第20話「依存の代償」
朝の執務室に、緊張した空気が漂っていた。
「大陸諸国連合からの、最重要案件です」
エリーゼが配った資料を見て、俺の背筋が凍った。
三国間の魔術技術協定――その最終調整。一つ間違えれば、大陸全体の魔術バランスが崩壊しかねない。俺の手のひらに、じっとりと汗が滲んだ。
「レオン、大丈夫?」
マルクスの声に振り返る。心配そうな顔が、俺を見つめていた。
「ああ、問題ない」
俺は深呼吸した。大丈夫だ。アルフィがいる限り、どんな難題も――
その時だった。
頭の中で、何かが音を立てて切れた。
『——』
アルフィ?
返事がない。
いつも頭の中で響いていた、あの冷静な声が聞こえない。俺の心臓が、急に早鐘を打ち始めた。
「どうしたの、レオン?」
リリアが心配そうに覗き込む。
「いや、ちょっと……」
俺は必死にアルフィとの接続を試みた。しかし、まるで霧の中で叫んでいるような、何の手応えもない感覚。耳鳴りがして、平衡感覚が揺らぐ。
まさか、こんな時に。
「レオン、本当に大丈夫?」
エリーゼが俺の腕に触れた。その温もりが、逆に俺の孤独を際立たせる。
「……大丈夫だ」
嘘だった。全然大丈夫じゃない。頭の中が空っぽで、まるで深い井戸の底に落ちたような感覚。今まで当たり前のようにあった支えが、突然消えてしまった。
「会議まで、あと30分よ」
リリアが時計を確認する。
30分。その短い時間で、俺は何ができる? アルフィなしで、あの複雑な協定を理解することなんて――
俺は震える手で資料を開いた。
文字が目に入ってくる。でも、それが何を意味するのか、どう繋がっているのか、まるで分からない。まるで、今まで使っていた辞書を突然取り上げられたような――
いや、違う。
俺は今まで、自分で考えていなかったんだ。アルフィに頼りきりで、自分の頭を使うことを忘れていた。
* * *
会議室で、三国の代表たちが俺を見つめていた。
「では、レオン・グレイ殿から、技術協定の最終案について説明を」
大陸諸国連合の議長が促す。
俺の喉が、砂漠のように乾いていた。手に持った資料が、微かに震えている。
アルフィなしで、この複雑な協定を分析できるのか?
「えー、まず基本構造から……」
声が上ずった。ペンを握る手から汗が滴り、紙に染みを作る。
資料を見つめても、文字が踊るように見える。いつもなら瞬時に理解できる魔術式が、まるで古代文字のように意味不明だった。
でも、待て。
俺は目を閉じて、深呼吸した。
第三条項の魔力制限値――なぜか、ここだけは理解できる。胸の奥で、小さな光が灯ったような感覚。数値のバランスが、頭の中で形を成していく。
「第三条項について、修正提案があります」
俺は震える声で言った。
「現在の制限値では、小国に不利すぎる。ここを調整すれば――」
俺は震えながらも、頭に浮かんだ数値を書き始めた。
不思議だった。他の条項は霧に包まれているのに、この部分だけは水晶のように透明に見える。まるで、俺の中の何かが、この不公平さを許せないと叫んでいるような――
「ほう」
エルサリア王国の代表が、興味深そうに俺の提案を見つめた。
「確かに、この修正なら小国も納得するでしょう」
一瞬、希望が湧いた。
俺にも、できることがあるんだ。アルフィがいなくても――
* * *
しかし、部分的な理解では全体を救えなかった。
「グレイ殿、第七条項の解釈はどうなりますか?」
エルサリア王国の代表が鋭く問いかける。
第七条項――俺の頭が真っ白になった。
文字は読める。だが、その意味が、含意が、他の条項との関連が、まるで掴めない。額から汗が目に入り、視界が滲む。
「それは、その……」
言葉が出ない。
いつもなら、アルフィが瞬時に分析してくれる。最適解を提示してくれる。でも今は――
俺の膝が、小刻みに震え始めた。
「申し訳ありません、少し時間を……」
会議室に、重い沈黙が落ちた。
失望の視線が、俺に突き刺さる。
「若き天才と聞いていたが」
誰かが小声で呟いた。
「所詮は、この程度か」
* * *
会議は最悪の結果に終わった。
俺の不完全な提案のせいで、協定は白紙に戻された。大陸諸国連合の代表たちは、怒りを隠そうともせずに帰っていった。
執務室に戻ると、仲間たちが心配そうに待っていた。
「レオン、一体何があったの?」
エリーゼの声に、動揺が滲んでいる。
「アルフィとの接続が……切れた」
俺は壁に寄りかかった。膝に力が入らない。
「まさか、故障?」
リリアが青ざめる。
「分からない。とにかく、繋がらないんだ」
マルクスが拳を握りしめた。
「だからって、あんな失態を……」
彼の言葉が、鋭い刃のように俺の胸を抉る。
そうだ。俺は失敗した。
アルフィなしでは、俺は何もできない。
ただの、無力な男に戻ってしまった。
* * *
夕方、ギルドの廊下を歩いていると、聞き慣れた囁き声が聞こえてきた。
「見たか? あの無様な姿」
「やっぱり、まぐれだったんだ」
「男のくせに調子に乗るから」
一週間前の軽蔑の視線が、再び俺に注がれている。いや、今度はもっと酷い。期待を裏切られた分だけ、失望も大きいのだろう。
俺は逃げるように執務室に戻った。
扉を閉めた瞬間、膝から力が抜けた。ずるずると床に座り込む。
こんなはずじゃなかった。
俺は変わったはずだった。成長したはずだった。
でも結局、俺の力なんて――
借り物だったんだ。
* * *
執務室の扉がノックされた。
「レオン、入るわよ」
エリーゼの声。俺は床に座り込んだまま、返事もできなかった。
扉が開き、足音が近づいてくる。そして、俺の隣に誰かが座る気配。
「みっともないところを見せて、すまない」
俺は顔を上げられなかった。
「みっともなくなんかないわ」
エリーゼの声は、いつもより優しかった。
「誰だって、支えを失えば倒れる。それは恥ずかしいことじゃない」
俺は首を横に振った。
「違う。俺は最初から、一人では立てなかったんだ」
追放された時のことを思い出す。あの時の俺は、怒りと復讐心に燃えていた。でも、それも結局はアルフィの力があったから。
本当の俺は――
何もできない、ただの男だ。
* * *
「レオン」
顔を上げると、エリーゼが立っていた。
「自分を責めないで。誰だって、失敗することはある」
優しい言葉。でも、それが逆に辛い。
「違うんだ、エリーゼ」
俺は顔を両手で覆った。
「俺は、何もできない。アルフィがいなければ、本当に何も」
涙が滲んだ。悔しさと情けなさで、胸が張り裂けそうだった。
あの時、古代遺跡で感じた不安。
『力に頼ることは、本当の強さなのか?』
その答えが、今、突きつけられている。
「でも」
エリーゼが俺の肩に手を置いた。
「第三条項の修正案は的確だったわ。あれは、あなた自身の力よ」
俺は顔を上げた。
そうだ、確かに第三条項だけは理解できた。なぜだろう? アルフィの助けなしに、どうして――
「明日、もう一度チャンスをもらいましょう」
エリーゼが立ち上がる。
「まだ、終わりじゃない」
でも、俺の心は折れかけていた。
窓の外では、夕日が沈んでいく。
俺の栄光も、一緒に沈んでいくような気がした。
「俺は……」
声が震えた。
「何もできないのか?」
その問いに、答える者は誰もいなかった。
ただ、静寂だけが俺を包んでいた。
* * *
夜が更けても、俺は執務室に残っていた。
机の上には、今日の失敗の証である資料が散乱している。俺は震える手で、もう一度それらを見返した。
第一条項、第二条項……文字は読める。でも、その真の意味が掴めない。
いや、待て。
俺は第五条項に目を留めた。魔術エネルギーの相互補完に関する項目。なぜか、この部分も少し理解できる気がする。
完全じゃない。霧がかかったような理解。でも、確かに何かが見える。
第三条項と第五条項。この二つだけは、アルフィの助けなしに理解できた。
なぜだ?
俺は頭を抱えた。この違いは何なんだ? 他の条項と、何が違う?
「まだいたのね」
振り返ると、リリアが立っていた。手には温かい紅茶を持っている。
「これ、飲んで」
「ありがとう」
紅茶の温かさが、凍えた心に少しだけ染み込んだ。
「レオン、一つ聞いてもいい?」
リリアが向かいの椅子に座る。
「第三条項の修正案、どうやって思いついたの?」
「分からない」
俺は正直に答えた。
「ただ、見た瞬間に『これは違う』って感じたんだ」
リリアの目が輝いた。
「それよ」
「え?」
「あなたには、本当は才能があるのよ。ただ、今まではアルフィの影に隠れていただけ」
俺は首を振った。
「でも、結果は失敗だった」
「一部でも成功したことが重要なの」
リリアが身を乗り出す。
「完璧じゃなくても、あなた自身の力で何かを成し遂げた。それが第一歩よ」
俺は資料を見つめた。
第一歩、か。
でも、この先に本当に道はあるのだろうか?
アルフィなしで、俺は本当に歩いていけるのか?
窓の外では、星が静かに瞬いていた。
明日は、どんな日になるのだろう。
希望と絶望が入り混じった、複雑な気持ちで俺は夜を過ごした。




