壱
――やってしまった。
荒い息を吐いた敖丙は、胸中で渦巻く動揺を抑えこみながら、まっすぐ水晶宮に向かう潮の流れを辿っていた。
小脇に抱えた名も知らぬ少年の体が、ぬるりと不自然にすべって腕から離れそうになる。
少年が血を流しているのだとわかったのは、いつもの濃い海水の味に金臭さが混じっていたからだ。
己とほとんど同じ大きさの少年を抱え直しながら、ただまっすぐ水晶宮を目指して突っ切る。
宮殿に戻ったら、急いでこの人間を匿い、治療をしなければいけない。
冷静に考えながらも、敖丙の心の底では一抹の葛藤が絶えず燻っていた。
もしも誰かに見られてしまえば。
もしも人間に、俗世に干渉しようとしていることを知られてしまえば――果たして、自分はこのまま東海龍王の三太子としていられるのだろうか。
そこまで考えて敖丙は頭を振った。
もう賽は投げられてしまったのだ。
この小さな生物を見捨てておけなかった時点で。
そして、沈みゆく少年の手を取ったその瞬間から、引き返すことなどできなくなっていた。
海水に紛れて微かに漂う血の臭いが、彼の決意をさらに強く固めさせる。
もう後戻りはできない。
そう自分に言い聞かせながら、敖丙は暗闇のなか水晶宮の珊瑚が放つ光を追いかけた。
神世末年、晩春のことであった。