捌
懐かしい潮の香りに敖丙は目を覚ました。
ふと天を仰げば、まだ青みがかった薄闇に雪花が舞っていた。
どこをどう歩いてきたのか、はっきりとは覚えていない。
あたり一面、白銀の世界だった。
どこにも行くあてのないまま、ずいぶん遠くまで来てしまった。
足跡は雪にかき消されてもう見えない。
ああ、このまま朽ち果ててしまうんだろうな。
雪のように誰にも知られずに消えていくのも、悪くはない――。
そう思い再び目を閉じようとしたとき、きゃあきゃあと強く呼びかけるような鳴き声に今度こそ意識が覚醒する。
重たい瞼をなんとか持ち上げると、複数の黒い鳥影が空を旋回している姿が見えた。
「海燕……?」
その名を呼ぶと、一羽がこちらに向かって急降下してきた。
そのまま敖丙の肩にとまった海燕の褐色の翼を優しく撫でてやる。
海燕は、時折東海の海上で餌を探して飛び回る鳥である。
普段は海辺でしか見かけない鳥であるがゆえに、海から遠く離れたこの地で見かけるとは思わなかった。
訝しむと同時に、別の方向からさらに二羽の海燕が舞い降りてきた。
そのうちの一羽が嘴に光る玉のようなものをくわえている。
「龍珠……!?」
敖丙はそれが何か理解すると同時に慌てて駆け寄り、海燕から小さな宝玉を受け取った。
自ら微かな光を放つ龍族の秘宝。
それは、紛れもなく東海龍王の龍珠だった。
「君たちが見た景色を教えてくれ」
この海燕たちは東海からやってきたに違いない。
そんな希望を持って語りかけると、その言葉に応えるように海燕たちはしきりに翼を動かしながら鳴いた。
――あのとき哪吒が起こした竜巻は深海にまで届き、水晶宮を大きく揺り動かした。
仙境を倒壊寸前まで追いつめられた東海龍王は自ら俗世に乗り出し、東海沿いの港町を洪水で沈めてしまったという。
さらに「神に対する冒涜だ」と東海龍王は身勝手にも天帝に直接訴えようとした。
しかしその途中で哪吒を含む道士たちによって奇襲を仕掛けられたのだ。
ついに討伐された東海龍王の首とその三太子の背筋は見せしめに天帝へ献上された。
哪吒の名は一躍国を駆け巡り、それに反して古より国を守り続けた神々の評判は地に落ちた。
そこからは怒涛の勢いだった。
人間たちは神々の廟へ押し寄せ、神像を倒し、建物を焼き払った。
民は徐々に広がる一揆に傷つき、しまいには皇帝の住む宮殿に反乱軍が攻め入った。
天帝は哪吒に一連の責任を問うた。
それに対し、彼は自らの命を犠牲にして罪を償ったのだそうだ。
それこそが、この短い期間に起こった事の顛末だった――。
気づけば頬を伝って温かいものがこぼれ落ちていた。
止めようと思っても止められない。
むしろ、どんどんあふれてくる。
今になって、ようやくわかったことがある。
哪吒は同朋と安寧に暮らせる地に焦がれていた。
それこそ、自分のすべてをなげうってでも手に入れたいというほどに。
けれども、彼は決して――。
「僕を、捨てたわけじゃなかった……」
思い返せば、今まで哪吒が敖丙を殺せた機会などいくらでもあった。
それでも彼がそうしなかったのは、敖丙を醜い覇権争いから本気で逃がそうとしていたからだ。
いや、敖丙はもういない。
東海龍王の三太子であった敖丙は散り、残されたのは何者でもないひとりの少年だけになった。
ふと顔を上げると、花は散って枝だけになった菊の姿がある。
――僕も、傲霜枝のように強くあれるだろうか。
反乱を経て神による統治は終わり、人の時代が始まった。
戦が民に及ぼした影響は大きく、神々が絡んだ混乱も続いているはずだ。
全てが収束するまでは、まだまだ時間がかかるだろう。
それでも、風向きは確かに変わった。
その風がこの国を良い方向へ向かわせてくれればいい。
いずれにせよ、神の役目はもう終わった。
――人間の未来は人間が決める。神様が入りこむ隙はない。
「そうだね。その通りだよ、哪吒」
一歩、二歩、と。
歩き出し、重荷を失った身体は随分と軽く感じた。
涙を拭い、手のひらのなかの龍珠を見つめる。
人々を欺くなら最後まで徹底して装え、と哪吒に言われている気がした。
もう二度と振り返ることはあるまい。
そのまま思いっきり腕を振り下ろし、手近にあった岩に龍珠を打ちつける。
ぱきり、と。
龍珠はあっけなく砕け散った。