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敖霜枝  作者: 白玖黎
3/9


 敖丙(ごうへい)に意識が戻ったとき、最初に感じたのは甘い匂いが染みこんだ(さわ)やかな風だった。

 視界の端では青々とした葉をつけ、地面に長く枝垂(しだ)れた植物がそよそよと風になびいている。

 書物で読んだことがある――たしか、(やなぎ)という名の植物だったはずだ。


 ごろりと仰向(あおむ)けになり、自分は眠っていたのだと気がつく。

 窓の外から目を()らすと、今度は年季の入った天井と壁が視界に入った。


 四方を(あめ)色に変色した木材で囲まれた部屋は飾り気がなく、小さな寝台の他に調度は簡素な机と椅子だけ。

 あたりに(ただよ)うつんと鼻を刺激する香りは、おそらく棚の上に置かれた乾燥した草花からだ。


 知らない匂いに満ちた、見覚えのない場所。

 霧がかかったように朦朧(もうろう)とした自らの記憶。


 ——どうして、こんなところにいるのだろう。


 大きな目をぱちぱちと(またた)かせた敖丙は、大きな部屋の一角にある寝台に寝かされていた。

 何気なく身を起こした敖丙は、突如(とつじょ)として全身を突き抜ける痛みに顔をしかめる。


「……っ」


 思わず漏れそうになった声を噛み殺したとき、包帯を巻かれた腕が視界に飛びこんできた。

 さらに視線を下げると、全身にも肌の表面を(おお)うように白い布が何重にも巻きつけられており、ところどころ血を流しているのか赤黒い斑点(はんてん)(にじ)んでいる。


 そんな体のようすを見て、ぼんやりとしていた頭がようやく少し動き始める。

 しかし、必死に状況を理解しようとしていた敖丙は一瞬にして思考を別の方向へ持っていかれてしまった。

 誰もいないはずの部屋の奥から、(かす)かに人の気配を感じたからだ。


「……」


 部屋のすみに置かれた燭台(しょくだい)の上で小さな炎が揺れている。


 その前で長い足を組むのは、人間の若い男だった。

 机の上に片肘(かたひじ)を置いた彼は、頰杖(ほおづえ)をつきながら広げた書物に目を落としていた。


 蝋燭(ろうそく)の炎に照らされた横顔は端正(たんせい)で、少し(くせ)のある髪は頭頂部できっちりとまとめられている。

 ぺらりと古書の頁をめくった男は、敖丙の視線に気づいたのかふいに顔を上げた。

 そのまま視線をそらすこともできず、目が合ってしまう。


「——ああ、起きたのか」


 男は書物を閉じて立ち上がり、ゆっくりとこちらに近づいてきた。


 驚いて寝台に座ったまま身を引くと、()き通るような長い髪が肩で揺れた。

 その瞬間、ひどい目眩(めまい)に襲われる。

 ずきずきとした(にぶ)い頭痛に目を閉じていると、近くから声をかけられた。


「大丈夫か?」


 穏やかで落ち着いている声は、聞き取りやすくて心地良い。

 おそるおそる目を開けると、そこには案じるようにこちらを(のぞ)きこむ青年の姿があった。


「ちょっと待ってろ、哪吒(なた)を呼んでくる」

「哪吒……?」


 聞き慣れない名前に首を傾げると、「ああ」と男が笑みを浮かべる。


「君を助けてくれた人だ」


 そう言ってそそくさと部屋から出ていく彼の背中を見つめたまま、敖丙はしばらくのあいだ呆然としていた。


 ――事の発端(ほったん)は数刻前に(さかのぼ)る。

 (かくま)っていた人間の少年がいなくなったと同時に、何者かが侵入した(あと)を残して龍族に伝わる秘宝――龍珠が忽然と消え失せた。


 最初は敖丙も耳を疑った。

 龍珠はいつも水晶宮(すいしょうきゅう)の奥、龍族にのみ立ち入ることが許された祈りの場に安置されている。

 そして、部屋の監視を任されているのはみな精鋭(せいえい)蝦兵(かへい)蟹将(かいしょう)である。


 水中に(ただよ)うわずかな霊力の流れも逃さない彼らが不覚を取るなどありえない。

 だがもし犯人が東海に属さない、仙境とも本来なら関わるはずのない俗世の者ならば――。


 敖丙にはいくらか心当たりがあり、すでに犯人の目星もついていた。

 当時は気にも留めていなかったが、東海に属さない者が仙境を自由に出入りできるはずがない。

 しかし龍珠の力を使って抜け出したのなら納得がいく。


 これでも敖丙は東海龍王の三太子(さんたいし)である。

 自分のしたことにはきちんと責任を持つ。

 自分が人間に干渉(かんしょう)したせいでこのような事件が起こってしまったのならば、きちんと龍珠を取り返して混乱を収めなければいけない。


 しかし、そう思って考えなしに飛び出したのが悪かった。


 なくなった龍珠(りゅうじゅ)を追って仙境から出てきた敖丙は、東海を離れて都へ向かうつもりだった。

 だが地上を彷徨(さまよ)っていたとき――迂闊(うかつ)にも妖魔(ようま)(おそ)われたのだ。


 妖魔とは陽に属する神仙とは対になる、陰の気をまとった不浄の存在だ。

 天理に(そむ)き、人の世に害をなす()むべき者たち。

 彼らは人里離れたところに独自の縄張りを持つが、ときに都に現れて人を(たぶら)かしてはその血肉を喰らうという。


 反撃しようとしたが龍珠を持たない敖丙には手も足も出ず、ついには妖魔の術式らしきもので気を失ってしまった。

 記憶はそこで途切れたままだ。


 死んだと思ったが、不思議なことに生きている。

 しかし、一体どうやってここへやってきたというのだろうか。


 なんとか思い出そうとしていたそのとき、再び部屋の扉が開いた。

 続いて部屋に入ってきた人影を見て、敖丙は思わず息を飲んだ。


「ああっ!! 君は、あのときの――」


 (あさ)の着物で包まれた痩躯(そうく)に、後頭部で(ゆる)く結わえられた髪。

 つり上がった目尻が特徴の顔には人好きのする笑みが浮かんでいる。


「よう、また会ったな。元気にしてたか、哥哥(にいちゃん)?」


 目の前に現れたのは、ついこのあいだ助けたばかりの人間の少年だった。


「ど、どうして……」


 驚きのあまりうまく言葉が出てこない。


「どうしても何も、命の恩人が血まみれで倒れてたらそりゃ誰でも助けるだろうよ」

「そう、じゃなくて」


 どうして君がここに、とかすれた声で問い直す。

 そんな敖丙を前にして、少年は「んー」と(あご)に手を当てながら困ったように眉を下げた。


「ここは俺のうちだしなあ……どっちかというと、お前が今ここにいるほうが不自然だぜ」

「え? ああ、そう……?」

()()のせいで、人間じゃないってこともすぐわかるしな」


 それ、と彼が指差したのは敖丙のすぐ真上だ。

 反射的に両手を頭の上に持っていくと、そこには本来あるはずのない硬い感触がある。

 近くにあった銅鏡(どうきょう)を覗くと、案の定隠しきれていない龍の角があらわになっていた。


 それだけではない。

 肌にはうっすらと鱗の模様が浮かび上がり、髪の色はその鱗と同じ薄水色をしている。

 おまけに虹彩(こうさい)までもが蛇のように鋭く縦に割れていたのだ。


「で、わざわざ人里にまで下りてきた理由をお聞かせ願おうか、龍神サマ?」


 その言葉で我に返り、敖丙は仙境を出た目的を思い出した。


「――龍珠」

「ん?」

「龍珠、返してよ」


 ぽかんとした表情を浮かべる彼に向かって、今度ははっきりと告げる。


「君が持ってるんでしょ? 暗いところできれいに光る、このくらいの玉なんだけど……」

「ああ――もしかして、これのことか」


 少年は(ふところ)から小さな巾着袋(きんちゃくぶくろ)を取り出すと、なかに入っていたものを手のひらの上にのせてみせた。

 彼の手のなかに収まったそれは紛れもなく敖丙が探し求めていたものだ。


「ほら、これでいいだろ?」


 かと思えば、ぽい、と()しげもなく投げ捨てられる。

 敖丙は目を()き、慌てながら空中でそれを(つか)み取った。

 特に目立った傷や汚れがないことを確認し、ほっと胸をなでおろす。


 ――よかった。ちゃんと取り戻すことができた。


 久しく感じていなかった強い霊力が手のひらを通して龍珠から伝わってくる。

 たちまち身体中の痛みが引き、姿も人間の子どもとそっくりなものへと変化した。


「すげえ!! それどうやったんだ? 俺が触ったときはなんにも反応しなかったのに!」


 敖丙の変化を目の当たりにした少年が興奮気味に身を乗り出してくる。


 夜明珠(やめいじゅ)とも言われる龍珠は、龍族の霊力そのものを顕現(けんげん)させた宝珠である。

 海の底に位置する水晶宮(すいしょうきゅう)に光をもたらしていたのも、東海の龍族が思うままに神の力を扱うことができたのもすべて龍珠のおかげだ。

 龍神の力は一介(いっかい)の人間が扱えるようなものではない。


 それにしても、まさかそんな人間に助けられることになるなんて。

 しかもそれがよりによってあの少年とは――世のなか不思議な(めぐ)り合わせもあるものだ。

 人間なんかと一緒にいるところを見られたら父上に怒られるだろうなと思いつつも、彼の笑顔を見ると不思議と口角が(ゆる)む。


「おお、笑ってる!」というからかい混じりの歓声(かんせい)を聞き流したところで、敖丙はおもむろに口を開いた。


「ねえ、人間」

「哪吒」


 少年は小さな声で自分の名前を口にしながら苦笑した。


「俺の名前だ。人間って呼ばれるの、あんまり慣れてないからな」


 どこかで聞いたことがある名前だなと思っていたら、それは先ほど部屋にいた男が言っていたものだった。


「哪吒」

「そうだ。俺、もっとお前と話したい」


 また会えるかな、と無意識のうちに投げかけられた言葉にきっと深意はないのだろう。


 できることなら敖丙ももっと彼のことを、人間のことを知りたい。

 けれども実際に敖丙が東海龍王の三太子である限り、それは許されない話だった。

 だめだと理性ではわかっているはずなのに、心の底では真逆の感情に押されつつある。


 そっと手のひらのなかの龍珠を握りしめる。

 しばし考えこみ、敖丙は気づけば首を縦に振っていた。


「ちょっとだけなら……大丈夫、かも?」


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