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夜の硬度

作者: 理瑠

 東京の夜は、ガラスみたいに硬い。ネオンの光も、車のヘッドライトも、雑踏のノイズさえも、見えない壁に当たって砕けていく。誰もが滑らかな表面を保ったまま、決して交わらずにすれ違う。この冷たくて硬い夜の空気に、僕は何度も爪を立ててみた。ほんの少しでも傷がつけば、何かが変わるんじゃないかって。


 イヤホンを耳の奥まで押し込むのが、僕なりの処世術だった。好きな音楽で鼓膜を塞げば、街のノイズはミュートされる。人々の無関心な視線も、意味のない会話の断片も、僕のテリトリーには入ってこない。僕は透明なカプセルに入って、夜の海を漂流する孤独な深海魚だ。それでいい。それがいいと思っていた。


 いつものようにスクランブル交差点を渡り、人波を避けて路地裏へ抜ける。壁一面のグラフィティも、ゴミ収集所のメタリックな光も、僕にとっては見慣れた風景の一部だ。今日も世界は硬質で、僕の心は凪いでいる。そう思うことにしていた。


 その夜、何かが違った。


 イヤホンから流れるギターソロが最高潮に達した瞬間、不意に片方の音が途切れた。断線しかけの安物だ、またか、と舌打ちする。そして、死んだ片耳に、信じられない音が滑り込んできた。


 雑踏の向こう側から聞こえる、アコースティックギターのアルペジオ。


 幻聴だと思った。こんなノイズの洪水の中で、生楽器の繊細な音が聞こえるはずがない。僕はイヤホンを外し、立ち止まった。耳を澄ます。車の走行音、遠くのサイレン、酔っ払いの笑い声。その隙間を縫うように、確かに旋律が聞こえる。それは、まるで硬いガラスをそっと撫でるような、切なくて、どこか諦めに満ちた音色だった。


 僕は音の鳴る方へ、吸い寄せられるように歩き始めた。まるで壊れたコンパスが北を指すように、足が勝手に動く。音は、シャッターが半分閉まった古い雑居ビルから漏れてきているようだった。錆びついた外階段を、息を殺して上る。二階の突き当たり、小さなバーらしき店の、重い鉄の扉。隙間から、音と一緒に淡い光が漏れている。


 気づけば、僕はその扉に手をかけていた。冷たい鉄の感触が、指先から伝わる。心臓が、ガラス細工みたいに硬くなった気がした。


 ゆっくりと扉を開けると、カラン、と乾いたベルの音が鳴った。中は薄暗く、カウンターにマスターらしき老人が一人いるだけ。客は誰もいない。そして、店の奥にある小さなステージで、一人の女の人が椅子に座り、ギターを弾いていた。僕が入ってきたことに気づいているのかいないのか、彼女は目を閉じたまま、指先から言葉を紡ぐように歌っていた。


 それは、僕がずっと感じていた夜のことを歌った唄だった。

ネオンの光が突き刺さる痛みを。すれ違うだけの人の群れを。触れられない距離と、冷たいアスファルトを。


 歌が終わると、店内には短い沈黙が落ちた。まるで、今まで存在していた硬い何かが、一瞬だけ消え去ったような静寂。

女の人がゆっくりと目を開けて、僕を見た。驚いた顔もせず、ただ静かに。


「聴いてたの?」


 僕は頷くことしかできない。声を出したら、この繊細な空気が壊れてしまいそうだった。


「この街、硬いもんね」


 彼女は、僕の心をそのまま見透かしたように言った。


「音くらいないと、ひびも入れられない」


 そう言って、ふわりと笑う。その笑顔は、夜の硬さをほんの少しだけ溶かす、小さな熱を持っているように見えた。


 僕は何も言わずに店を出た。会計もせず、ただ逃げるように。鉄の扉が閉まる音は、もう気にならなかった。


 帰り道、僕はイヤホンをしなかった。

 街のノイズは相変わらずうるさかったけれど、不思議と苦痛ではなかった。車のヘッドライトの光が、ガラスの破片ではなく、万華鏡のきらめきに見えた。


 東京の夜は、やっぱり硬い。それは明日も、きっと変わらない。

 でも、その硬い世界のどこかには、罅を入れるための唄がある。

 そのことを知ってしまった僕の心に、もう元には戻らない、細くて綺麗な傷が一本、確かに入った夜だった。

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