弐
水晶宮――龍宮水府とも呼ばれるそれは深海に位置し、海神である東海龍王が棲むという仙境である。
ただでさえ日の光も届かない深い海の底は、夜になれば一寸先も見えないような暗闇に包まれる。
すべてが寝静まった真夜中、唯一部屋に光をもたらすのは二匹の水母だけ。
それらが放つ幻想的な光は、ふわふわと不規則にあたりを照らし出している。
「……まずい」
そんななか、何度聞いたかわからない不満げな声に敖丙は薬草を擦りつぶしていた手を止めた。
「肉はないのか? ここに来てからずっと魚しか食べてないぞ。それも生臭いやつばかりだ」
少年はそう言うと、魚の切り身が刺された串を乱暴に皿へ戻した。
堪らず、敖丙は深いため息を吐く。
すると何を思ったのか、黙ったまま俯く敖丙の顔を覗きこみながら少年は諭すように言った。
「おい、哥哥。神や魚がどうかは知らないが、同じものばかり食べていると人間はいつか死ぬんだぞ」
「知ってるけど! 君もずっとここにいるわけじゃないでしょ!? そんなに嫌ならご飯用意しないからね!!」
我慢できずに、つい強い口調で言い返してしまった。
いつもは大きな声を出さない敖丙が怒鳴ったことで、少年もいくらか面食らったらしい。
それ以上文句を言うことはなく、寝台の隅で丸くなると黙って魚を炙ったものをもそもそと咀嚼し始めた。
敖丙は擦り終えた薬の素材を鍋に入れて煎じながら、そんな少年の背中を半目で睨みつける。
あの日怪我を負って溺れていた少年を水晶宮に連れ帰ったあと、敖丙は忙しく動き回った。
傷だらけだった彼を手当して清潔な衣服に着替えさせ、食事や水を与えた。
自室に誰も入らぬよう命じさせ、外出時以外はつきっきりで看病した。
その努力が功を奏してか、少年の容態はすっかり回復したのだが。
「はい、薬湯。今日の分だよ」
「うわっ、また薬かよ。苦すぎるんだよ、これ。毎日飲んでたら頭おかしくなる!」
「これ飲まないと治らないから。文句言わないで飲んでよね」
今まで大切に育てられてきた敖丙は、周囲に感づかれずに人間の子どもを世話をすることに苦労した。
差し出された器を見て露骨に顔を歪める少年の口に、無理やり押しこむようにして薬を飲ませる。
最初の方こそ抵抗していたものの、やがて観念したのか億劫そうに少年の喉が上下した。
しかし喉奥に流れこんできた苦味に耐えかねたらしく、彼は盛大に咳きこんでしまう。
涙を浮かべて苦しむ少年に蜜を溶かした白湯を手渡しながら、敖丙は少年の服をめくりあげて傷口を確認した。
「うん、だいぶ治ってきたね。そろそろ包帯外してもいいかな」
彼の体に刻みつけられた痛々しい傷は、神の妙薬によって今ではほとんどふさがっていた。
まだ痛みは残っているだろうが、このまま何事もなければ数日中にはもといた場所に帰すことができるはずだ。
この関係も、それかぎりで終わらせる。
「元気になったらちゃんと帰りなよ。もう二度とこんなところに来ちゃだめだからね、人間」
「……」
それだけ言うと、敖丙は古くなった包帯と布を持ってさっさと部屋から出ていった。
突き放すような言葉に少年は何も答えなかった。
敖丙の心のどこかにある拭いきれない不安が、言動に出てしまったのかもしれない。
あるいは、彼も本能ですでに理解しているのだろうか。
本来なら自分がここにいてはいけない存在で、神々の領域にそぐわない異分子だということを。
――太古の昔から仙境は神々に、俗世は人間に与えられたものだと相場が決まっている。
創世直後の混沌とした時代、中原にはあらゆる神秘の存在が闊歩していた。
人ならざる彼らは好奇心に富んでいて、戯れに地上に現れては俗世に干渉し、退屈凌ぎに人の真似事をして楽しむ。
人間との共存を図って都に潜むこともあり、人々に吉祥や恩恵をもたらし、清廉なる神と崇められた者もいた。
しかし、その超越した存在と強大な力は人の常識をいとも容易く覆す。
彼らは独自の縄張りを持ち、拮抗した勢力で天地の覇権を奪い合うこともしばしばあった。
森羅万象を巻きこんだ争いの影響は天災となって人の都に及び、時に人間の存在すらも危うくした。
そこで、時の天帝がすべての神々に対して勅令を発したのだ。
俗世に干渉することを禁じる、と。
こうして万物を司る神々は神仙界に君臨し、人と関係のない無為自然で生きることになった――それが、この天地に伝わる神話だ。
海の底で生まれ育ってきた敖丙はそういう話があることこそ知っているものの、真偽まではわからない。
ただひとつわかるのは、その掟が天理として今もなお厳守されているということだ。
神々にとって、天理とは絶対不変の天地の規則である。
けれど少年の命を救ったあの時、敖丙は初めてその規則に楯突いてしまったのだ。
耐えられなかった。
怪我をした人間の子どもを見捨てておけなかった。
あれほど血が流れていて救いを求めているのに、介入してはいけないという。
少年を助けたことを後悔していないか、と問われれば嘘になる。
あれ以来、長らく自分のなかで築き上げてきた何かが崩れ落ちてしまった気がしてならない。
しかし決して、自分自身に失望したわけではない。
果たして、間違っているのはあのとき咄嗟に取った行動か、それともこれまで学んできたことだろうか。
疑問に対する答えは出ないまま、気づけば夜が明けていた。
万が一、天が罪に問うてきたら――そんな不安こそ残っていたものの、時間とともにふくらんだ疑問は薄れてついには腹の底で霧散してしまった。
そして数日経ったある朝、少年はなんの前触れもなく敖丙の前から姿を消した。
ほんの少しだけ焦ったが、宮殿内はいつもどおり静かだったためどうやら見つかったわけではないようだ。
きっと自分のいるべき場所に帰ったのだろう。
そのときはまだ何も疑問を持たずに、ただ不思議と晴れない己の心を奮い起こすのに必死だった。
もう季節は夏だというのに、凍りつくように寒く暗い朝だった。
まもなく水晶宮に激震が走る。
仙境の異変に気づいた公卿の鰻鱺が宮殿中に驚くべき知らせをもたらしたのだ。
――曰く、龍珠が何者かによって持ち去られていた、と。