者が書状を差し出す。
俺は震える手でそれを受け取った。王国の紋章が押された、正式な依頼書だ。
中を開くと――
「北部国境での魔獣討伐任務……」
複雑な状況説明が続いている。通常なら、アルフィに分析してもらうところだ。でも――
「三日後までに回答をお願いします」
使者が一礼して去っていく。
俺は書状を見つめた。
今の俺に、これが解決できるだろうか。基礎すらまだ理解しきれていないのに。
でも――
「やるしかない」
俺は拳を握った。
これも試練だ。アルフィに頼らず、自分の力でどこまでできるか。
* * *
その夜、俺は一人で書状を分析していた。
魔獣の行動パターン。地形の特性。過去の討伐記録。
一つ一つ、丁寧に読み解いていく。分からない用語は辞書で調べ、曖昧な記述は関連資料で補完する。
時間はかかる。効率は悪い。でも――
「待てよ」
俺は一つの記述に目を止めた。
魔獣の出現時期。それが妙に規則的だ。まるで何かに反応しているような――
ノートに図を描き始める。出現パターンを時系列で並べ、地図上にプロットしていく。
すると――
「これは……」
一つの仮説が浮かび上がってきた。
魔獣は無秩序に現れているんじゃない。特定の魔力源に引き寄せられている。それも、人為的な――
俺は興奮で手が震えた。
これは、俺が見つけたんだ。アルフィの助けなしに、自分の頭で導き出した答えだ。
* * *
日付が変わる頃、俺はふと手を止めた。
ノートを見返す。今日一日で書き込んだ内容は、わずか数ページ。アルフィと一緒なら、この百倍の情報を処理できただろう。
でも――
俺は一つ一つの文字を見つめた。震える手で書いた数式。何度も書き直した図表。理解できずに空白のままの箇所。
全て、俺の現在地を示している。
『レオン』
アルフィの声が心に響いた。
『休憩も大切です』
「分かってる」
俺は苦笑した。
「でも、もう少しだけ」
『理解しました。ただし――』
アルフィの声に、微かな温かみが混じる。
『無理は禁物です。持続可能な努力こそが、真の成長につながります』
その言葉に、俺は頷いた。
確かに、焦っても仕方ない。一歩ずつ、着実に。それが今の俺に必要なことだ。
* * *
深夜、俺はまだ机に向かっていた。
分析は完成に近づいている。魔獣討伐の方法も、おぼろげながら見えてきた。
効率的じゃない。洗練されてもいない。でも――
「レオン、まだ起きてたの?」
エリーゼが心配そうに顔を出す。
「ああ。でも、もう大丈夫」
俺は微笑んだ。疲労は限界だが、心は軽い。
「何か掴めたのね」
「小さな一歩だけどね」
俺はノートを見せた。
「でも、確実に前に進んでる」
エリーゼも微笑んだ。
「それが一番大切よ」
* * *
翌朝、俺は仲間たちに分析結果を説明した。
「魔獣は餌に群がってるんじゃない。魔力の残滓に引き寄せられてる」
図を示しながら、一つずつ根拠を説明していく。
「だから、討伐より先に、この魔力源を特定して除去する必要がある」
「なるほど」
マルクスが頷く。
「確かに理にかなってる」
「でも、実際にそれができるかは――」
リリアが心配そうに言う。
「やってみるしかない」
俺は答えた。不安はある。でも同時に、小さな自信も芽生えていた。
基礎を積み上げた先に、きっと答えはある。
* * *
出発の準備をしながら、俺は改めて理論書を確認した。
魔力探知の基本術式。追跡魔法の原理。結界構築の基礎。
全て、この数日で学び直したものだ。
「完璧じゃない。でも、理解は確実に深まっている」
心の中で自分に言い聞かせる。
「準備はいい?」
エリーゼが荷物を持ってきた。
「ああ」
俺は頷いた。
ペンを握る手は、もう震えていない。
* * *
出発前、俺は心の中でアルフィに語りかけた。
「見ていてくれ」
『もちろんです、レオン』
アルフィの声が、優しく響く。
『あなたの成長を、楽しみにしています』
俺は深呼吸した。
これから先、まだまだ長い道のりだ。でも――
一歩ずつ、確実に。基礎を積み上げながら、前に進んでいく。
それが今の俺にできる、最善の方法だから。
馬車が動き出した。
新しい挑戦に向かって、俺たちは進んでいく。
手の中の理論書が、朝日に照らされて輝いていた。




