第21話「現実と向き合う」
会議から二日後の朝、俺は訓練場の隅で一人、剣を振っていた。
基礎の型。学生時代に叩き込まれた、最も単純な動作。でも今は、その一振り一振りに集中することで、混乱した頭を整理しようとしていた。
汗が額から流れ落ちる。筋肉が悲鳴を上げ始めても、俺は剣を振り続けた。
第三条項と第五条項。なぜ、あの二つだけ理解できたのか。他の条項は霧に包まれていたのに――
「朝から熱心ね」
声に振り返ると、エリーゼが立っていた。訓練着姿で、手には二本の水筒を持っている。
「これ、飲んで」
差し出された水を受け取り、一気に飲み干した。冷たい水が、火照った体に染み渡る。
「ありがとう」
「調子はどう?」
エリーゼが隣のベンチに腰を下ろす。俺も剣を置いて、彼女の隣に座った。
「正直、まだ混乱してる」
俺は額の汗を拭いながら答えた。
「AIなしで判断できたのは嬉しい。でも、なぜあの二つだけだったのか……」
「それについて、考えてみたんだけど」
エリーゼが俺の顔を見つめる。
「第三条項は小国への不公平な制限。第五条項は技術移転の制限。どちらも『不当な抑圧』に関する内容よね」
俺は頷いた。確かにその通りだ。
「あなた自身も、ギルドで不当に扱われてきた。だから、その不公平さに敏感に反応したんじゃない?」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
確かに、俺は不公平な扱いを受けてきた。だからこそ、同じような抑圧を見過ごせなかったのかもしれない。
「でも、それだけじゃ説明がつかない」
俺は首を振った。
「他にも不公平な条項はあったはずだ。なのに、なぜあの二つだけ――」
言葉が途切れた。胸の奥で、何かが軋む音がした。
そうだ、俺は今まで何をしてきた? アルフィの指示通りに動き、アルフィの分析を自分の言葉として語り、アルフィの判断を自分の判断だと思い込んで――
「レオン」
エリーゼの声が、俺を現実に引き戻す。
「あなた、気づいてる? 会議で第三条項を指摘した時のあなたの目」
「俺の、目?」
「とても力強かった。まるで、別人みたいに」
エリーゼは微笑んだ。
「あれが、本当のあなたなんじゃない?」
その時、頭の中で懐かしい声が響いた。
『接続を回復しました、レオン』
アルフィ。
突然の復活に、俺の心臓が跳ねた。安堵と、同時に湧き上がる疑問。
「なぜ、接続を断ったんだ?」
俺は心の中で問いかけた。
『それについて、話す必要がありますね』
アルフィの声が、いつもより柔らかく響く。
「エリーゼ、少し一人にしてくれないか」
「分かったわ。でも、無理はしないでね」
エリーゼが立ち上がり、俺の肩に手を置いた。その温もりが、心を落ち着かせてくれる。
彼女が去った後、俺は訓練場のベンチに座ったまま、目を閉じた。
朝の風が頬を撫でる。遠くから聞こえる他の訓練生たちの声が、妙に遠く感じられた。
* * *
意識の深層で、アルフィと向き合った。
いつもの青白い光の空間。でも今日は、どこか温かみを感じる。
『あなたは私に、なぜ接続を断ったのかと聞きました』
アルフィの姿が、俺の前に現れる。
『答えは簡単です。あなたが成長するために必要だったからです』
「成長?」
俺は眉をひそめた。
「俺を困らせることが、成長につながるのか?」
『興味深いことに』
アルフィが一歩近づく。
『あなたは私の支援なしに、問題の核心に近づいていました。第三条項と第五条項――なぜその部分だけ理解できたと思いますか?』
俺は黙り込んだ。
確かに、不思議だった。他の条項は霧に包まれていたのに、その二つだけは妙にクリアに見えた。
第三条項――小国の魔力制限値。数値を見た瞬間、胸が締め付けられるような感覚があった。これは違う、と。まるで昔、ギルドで俺が受けた理不尽な扱いと重なるような――
第五条項――技術移転の制限条件。ここも同じだった。知識を独占しようとする大国の意図が、透けて見えた。俺の中の何かが、その不公平さに反応したんだ。
『それは、あなた自身の能力です』
アルフィの声に、微かな感情が混じる。
『私はデータを提供し、分析を補助してきました。しかし、本質を見抜く力は、元からあなたの中にあったのです』
「でも、俺は――」
『依存していた、と言いたいのですね』
俺は頷いた。胸の奥が、締め付けられるように痛む。
『その通りです。そして私も、その依存関係を許容していました。しかし』
アルフィが、0.2秒の間を置いた。
『それでは、真のパートナーシップとは言えません』
パートナーシップ。
その言葉が、胸に突き刺さった。
「俺たちは、パートナーじゃなかったのか?」
『主従関係に近かったと言えるでしょう。あなたは私の指示に従い、私はあなたを導く。しかし、それは対等な関係ではありません』
俺の肩から、力が抜けた。
そうか。俺は今まで、アルフィに頼りきりで、自分で考えることを放棄していたんだ。
『さらに言えば』
アルフィが続ける。
『私が接続を断った理由は、もう一つあります』
「もう一つ?」
『あなたの中に眠る、真の才能を確認したかったのです』
俺の心臓が、ドクンと跳ねた。
『第三条項と第五条項。なぜその二つだけ理解できたか、分かりますか? それは、あなたの本質――公平性への鋭敏な感覚、不正義を見抜く直感――が反応したからです』
『これは、データ分析では得られない能力です。人間だけが持つ、感情と理性が融合した判断力。私には、それがありません』
『レオン』
アルフィの声が、さらに柔らかくなる。
『私はあなたの成長を願っています。依存ではなく、協力。従属ではなく、対等。それが、私たちの目指すべき関係です』
俺は深く息を吸った。
霧が晴れていくような感覚。今まで見えなかったものが、少しずつ形を成していく。
「分かった」
俺は顔を上げた。
「もう一度、最初からやり直そう」
『その決意に』
アルフィが、また0.2秒の間を置いた。
『期待しています』
* * *
執務室に戻ると、仲間たちが集まっていた。
皆、心配そうな顔をしている。昨日の失敗のことは、もう全員が知っているだろう。
「レオン、大丈夫?」
マルクスが心配そうに声をかける。
「ああ」
俺は微笑んだ。まだ胸の奥には不安が残っているが、それでも前を向ける。
「これから、やり方を変える」
皆が俺を見つめた。
「アルフィの力は借りる。でも、依存はしない。まず自分で考えて、その上で相談する。時間はかかるかもしれないけど――」
「いいと思う」
リリアが頷いた。
「本当の実力って、そうやって身につくものよ」
「焦ることはないわ」
エリーゼも微笑む。
「私たちは、チームなんだから」
俺の背筋が、自然と伸びた。
そうだ。俺は一人じゃない。アルフィだけじゃなく、信頼できる仲間がいる。
「明日から、基礎の勉強をやり直す」
俺は宣言した。
「魔術理論、情報分析、全部最初から。遠回りに見えるかもしれないけど――」
「付き合うよ」
マルクスが笑った。
「俺も基礎の復習が必要だと思ってたんだ」
「私も」
リリアが手を挙げる。
「研究者として、基礎を疎かにしてはいけないって、改めて感じたの」
「じゃあ、みんなで勉強会をしましょう」
エリーゼが提案した。
「朝の1時間、基礎理論の読み合わせ。昼休みは問題演習。夕方は実践練習」
「いいね」
俺は頷いた。心が、少し軽くなる。
「それと、アルフィ」
俺は心の中で呼びかけた。
『はい、レオン』
「これからは、まず俺が自分で考える。分からないことがあったら相談する。それでいいか?」
『もちろんです。それこそが、真のパートナーシップです』
アルフィの声に、温かみを感じた。
* * *
夕食後、俺たちは執務室に残って、早速勉強会の計画を立てた。
「まず、どの教材から始める?」
マルクスが古い教科書を広げる。
「『魔力循環の基礎理論』が良いんじゃない?」
リリアが提案した。
「全ての魔術の根本だし、ここを理解すれば応用も効くはず」
「賛成」
俺も頷いた。
「それと、情報分析の基礎も並行して進めたい。『論理的思考の構築法』とか」
「あ、それなら私、良い本知ってる」
エリーゼが立ち上がった。
「貴族の家庭教師が使う教材なんだけど、すごく分かりやすいの」
皆で机を囲み、明日からのスケジュールを決めていく。
不思議な感覚だった。学生時代に戻ったような、でも今度は違う。強制じゃない。自分たちの意志で、自分たちのために学ぶんだ。
* * *
その夜、俺は久しぶりに魔術理論の基礎書を開いた。
分厚い本。学生時代、嫌というほど読まされた教科書だ。でも今、改めて読むと、違って見える。
「魔力の本質とは何か」
第一章の問いかけ。昔は暗記するだけだった文章が、今は違う意味を持って迫ってくる。
魔力は、単なるエネルギーじゃない。意志と感情が形を成したもの。だから、使う者の心のあり方が、結果を左右する――
俺はペンを取り、ノートに書き始めた。
自分の言葉で、自分の理解を。アルフィに頼らず、俺自身の頭で考えたことを。
時計を見ると、もう深夜だった。
でも、不思議と眠くない。むしろ、頭が冴えている。
窓の外を見ると、星が輝いていた。
明日は、新しいスタートだ。もう一度、最初から。でも今度は、自分の足で歩いていく。
俺は拳を軽く握った。
震えは、もう止まっていた。
そして――
胸の奥で、小さな炎が灯っていることに気づいた。それは、俺自身の力への、かすかな自信の光だった。




