陸
「お前はここにいろ。絶対に外に出るなよ。いいな?」
焦る声に促され、有無を言わせぬ口調で言い残した哪吒は急いで外へ出た。
一方で敖丙は何が起きているかもわからぬまま、ただ言われるがまま茶屋の一室に閉じこもった。
ぴたりと戸が閉ざされると同時に、茶屋の老店主が内側から閂をかける。
外では集落の男たちが慌ただしく動き回り、怒鳴り合うような声と金属を打ちつけるような音が響き渡っていた。
どうやら何か諍いが起きているようだ。
――いったい何が起きているんだ?
半年ほど前に初めて来たときから、この平和な港町でこのような騒ぎが起きたことはない。
人々はみな温厚で優しく、お互いに助け合いながら生きていた。
そんな集落の人々の性格を知っているからこそ、ただ事ではない雰囲気に胸の奥底がざわつくのを感じる。
哪吒や男の口ぶりから、過去に同じような出来事が何度かあったことは察せられた。
得体のしれない不安を感じながら、敖丙は哪吒と一緒に行かなかったことを今さら後悔した。
もしも彼に何かあったら。
もしも怪我でもしてしまえば、脆弱な人間の身なのだからすぐに壊れてしまうに違いない。
けれども哪吒と約束してしまった以上、勝手にここから動くわけにもいかない。
動き出そうとして、結局ためらってしまう自分に嫌気が差す。
しばらくすれば収まるかと思われた外の喧騒も、しかし一向に静まる気配はなかった。
それどころか次第にその音は大きくなっていくように感じられる。
やがて外から聞こえてくる物音は、怒号から悲鳴のようなものへ変わっていった。
もはや我慢の限界だった。
敖丙が壁の隙間に指を差し入れると、かたんと羽目板の一枚が外れた。
何度も改装を重ねた木造りの小屋は古く、入り口とは反対側の壁に板が外れやすい場所があるのだ。
そこから這いずるように抜け出し、周囲を見渡して敖丙は息を呑んだ。
そこに広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
きれいに整備されていたはずの道は踏み砕かれ、港に浮かぶ船もひとつ残らず柱が折られている。
乱立する建物の壁は無惨にも崩れ落ち、建物自体が大きく破壊されていて倒壊しているものさえある。
そして緑をまとっていた大地は赤黒く変色し、そこかしこに人か獣かもわからぬ肉塊が転がっていたのだ。
見覚えのある顔もあった。
つい先ほど話したばかりの集落の者だ。
「な、なに、が」
吹き抜ける風に運ばれた悪臭が死体の腐る臭いだと気づいたとき、敖丙は胃からせり上がってくるものを抑えられなかった。
壊れた建物から飛び出してきたのか、木片が身体に刺さった人間が道でのたうち回っている。
おぼつかない足取りで苦しげな声のもとに近づこうとして、しかしそこで敖丙はさらに己の目を疑うような光景を見た。
『――人間が』
何かとてつもなく大きな人影が目の前の人間に覆いかぶさったかと思うと、ごきりという何かが折れる音と同時に尋常でない悲鳴が響き渡った。
『目障りだ』
次いで放たれたのは、水中で喋ったときのような濁りはあるものの流暢な人の言葉だ。
人間の骨をいとも容易くへし折った大男は、人ではなかった。
おまけにどこかで見たことがある。
黒い顔に燃えるような赤い髪。
耳まで裂けた口には鋭く尖った牙が並び、手には大きな斧を携えている。
見紛うはずがない。
彼は東海龍王の命令で東海の監視を行う、巡海夜叉のひとりだったのだ。
名前は、たしか李艮といった。
――東海の者が、どうして。
怒りよりも、悲しみよりも先に敖丙の頭を支配したのは当惑だった。
李艮は義侠心の強い夜叉族のひとりで東海龍王からの信頼も厚く、敖丙もよく顔を合わせる機会があった。
見た目こそ恐ろしいものの宮殿内で敖丙に笑いかけてくれたり、気さくで優しい一面を見せてくれることもあった。
だからこそ、人間にわけもなく危害を加えるはずがないと思っていた。
見渡せば他にも複数の夜叉族が集落を蹂躙している。
建物を斧で叩き壊す者。
逃げ遅れた人間を捕まえて袋叩きにする者。
血の海に沈んだ集落のあちこちから上がる断末魔の声が、夜叉たちの下卑た笑い声にかき消された。
『おや? こんなところに、活きの良い小童が』
そのときだ。
するりと背後から首に太い腕が巻きついた。
かと思えば、目の前の大男はいつの間にか姿を消しており、代わりに敖丙の背後でその気配を感じる。
気づいたときにはもう遅い。
きゅっと首が絞まり、為す術もなく身体が宙に浮く。
――首を折られる。
その瞬間だけ、ほんの一瞬がとても長く感じられた。
今の敖丙の体格は人間の少年と大差ない。
あとほんの少し力を入れられてしまえば、死んでしまうだろう。
しかしそうはならなかった。
ずどんと鈍い音が耳もとで響いたかと思うと、敖丙の首を絞めようとしていた手が不意に硬直し、力が抜けていくのを感じた。
先ほどまでの息苦しさが嘘のように消え、そのままどさりと地面に尻餅をつく。
何が起きたのかもわからないまま後ろを振り返ると、ついさっきまで己を殺そうとしていた李艮の頭が円環状の鈍器でかち割られていた。
逃げるように重い腕を振り払い、少し離れたところで敖丙はへなへなとへたりこんでしまう。
「哥哥!! 大丈夫か!? 出てきちゃだめだって言っただろ!」
駆け寄ってきたのは哪吒だった。
彼が片手に持っていたのは、李艮の頭を穿ったものと同じ形をした武器。
「……どうして」
考えるよりも先に言葉が出た。
「どうして黙ってたの!? こんなこと、知らなかった。巡海夜叉が人の集落を荒らしてるだなんて……」
いつの間にか集落にいた夜叉たちは全員姿を消していた。
その代わりに隠れていた生存者が建物の影から続々と姿を現し、苦々しくこぼす。
「今回はいつも以上に悲惨だな」
「これはひどい。逃げ遅れた者もほとんど殺されてる」
「次はいつまたやってくるんだろうか……」
また、と敖丙は枯れた声で村人の言葉を繰り返す。
哪吒は何も言ってくれなかった。
ただ顔を伏せたまま、悔しそうに唇を引き結んでいるだけだ。
「もし僕がもう少し早く知っていたら――」
そこまで言ってはたと口をつぐんだ。
少し前まで集落の人々が暗い顔をしていたのは、ただ神の力が及んでいないからと思っていた。
しかし見えないところで人々は苦しんでいる。
いくら神が頑張ろうとも、民のことを知らない限りその本当の苦しみを取り除くことはできない。
それを目前で見せつけられた瞬間だった。
「僕は、殺された人間たちにも、李艮にも、死んでほしくなかった……」
ただ自分の無力さに打ちひしがれていた敖丙の口からもれたのは、行き場のない懺悔の言葉だけだった。