税金の使い道
男は目を覚ました。目の前の靄がゆっくり晴れていくにつれて、頭も次第にはっきりとしていく。今、浮かび上がった記憶は、まるで夢の断片のように朧気で、しっかりと掴んでいないとどこかへ消え去ってしまいそうだった。
拳を握り、記憶をかみしめる。そして、彼は理解した。自分は――
「ちくしょう……ちくしょおおおおおおぉぉぉう!」
死んだのだと。彼は膝をつき、雲のような地面を拳で叩いた。ここは間違いなく、死後の世界。死の実感がじわじわと胸の奥から湧き上がってくる。
彼は叫んだ。生きていたこと、人生が今、過去になろうとしている。受け入れられるはずがない。濁流の中、流されまいと必死に岩にしがみつくように抗った。
そんな彼に、そっと声をかける者がいた。
「あああぁぁぁ! ちくしょおおおおおう!」
「こんにちは。ようこそ、天――」
「だああああああ! なんでだよおおおぉぉぉ!」
「あの」
「クソがよおおおぉぉぉ!」
「ふふっ、汚い言葉を使っては天国に入れませんよ」
「天国ぅ……?」
彼は顔を上げた。そこには天使が立っていた。天使は微笑みながら「そうです、ご覧あれ!」と手を広げた。
目の前には、純白の大理石のアーチと金の装飾が施された壮麗な門がそびえていた。天国の門だ。今、重厚な音を立ててゆっくりと開き、中から翼をはためかせ、金色のハープを奏でる小さな天使たちが現れた。
天使たちは彼の周りを飛び回り、歌で祝福しながら金色のカゴから花びらを撒いた。門の向こうには、高級リゾートのエントランスのような光景が広がり、そこにいる天使たちが彼に向かってお辞儀をした。
「どうです? 天国に行きたくなったでしょう? 今からあなたをご案内――」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ! クソォォォ!」
「よくその熱量を保てますね……。でも、わかりますよ。死んだことが悔しいんですよね? 皆さん、最初は動揺するんですよ」
「お前なんぞにわかるものかあ……」
「顔、怖」
「こんな馬鹿な話があるか! おれはまだ五十六だぞ!」
「いや、全然若くないと思いますけど……」
「違う! もう少しで定年退職だったんだ! 退職後の計画も立てていたんだよ! そのために、健康管理も徹底していた! 毎朝ランニングして、野菜中心の食生活、定期的な健康診断! それがよおぉぉぉ!」
「えっと、あなたは確か、心臓発作であっけなく――」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
「まあ、仕方ないですよ。そういうこともあります。ですが、朗報です。あなたには天国に行く資格があります。生前、あなたは真面目に働き――」
「クソクソクソったれがよぉぉ! ぐちぐち無駄に高い声でうるせえんだよおぉぉ!」
「あれ、評価が間違ってたのかな……」
「なんでおれが死ななきゃならねえんだよ! 神なんていねえのかよ!」
「いますよ。わかるでしょ。天国があるんですから」
「あああぁぁぁ、音楽を止めろよ! うるせえなあ! ああああああ!」
「ひょっとしてあなた、悪魔?」
「はあ……」
「おっ、やっと落ち着きましたね。そうです、リラックスして。あなたは今、永遠の安らぎの地の前にいるんですからね」
「すうぅぅぅ、はあぁぁ……」
「そうそう、深呼吸して。さあ、立てますか」
「クソがああああああぁぁぁ!」
「助走だったのか……」
「ふう、すまなかったね」
「えっ、急に冷静ですね。もう落ち着いたんですか?」
「ああ、取り乱して悪かった」
「ええ、本当に。本当ですよ」
「それで、天国に行けるのか。いやあ、ありがたいね」
「ええ、はい。まあ、どっちがあなたの本性かわかりませんけど、行きましょうか。ご案内しますよ」
「ありがとう……いや、ちょっと待ってくれ。この門……」
「ん? どうかしました?」
「ここに、【日本政府協力】と書いてあるが、これは?」
「ああ、天国を改築する際、各国の政府から協力金をいただいているので、その証ですよ」
「協力金? 現世のお金が天国に関係あるのか?」
「ええ、私の担当じゃないので、その辺の仕組みは詳しくないですが、毎年いただいていますよ」
「じゃあ、政府とやり取りしてるのか?」
「はい、協力金の額に応じて、天国行きの枠が決まるんです」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」
「もう、またかよ……」
「おれの税金がこんなところに使われてたのかよおぉぉぉ! どうりで家の近くの道路が何年も直らねえと思ったよおぉぉぉああああああ!」
「それは知りませんけど」
「……おい、まさか政治家は無条件で天国行きなのか? 連中が交渉しないわけないもんな」
「まあ、基本的には。逮捕されていなければ天国行きです」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ! クソがあああぁぁぁぁ! どうりで全然逮捕されないわけだよおぉぉぉあああああ! そりゃ嫌だよなああああああ! 裏金をもらってても、うまく逃げ切りやがってよおおおぉぉぉ!」
「あの、でもあなたの税金は有効活用されてますよ。ほら、天国という素晴らしい場所の運営に役立っているわけですから」
「教育! 医療! 福祉に使われるべきだろ!」
「やっぱり、善人なのか?」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ! なんのために節制してきたと思ってんだよおぉぉぉまだ死にたくなかったよおぉぉぉぉぉぉ!」
「もう、いつまで続けるんですか……」
「ああああああぁぁぁ!」
「はあ……では、ちょっとこちらに来てください」
「あああぁぁ? まさか、生き返らせてくれるのか?」
「それは無理です。さあ、この穴を覗いてみてください」
「ああああああぁぁぁ!」
「叫ばなくていいです。そういう穴じゃありませんよ」
「ん? 何か見えるぞ。これは……」
「そうです。地獄ですよ」
「悲痛な叫び声がする……」
「それはさっきのあなたの声が反響しているだけです。でも地獄は酷い場所ですよ。税金を一切使わずに運営してますからね。荒れ放題ですよ」
「そ、そうなのか……」
「それで、どうします? 天国に行きますか? それとも……」
「……まあ、こういう税金の使い道も悪くないのかもしれないな」
彼は憑き物が落ちたように微笑み、天使と共に天国の門をくぐったのだった。
「いや、ちょっと待ってくれ。あれは何だ……?」
「はい?」
門を抜けた瞬間、彼は驚いて立ち止まった。天国の至るところに見覚えのある看板があったのだ。
「ああ、スポンサーさんですよ。天国の運営費が増えたので広告協賛を受け入れることにしたんです。あなたが勤めていた会社も協力していますよ。さあ、向こうに行って、自社製品を天国の住人に配ってください。それがあなたの仕事です」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ!」