その剣に花を贈る
ランス王国の王太子であるアナベルにローディウム帝国から縁談が舞い込んだのは、彼女が十九歳の時だった。
アナベルはつい最近、婚約が破談になったばかりだった。
未来の王配となるはずだったその男は、密かに別の令嬢と恋人となり、彼女を囲おうと画策していたのだ。婚姻の前からそんなことをしていた男と結婚するわけにはいかず、破談となったわけである。
別にアナベルは元婚約者を好きだったわけではないし、前々からその言動に不信感を覚えていたので、むしろ破談は喜んで受け入れたのだが、最後に彼に会った時に言われたことが引っかかっていた。
「貴女みたいな女だてらに剣を振る野蛮な人間より、か弱い彼女を守りたいだけだったのに」
──ランス王国は魔物を討伐して生存圏を広げた国である。それゆえ王家に生まれた者は一定以上の武技が求められる。
アナベルもまた、幼少期より剣を習い、親しんできた。
だがその才能は、義務としての実力を逸脱していた。
アナベルは十歳を過ぎた頃から、大人の騎士と渡り合えるだけの剣を身に着けていた。それは成長するごとに冴え渡り、現在では騎士団の中で相手になるのは片手で数えられるほどだ。その数少ない者達も、本気のアナベルに勝てる者はいない。
魔物の脅威から民を護る王太子としては頼もしい実力が、元婚約者にとっては厭わしい部分だったらしい。
未来の女王の伴侶になるのだから、血筋は確かで、彼自身も相当な実力者だった。だがそれだけに女のアナベルに勝てない事実を認められなかったのかもしれない。
別にアナベルは自分に勝てる人間でなれば婿にしないなどと言ったことは無いし、思ってもいない。だが彼はアナベルの圧倒的な実力に向き合えず、別の女性に逃げたのである。
そんな折だ、ローディウム帝国から打診があったのは。
「ルキウス──皇弟殿下との婚約、ですか」
父王の執務室を訪れたアナベルは首を傾げた。
「そうだ。おまえも覚えているだろう。六年前まで、我が国の騎士団に出入りしていたのだからな」
「ええ、まあ⋯⋯」
アナベルは頷いた。
現皇帝の弟ルキウスは、前皇帝である父親に疎まれていた。母親である皇妃が出産と同時に死亡したため、皇妃を深く愛していた前皇帝は複雑な感情を抱いていたらしい。それを気の毒に思った兄の計らいで、留学という形でこの国にやってきた。
アナベルとルキウスは、彼が王国騎士団に出入りしている時に出会った。
ルキウスは線の細い少年だった。剣の才能はあったが身体ができあがっていなかったため、筋力と体力が圧倒的に足りなかった。同じ弱点を持つ者同士ということで、アナベルとはよく打ち合いをしていたし、その合間にぽつりぽつりと話すこともあった。
だがそんな日々は唐突に終わりを告げる。前皇帝が急死したのだ。急きょ皇帝となった兄を支えるべく、ルキウスは帰国した。
帰国の挨拶は無かった。ただ簡素な手紙で帰国する旨とその理由、挨拶できなかったことへの謝罪が伝えられた。
「帝国も随分とごたついていたが、最近は落ち着いてきているようだ。そこで、両国の関係強化のために婚約を結びたいとのことだ」
「なるほど」
「勿論、断ることもできる。ほかに婚約したい者がいるなら、言ってくれ」
「いえ、特にそういう方はいません。ありがたくお受けします」
「そうか。ではあちらには了承の手紙を送ろう」
「お願いいたします」
アナベルは頭を下げ、執務室から退室した。
───
思えば、あれは初恋だったな──当時を振り返り、アナベルは思う。
ルキウスとは男女の仲に発展したことは無い。それらしい会話も、触れ合いも無かった。贈り物さえしたことがない。
それでもアナベルがルキウスを好きだと思えたのは、彼の剣筋が美しかったから。剣にひたすら真摯だったから。
その姿に同じ剣士として心惹かれたのは、自然の流れだったろう。
ただ、その時は同世代の尊敬できる存在程度に留まっていた。ルキウスが王国を去り、六年の歳月を経て婚約する運びとなって、ようやくあれは恋だったと思い返すことができたのだ。
そんな相手と婚約することができるのは、幸運だろう。顔も知らない、年齢差も大きい相手と結婚することも多い王侯貴族である。初恋の人との婚約など、夢見がちな令嬢なら天にものぼる気持ちになるはずだ。
もっともアナベルは、それで浮かれるほど夢想家ではなかったが。
「そもそも人となりが変わってない保証も無いしね」
自身の執務室で書類をまとめ、一息ついたアナベルはそう呟いた。
六年という歳月は、少年少女を大人にするには充分な時間だ。アナベルだって、少女期からそれなりに変わった。ルキウスだって同じだろう。
アナベルはしばし考え、おもむろに便箋を取り出した。
相手の人となりを知るには、直接会うのが一番である。だが隣国とはいえ帝国まで会いに行くには時間がかかり過ぎる。お互い忙しい身の上だから、おそらく会えるのは正式に婚約を結ぶ時になるだろう。
ならば会う必要の無い交流で相手を見定めるしかない。
すなわち、文通である。
「ルキウスが乗ってくれるといいけど」
アナベルはしばらく便箋とにらめっこをしていたが、観念してペンを走らせ始めた。
『拝啓、ルキウス殿下へ。
お久しぶりです、お元気でしょうか。このたび婚約を結ぶことになり、改めてご挨拶を申し上げるため、ペンを取っております。
知らぬ仲ではないとはいえ、六年前に別れたきりである貴方様はどのようにお過ごしだったのでしょうか。
決して平穏な日々ではなかったでしょう。お兄様である皇帝陛下を支えるため、決意と共に帰国された貴方が送った六年は、大変な六年だったでしょう。
そんな貴方がこのたび私の未来の夫になること、どのようにお考えなのでしょうか。
私は、今の貴方が知りたいのです。
お返事お待ちしております。
未来の妻、アナベルより』
───
返事が来たのは二週間後だった。帝国との距離を思えば早い返事に、アナベルは面喰らう。
何より驚いたのは、手紙に小さな花束が付いてきたことだ。紫のプリムラの花束はアナベルの片手に収まるほどの大きさで、魔法で長持ちするように加工されている。
アナベルは手紙を開いた。
『拝啓、アナベル王太子殿下へ。
手紙拝見いたしました。まずは改めてご挨拶を。
お久しぶりです。貴女のご活躍は帝国にも届いております。こうして再び縁ができたこと、驚くと共に嬉しく思います。
貴女の仰る通り、この六年間は決して簡単な日々ではありませんでした。あえてその苦労をここで語るようなことはしませんが、貴女に理解を示していただけたこと、そのような方と縁付くことができることは、私にとって幸福なことです。
またこのたび、兄である皇帝陛下に共に並び立つにふさわしい方が現れたことで、私の肩の荷が降りました。近々陛下とその方が婚約される運びとなりましたので、私の方も結婚を考えていた折、殿下が新たに婚約者を探しておられると聞き及んだ陛下がそちらに話を持ちかけた形となります。
貴女の夫になること、つまり他国に行くことは、未だ戸惑いとためらいがあります。ですが陛下が私のことを考えて組んだ縁談ならば、きっと意味があるのでしょう。
貴女に会える日を楽しみにしております。
未来の夫、ルキウスより』
アナベルは手紙を手に、しばし黙り込んだ。
皇帝に婚約者ができるという話は初めて聞いたが、そういえば去年の皇帝の誕生日を祝う夜会に参加した父王が、皇帝陛下の隣に美しい女性がいた、と話していた。
のちにその人が帝国の大規模なスタンピードにて皇帝と共に大いに活躍したと聞き、同性としていつか会ってみたいと思っていたのだが、もしやその女性だろうか。
帝国も王国と同様、魔物を討伐して領土を広げた国だ。それゆえ、皇家の人間も戦う力が求められると聞く。事実、現皇帝は帝国一の剣士だという。
その皇帝と肩を並べられる女性なら、なるほどルキウスも安心して国を離れられるだろう。
勿論武人としての技量と皇妃に求められる資質は別だが、このニュアンスならそちらも問題無いようだ。とはいえ、直接確かめるまでは確信できないが。
アナベルは側近に皇帝の婚約者らしき女性の人となり、ルキウスとの関係性などを調べるよう指示を出し、ペンを手に取った。
『拝啓、ルキウス皇弟殿下へ。
お返事ありがたくお受けしました。まずは兄君の皇帝陛下のご慶事をお祝い申し上げます。正式発表の際には、改めて国としてご挨拶させていただきます。そして、貴方が憂いなく我が国に婿入りできることを嬉しく思います。
私の我儘を聞いていただくだけでなく、その上可愛らしい贈り物まで付けてくださり、ありがとう存じます。貴方の心遣いに応えられるかは解りませんが、私も心ばかりの贈り物をさせていただこうかと思います。どうかご活用くださいませ。
未来の妻、アナベルより』
書き終えてから、アナベルは引き出しから一本のペンを取り出した。
黒に銀の細工が施されたそれは、城下の視察に出た際、気まぐれに入った雑貨店のものだった。
そう高いものではない。店自体は富裕層向けだが庶民も出入りできるところだったし、アナベルが普段使っているペンの方がよほど高級品だろう。
だが職人が手ずから彫った蔓薔薇の細工は、値段以上の美しさがあった。
聞こえてくるルキウスの評判を思えば武具関連を贈る方がいいのかもしれない。だが一目見て、アナベルはこれを贈りたいと思った。
「銀といえば、ルキウスの髪よね」
アナベルはふ、と唇を緩ませた。
黄金の髪を持つ皇帝に対し、ルキウスは白銀の髪をしていた。それに黒い服を好んで着ていたから、アナベルの中のルキウスといえば、銀と黒だ。
そこまで考えて、アナベルはルキウスの色まで詳細に覚えていた自分に気付き、赤面した。
───
返事は前回同様二週間後だった。今度は蒼いリボンで飾られた紫のフリージアが一輪付いている。
『拝啓、アナベル王太子殿下へ。
皇帝陛下への祝いの言葉と私への贈り物をありがとう存じます。さっそくペンを使ってお返事を書かせていただいております。
殿下の言葉を皇帝陛下にお伝えしたところ、婚約発表の際は招待状を送りたいとのことでした。その際はぜひ私にエスコートさせてください。
貴女は手紙のやり取りを我儘と言いますが、未来の伴侶のことを知りたいと思うのは当然のことです。知らぬ仲ではないとはいえ、殿下と最後に会ったのは六年も前のこと。互いに成長し、変わったことも多いでしょう。私も殿下がどのような女性になられたのか知りたいと思います。
どうか、貴女との繋がりが末永く続きますよう。
未来の夫、ルキウスより』
アナベルは、自分が贈ったペンで書かれたという文字をなぞり、その内容をつい考え込んでしまった。
皇帝が祝いの言葉を受け取ってくれた、直接招待状を送りたいというのはいい。いずれ義理の兄妹になるのだから、個人的に招待状が送られるのは今後増えるだろう。
だがその後に続いた言葉は、アナベルにとって見慣れないものだった。
「エスコート⋯⋯?」
アナベルは、血縁者以外のエスコートを受けたことがほとんど無い。元婚約者はアナベルをエスコートすることを嫌がり、必要最低限しか共に社交に出なかったからだ。
共に出てもファーストダンスが済めばそそくさと離れていったし、アナベルもあえて追いかけるようなことはしなかった。思えば、だいぶ早い段階から婚約関係は破綻していたように思う。
だからこれが、非公式とはいえちゃんとした、初めてのエスコートの誘いだった。
「そうか⋯⋯婚約するんだから、私のエスコートは彼がするのよね」
エスコートどころか、ファーストダンスもルキウスとすることになる。何だか不思議な感覚だった。
アナベルは手紙に添えるための蒼い尾羽根を取り出した。
尾羽根はシムルグという魔物のものだ。人を襲うことの無い、森の樹の実を食べる無害な魔鳥だが目撃例が少なく、抜け落ちた羽根は幸運のお守りになると言われる。討伐に向かった先でたまたま手に入れたものだ。
効果の有無はさておき、これもまた贈り物にふさわしいものに違いないだろう。
アナベルはペンを手に取った。
『拝啓、ルキウス皇弟殿下へ。
贈ったペンを使ってのお返事、嬉しく思います。
皇帝陛下のご招待を受けられる栄誉、望外の喜びです。貴方の隣でご挨拶にうかがえる日を心よりお待ちしております。お礼というわけではありませんが、幸運を招くシムルグの尾羽根を同封いたします。貴方の元にささやかな幸福がありますように。
そして、貴方も私と同じ気持ちであることを嬉しく思います。正式に婚約するまでの間に、少しでも互いのことを知られたらと思います。
ところで、前回も今回も花を贈っていただきましたが、今の殿下は花がお好きなのでしょうか? 私も花を贈るべきかしら、と愚考する日々です。
未来の妻、アナベルより』
───
今回の返事には花は付いていなかった。代わりに手の平に収まる大きさの箱が付いていた。
開けて見ると、大輪の花を模した銀製のバレッタが入っていた。宝石の付いていないそれは、シンプルだからこそ繊細な細工の美しさが際立っている。
アナベルは手紙を読んでみた。
『拝啓、アナベル王太子殿下へ。
シムルグの尾羽根、ありがたくお受け取りしました。エスコートをお受けいただいたことと合わせて、感謝申し上げます。
花を贈っていたのは、私が女性に贈るものを花ぐらいしか知らない朴念仁だからです。お恥ずかしい話ですが、二通目を送った際に、皇帝陛下から婚約者なら装飾品のひとつでも贈れと言われ、ようやく装飾品に思い至ったのです。
私は殿下の今の容姿を絵姿でしか知らないゆえ、殿下の美しさに見合うものを贈れた自信はありません。私がよいと思ったものを貴女に気に入っていただける自信もありません。ただ、貴女を想って贈ったこと、これだけは事実です。
花は好きでも嫌いでもなかったのですが、貴女に贈るために多少なりとも調べて、その種類の多さに感嘆しました。皇宮の庭園を整える庭師達には頭が下がる思いです。今回贈らせていただいたのは、ラナンキュラスという花を模したものです。
もしリクエストが許されるのなら、形に残るものがいいと私は思っております。貴女はどのような贈り物がいいのでしょうか。
未来の夫、ルキウスより』
読み終えたアナベルは、つい吹き出してしまった。
ルキウスの絵姿なら、アナベルも知っている。婚約を聞かされた際に、帝国から取り寄せたのだ。
描かれた姿は、六年前から随分様変わりしていた。
どちらかと言えば中性的だった顔は男性らしい精悍な顔付きに、身体も屈強になり、誇張されていることを抜きにしても立派な武人姿となっていた。
そんな彼がせっせと花を調べ、どれを贈るべきかと右往左往しているのを想像して、何だか面白くなったのだ。
おそらく皇帝もそんな弟を見兼ねて助言したのだろう。ちなみに皇帝は顔立ちだけなら貴公子然としているから、武骨な男に美男子が説教するという、これまた面白い図ができあがる。
「そういえば、ルキウスって私と話してても、大抵剣の話しかしなかったな」
アナベル自身は女性らしい話題など求めていなかったからよかったものの、普通の令嬢だったら途中で愛想を尽かしていただろう。実際顔に釣られて寄ってきた少女達が、潮が引くように去っていくのを見たことがある。
そんな彼が花を贈ろうと思うだけでも、進歩していると言えるのかもしれない。
「しかし、形に残るものか⋯⋯今回は消え物にしちゃったな」
アナベルは香油瓶を手に眉尻を下げた。
花が好きなのか、と手紙で問いはしたものの、アナベルは本気でルキウスが花を好きだとは思っていなかった。女性に花を贈れるようになったんだな、と思ったぐらいで、軽い気持ちで訊いたに過ぎない。
ただ、花を贈るぐらいなら匂いは嫌いではないだろうな、と考え、男性用の香油を買ってみたのだ。
この香油は騎士階級の者が好んで使うもので、ミントとレモンの爽やかな香りがする。ルキウスに合うかは解らないが、気に入ってくれるといいな、と思う。
『拝啓、ルキウス皇弟殿下へ。
バレッタを贈ってくださり、ありがとう存じます。私も今回まで婚約者から装飾品を贈られるという発想がありませんでしたので、お相子ですね。皇帝陛下に気にかけていただけているようで、汗顔の至りです。
手元に残るものがいい、とのことでしたが、お返事いただいた時点で消え物である香油を準備していました。今回はこれを贈らせていただいて、次回から貴方のリクエストにお応えしようと思います。
この香りが貴方の気に入るものだといいのですが⋯⋯もし気に入っていただけたら、また同じものを贈らせてください。
ちなみに、私はいつもライラックの花の香油を使ってます。私自身は花に詳しいというわけではないのですが、花そのものは好きです。だから花も、花を象ったバレッタも嬉しかったです。叶うなら、これからも花の贈り物をしていただけたらと思っています。
貴方の未来の妻、アナベルより』
───
それから、アナベルとルキウスの文通は一年に渡り続けられた。手紙には必ず、何かしらの贈り物を付けた。
アナベルはカラヴァットピンや紙紐、ハンカチーフなど、日常で身に付けられるものや普段遣いのものを。
ルキウスは首飾りや指環、腕環など、その身を飾り立てられるものを。
時々、それに合わせて香油と花を贈り合ったりもした。その香油と花も、その時々によって変わった。
その中で、丁寧な書き方だった手紙が自然と砕けたものになっていく。気付けば手紙は、長年の友人のような、あるいは熟年の恋人のような、フラットなものになっていた。
『近いうちに、兄の婚約発表の夜会が開催される。招待状と一緒にドレスを贈りたいんだが、サイズと好きな色を教えてくれ』
『解ったわ。私も夜会服を贈りたいから、サイズと好きな色を教えてちょうだい』
なんてやり取りができるぐらいには、フラットである。
今思うとサイズのやり取りはどうだったのかしら、とアナベルは遠い目になった。
現在彼女は、帝国に向かう馬車の中にいる。ルキウスが手紙に書いた通り、皇帝の婚約発表の夜会の招待状が届いたのだ。こういった場合、婚約者と連名で送られてくるのだが、招待状には皇帝の名前しかなかった。
アナベルが事前に仕入れた情報によると、婚約者は一応名を伏せているものの、知ってる人は知っているという状態で、ようは公然の秘密になっているようだ。
なぜ名前を伏せているのかまでは解らなかったし、ルキウスも手紙で書かなかったため、帝国の裏事情があるのだろうと深く追及はしなかった。
夜会は二週間後。皇弟の婚約者としての打ち合わせもあるため、アナベルは早めに帝国入りした。
皇都へはまだ二日かかり、それまでは整備された道を移動する。だが整備されたとはいえ、魔物が出る可能性は低くないため、周囲は護衛の騎士達で固め、アナベル自身も軍服を着込み、剣を手元に置いている。
帝国で出現する魔物は、王国よりも強いと聞く。さすがにこんなところに出る魔物まで格段に強いとは思えないが、油断だけはしないようにしようと思う。
──そんなことを考えていたからだろうか。まさか、こんな大物にぶち当たるなんて。
アナベルは思わず笑ってしまった。それは他者から見れば王女らしからぬ、凶暴な笑みに見えたことだろう。
旅程は順調に行くかと思われた。ただ空が曇りだしたタイミングで、魔物の姿をちらほら見るようになったのだ。
人を襲う魔物の中には、太陽光を嫌い、曇り空や雨の日、夜などに活動するものも多い。さすがに武装して集団移動する人間を襲うことは少ないが、もしかしたら、と思って騎士達に警戒を促した。
それから間もなくして、狼に似た姿の魔物の群れが襲撃してきた。人間よりもひと回り以上大きな魔狼達は、その中でひときわ大きな個体を筆頭にして動いている。
それを見た瞬間、アナベルは馬車から飛び出した。
「殿下!?」
「あの個体は私が相手をする! おまえ達はふたり一組になってほかの魔狼達を各個撃破しろ」
言葉少なに指示を飛ばして、アナベルは巨大魔狼に対峙した。
巨大魔狼は身体からちろちろと炎が吹き出ており、一目で普通の騎士では相手にならないことが見て取れる。
アナベルは剣を抜き、自身に身体強化、剣に氷の魔法をまとわせた。
これでこの個体とも渡り合えるはずだが、アナベルの魔力はそれほど多くない。長期戦はこちらが押し切られる可能性が高いから、速攻で決めなければならなかった。
だんっ、と地面を蹴ったアナベルは、一息で巨大魔狼の身体の下に入り込んだ。こちらを見失った巨大魔狼が視線を巡らせるより早く、その喉に剣を深く突き立てる。
巨大魔狼は声無き絶叫を上げ、横倒しになった。直前で下から抜け出したアナベルは、剣を構え直そうとして目を見開く。
剣先が折れていたのだ。刃は半分以上残っているものの、もう突き刺すことはできなくなっていた。
──使えなくは無いけど、新調しなきゃな。
冷静にそんなことを思いながら、アナベルは巨大魔狼の息の根が止まっていることを確認し、周囲を見回した。
思いのほか、騎士達は魔狼に苦戦していた。今のところ死人は出ていないが、怪我人は増えていく。彼らを助けるため、アナベルが足を踏み出そうとした時だった。
遠くから馬の蹄の音が聞こえた。それも、大量に。
はっとして顔を上げれば、皇都の方角から騎馬の集団が見える。その先頭には、長い銀髪をたなびかせた男がいた。
直感で、それが誰なのか理解する。
「ルキウス⋯⋯!」
アナベルの声が聞こえたのか否か、騎馬を率いた男──ルキウスは、直線上にいる魔狼達を剣や騎馬で薙ぎ払い、彼女の目前まで現れた。
漆黒の軍服に身を包んだルキウスは、逞しい身体つきに精悍な顔立ちの偉丈夫となっていた。記憶の中の線の細い少年とは似ても似つかないが、日光を照り返す髪と、サファイアのように輝く蒼い瞳が、懐かしい面影を想起させる。
「アナベル、久しぶり」
「久しぶり! まさかこんなところで再会になるなんてね」
「全くだ。兄上のことを笑えない」
ルキウスの言葉に首を傾げる間も無く、彼が率いた騎士達はアナベルの騎士達と協力して次々と魔狼を討ち取っていく。
アナベルもそれに参加しようとして、ルキウスに待ったをかけられた。
「剣、折れてるぞ」
「ああ、これ? あれを倒した時にね」
巨大魔狼の死骸を指し、アナベルは肩をすくめた。
「でも戦えないわけじゃないし、問題無いわ」
「⋯⋯そういえば君、木剣が折れてもそれで相手を叩きのめしたことがあったな」
幼い頃のことを持ち出してため息をついたルキウスは、騎馬の横にかけられていた剣を鞘ごとアナベルに投げ渡した。
「君に贈るつもりだった剣だ。どうせなら初陣を飾ってやれ」
「これは⋯⋯魔剣じゃない!」
アナベルは歓喜の声を上げた。
魔剣は文字通り魔法のかかった剣だ。その性能はピンキリであるが、下位のものでも斬れ味は鋼の剣をはるかに上回る。その分入手は限られていて、魔剣を造れるほどの武器職人はそうそういない。
さっそく抜いてみると、刃がほのかに白く輝き、魔力を通してみるとその伝導率が今までのものより段違いで早い。
そこでアナベルは、鞘と鍔、護拳部分に薔薇の彫刻が施されているのに気付いた。
「⋯⋯本当にありがとう。貴方って律儀ね」
「お互い様だと思うけどな」
照れたように笑うルキウスに微笑を返し、アナベルは走り出した。
───
魔狼達の討伐は死者を出すこと無く無事に終了した。怪我人は多かったが、後に引くような重傷者はいなかった。
「兄上が迎えに行くように言ってくれたから、間に合ったんだ。礼なら後で兄上に言ってくれ」
そうして彼の先導のもと、アナベル達は皇都入りを果たした。怪我人は治療のために治療師を手配してもらい、アナベルは皇帝に目通りして、当日の打ち合わせを行う。
その際、皇帝の婚約者に会うことができた。
婚約者は人間ではなくエルフの女性で、たおやかな印象の絶世の美女だった。だが立ち居振る舞いには隙が無く、その身には膨大な魔力を秘めているのが解った。
ちなみに皇帝との馴れ初めは変異種ワイバーンの群れの討伐戦とのこと。劇的な出会いだが、血なまぐさ過ぎる。しかも惚気として話すものだから、非常に反応に困った。
そんな対面を果たしつつ、夜会当日となった。
アナベルはルキウスから贈られたドレスと装飾品で着飾り、ルキウスを待っていた。
鮮やかな蒼い布に銀糸で鈴蘭の刺繍がされた上品なドレスは、自分には可愛すぎるのでは、とアナベルは危惧したが、王国から連れてきた侍女と帝国の侍女、双方がお似合いです、と褒めそやすので、ちぐはぐではないのだろうと思うことにする。
装飾品は銀製にサファイアが付いているものに統一されており、改めて見るとルキウスの色になっていることに気付いて、紅顔を抑えられなかった。
アナベルが悶々としていると、ルキウスが部屋に現れた。
ルキウスは暗緑色の夜会服を着ていた。カラヴァットと髪をまとめる紙紐を除けば装飾品は金細工で、ルビーが控え目に付いている。
ルキウスが身に付けているものもアナベルの赤髪と緑の瞳を思わせるものであることに気付き、アナベルの体温が一気に上がった。
──私も、彼に自分の色を贈っていた。
それらはアナベルが贈ってきたものである。無意識にルキウスに己の色をまとわせていた事実に、アナベルは穴に埋まりたい気分だった。
だがここは穴どころか、身を隠す場所すら無い。しかたがなく身体を縮こませたアナベルに、ルキウスは首を傾げた。
「どうした、アナベル」
「い、いえ⋯⋯急に恥ずかしくなって⋯⋯」
「⋯⋯? よく解らないが──ドレス、似合っている。少々不安だったが、見立てが合ってよかった」
「⋯⋯え? まさか、これ」
「俺が考えた。といっても、仕立て師に細かい要望を伝えた程度だが」
「そ、そうなんだ⋯⋯」
アナベルは反応に困った。仕立てを丸投げした自分が、横着に見えてしまう。
それをどう取ったのか、ルキウスは眉尻を下げた。
「デザインはやり過ぎだったか? 贈り物は自分でちゃんと見て決めろと、アドバイスされたんだが⋯⋯」
「いや、それは人によるんじゃないかしら。私は嫌だとは思わなかったし⋯⋯逆に嫌がる人もいるんじゃない?」
「なら問題無いな。ドレスを贈るのは、アナベルだけだ」
ほっとした様子のルキウスに、アナベルはぽかんとした後、照れてつい、彼の腕を殴った。
「痛!? き、急に何だ?」
「うるさい、天然たらし! 何でそんな格好よくなっているのよ」
「⋯⋯褒められているのか?」
困惑するルキウスを横目に、アナベルは深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
──幼い頃の初恋の相手。
──淡い気持ちを与えてくれた想い出の相手。
──今は、未来の夫になる相手。
本当に結婚できるのか、できたとしてその先に幸福があるのか、それ以前に王国を共に盛り立てていけるのか。
それは今は解らない。少女の頃、こんな現在を予想できなかったのと同じように、未来はその時にならないと解らない。
──だけど、この人と未来を紡ぎたいという気持ちは確かだ。
──彼が手紙のたびに贈ってくれた花のように、美しく、柔らかく、優しい気持ちは確かだ。
アナベルは微笑みを浮かべて、手を差し出した。
「ルキウス皇弟殿下、エスコートをお願いできますか?」
「──勿論です、アナベル王太子殿下」
ルキウスはその手を取り、微笑を返す。
未来へと踏み出す、最初の一歩だった。
はじめましての人もそうでない人も、こんにちは、沙伊です。
手紙と初恋をテーマにした短編でした。作中に出す花や贈り物を考えるのが個人的に楽しかったです。
以下作中で書ききれなかった設定↓
アナベルの元婚約者:王太子との婚約が破談になるだけでなく愛人を囲おうとしたことで実家を勘当された。愛人と共に王都を追放されたので、どこかで平民として暮らしている。剣の実力はあるので、傭兵か冒険者になってるかも。
ドレスと夜会服について:それぞれ王宮皇宮お抱えの仕立て師によって作られた。アナベルはサイズと色を指定しただけ、ルキウスは刺繍や形なども指定した。
皇帝:本来なら皇帝になるはずではなかったが、皇太子だった兄も急死したので急きょ皇帝に。そのせいでごたごしていたが、ルキウスと共に平定し、最近ようやく落ち着いた。名前はユリウス。
皇帝の婚約者:エルフの魔術師で貴族出身。めちゃくちゃ強い。