伍
そうして敖丙は、使える時間のほとんどを哪吒と一緒に過ごすようになった。
相変わらず一人前の神仙を目指して修行に打ちこむ日々は変わらない。
しかしそのかたわら、空いた時間を見つけて俗世へ渡るようになったのである。
哪吒が住んでいたのは意外にも東海沿いにある小さな港町で、行こうと思えばいつでも行ける距離にある。
おまけに海と山に囲まれた土地柄ゆえに人通りは少なく、夜ともなれば人気はほとんどない。
夜中に龍の姿で空を飛んでも、誰かに見られる心配はなかった。
俗世では哪吒と一緒に都へ出かけたり、森へ入って遊んだり、他愛もない会話をして過ごした。
時には人間のふりをして集落の人たちと言葉を交わすこともあった。
最初は知らない人間と話すのに慣れなくておどおどしていたけれど、今では哪吒以外と遊ぶこともある。
一方で港町では、時が経つにつれて生活苦や不満の声がちらほら聞こえるようになっていた。
海で捕った魚を売って生計を立てている港町では、主に水神である龍族が祀られているという。
きっとまだ東海龍王の力が及んでいないのだろうと、そのときまではそう思っていた。
そして瞬く間に季節は移り変わる。
幸運なことにこれまでふたりの関係は特に変わらず、穏やかに続いていた。
いつものように今日は何をしようかと言いながら無邪気に駆け回っていた、ある日のこと。
その日訪れたのは、港町に一軒だけある小さな茶屋だった。
そこで茶を飲みながら菓子を食べていたときに、ふと思いついたように敖丙は言った。
「えへへ。ありがとね、哪吒。僕を助けてくれて」
「なんだよ急に。怖いな」
「うっ……あのときのことだよ!」
思い返せば、最初は突然の出来事に驚いて感謝の言葉を伝える暇さえなかった。
改めて礼を言うと、彼はわざとらしく肩を竦める。
「礼なら兄貴に言うんだな。俺は屋敷に担ぎこまれたお前を手当てしただけだし」
「お兄さんって、僕を看病してくれたあの男の人?」
「いや、木吒哥は違う。俺にはふたり兄貴がいてな、お前を妖魔から助け出したのは一番上の金吒哥のほうだ。普段は妖魔退治の仕事をしてる」
「へえ……道士さまなんだ!」
道士とは、神仙を目指して修練を積む人間のことである。
なかにはもうすでに神に近い存在で、神通力を自在に操れる者もいるらしい。
そういえば、哪吒から家族についての話はあまり聞かないような気がする。
もっと詳しく知りたいと思ったけれど、彼はこの話題があまり好きではないらしく、自然な流れで話の方向は敖丙自身のことに移った。
「お前は兄弟とかいるのかよ?」
「僕? 僕は三太子だから……もちろん、いたよ」
「いた?」
過去のことを話すような口ぶりに違和感を感じたらしい。
口にしてからはっと気づく。
不思議そうに聞き返す哪吒に邪気はなく、どう返せばいいのかわからない。
誤魔化そうとしたけれど、敖丙にそんな器用な真似はできず。
――彼になら、明かしてもいいだろうか。
しばしの逡巡の後、敖丙は決心し、ぽつりぽつりと話し始める。
「昔ね、東海龍王にも大太子と二太子がいたんだ。名前は敖甲と敖乙――僕のふたりの兄上だ」
いつもならこのあたりで哪吒が茶化してくるはずだ。
しかし彼の目は真剣さを帯びていて、それがただの雑談のつもりではないのだとわかる。
「そのときはまだ、母上もいて父上も優しくて、幸せだった」
敖丙の母である応龍は龍族の武人で、不死身の戦神と恐れられていた妖魔を仕留めたことで神仙界でも名があった。
軍場では他の神仙を率い、産んだ卵を乳母に預けて妖魔を狩りに行くほどの豪傑だった。
母はたまにしか東海へ帰ってきてはくれないが、それでも家族のことを深く愛していたと思う。
兄ふたりは同じ腹から生まれた兄弟なのに、性格が真逆でいつも喧嘩ばかりしていた。
けれどふたりとも優秀で、特に長兄の敖甲はとても強く、次兄の敖乙もそれに負けないくらい賢かった。
そんな兄たちに囲まれた敖丙は、本当に満ち足りた日々を送っていたのだ。
だがある日、転機が訪れる。
戦へ向かっていた応龍と敖甲、そのふたりの訃報が水晶宮に舞いこんだのだ。
妖魔との戦いの際に応龍は我が子を庇って命を落とし、深手を負った敖甲も長くは持たなかったという。
東海龍王が変わってしまったのもこの日からだった。
愛する妻を失った悲しみに、四海龍王の一柱でありながら息子すら守れなかった自分に対する怒り。
そういった感情が入り交じり、ついに彼は心を閉ざしてしまった。
そしてその後数年が経つと畳みかけるように、敖乙も姿を消した。
ひとりで修行に行くと言って出ていった敖乙の行方は、いまだにわからないままだ。
それこそが、東海龍王に三太子しか存在しない理由だった。
「……それは」
寂しげに目を伏せると、さすがの哪吒もそれ以上訊ねることはできなかったようだ。
不思議と哪吒に驚いたようすはなく、ただ何も言わずに俯いた。
意外だったのか、それとも予測していたのか。
その反応からは判別がつかない。
重苦しい、引きつったような沈黙が鎮座する。
茶屋に他に客はおらず、静まり返った店内では風が木々を揺らす音がよく響く。
ふたりは言葉を交わすことなく、窓から入ってくる自然の音にしばらく耳を傾けていた。
外が騒がしくなったのは、そのときだった。
「――哪吒! 哪吒、ここにいたのか!」
沈黙を破ったのは、慌ただしい足音とともに飛びこんできた男の声だった。
見覚えのある姿だなと思っていたら、それは集落の男だった。
その表情から、ただ事ではないことが起こっていると察する。
大変だ、と息も絶え絶えに叫ぶ男を見て、哪吒が腰を浮かせる。
「おい、どうしたんだ。まさか――」
哪吒が何かを言う前に男は手で制し、隠れるように身を縮こませる。
――やつらが来た。
そして、血を吐くような声でそう言った。




