Ⅲ
ところが、麻菜が「ゆっくり探す」までもなく、水泳部室の鍵は放課後にあっさりと見つかったのである。
部活終了後、その数奇な発見の様子を、麻菜は旧校舎家庭科資料室のアンティーク椅子に座って聞いていた。
「マスターキーで部室に入って水着に着替えた後、連絡通路からプールサイドに入ったんです。そしたら、これがプールに浮いてて」
実瑠玖が手に持つものを持ち上げた。彼女が鷲掴んでいるそれは軽いプラスチック製のゆるキャラマスコットで、キャラのモチーフはビート板、その名もビート君である。マスコットの裏側はカードホルダーになっていて、中には白無地のカードキーが入っていた。
「これ一つで、水泳部室とプールサイドの連絡通路が開けられるの?」
「そうだよ。それでさ、麻菜? さっき実瑠玖とも話してたんだけど、これ、実瑠玖が鍵を落としたとかじゃないってことだよね? 誰かが実瑠玖の鞄から盗んで、用が済んだから返してきたんだよ、プールに雑に投げてさぁ」
「おかしなことになったわね。仮に用済み説が本当なら、犯人は水泳部室と写真部室を間違えていたということかしら。ね、二階堂君」
麻菜はビート君のボールチェーンに指を通して弄び、悪戯っぽく目尻を歪めてテーブルの下座を見遣った。ククリもその視線を追い、それから業とらしい仕草で相棒に耳打ちをする。
「あのさ、なんで昨日の男子がいるの? あたしが居ない間に何があったわけ?」
小声のようで実質忍ばないその声に答えたのは、話題の本人である。
「財布に入れてた写真部室のカードキーが、知らないうちに抜き取られてたんだよ」
『テーブルマナー』の片割れとその後輩が部活に出ている間、旧家庭科資料室に客人として座っていたのは、昨夜ファミレスで財布を失くした男子生徒であった。
彼の名は二階堂来といった。彼は毎日の塾通いに配慮し、活動が比較的自由な写真部に所属している。しかし、大人しく真面目な性格を買われて部長に選ばれたことだけは、正直言って誤算だった。
放課後五時、教室から塾に向かう直前、習慣でチェックしたスマホに写真部顧問からのメッセージが入っていた。軽食用に買ったチョコバーを齧りながら確認すれば、なんと「部活継続手続に使うから、部室にある部員名簿を整理して今週中にもってこい」という。今週って明日までじゃないか? 急ぐなら直接伝えてくれ。
文化部棟は、運動部棟から校舎を挟んで西側に、大きな倉庫のような趣で建つ二階建ての建物だ。写真部室はその二階の最東端だが、活動で使うカメラなどの機器は皆個人で管理しており、部員が部室に来る機会は滅多になく、カードキーは二階堂が財布に入れて管理していた。
しかして、二階堂は部室の扉の前で財布を開いた。そこでやっと、カードキーの紛失に気づいたのだ。
「まあ十中八九、昨日のファミレスで抜かれたんでしょうね――というのが、ククリたちが来るまで話していた内容よ」
「だけど昨日は、僕が財布入りの袋を席に置き忘れたって話だったろ。それに、部室のカードキーを盗む奴なんかいるわけない。白無地なんだぞ、クレカと間違うわけもないし」
「悪い人がいたのよ」
「だからどこに」
「いたじゃない。現に、水泳部室の鍵も盗まれている」
麻菜は掌を実瑠玖に向け、その仕草を目で追った二階堂は二の句を失くして俯いた。ククリは麻菜が座る側のテーブルの淵に尻を軽く乗せ、麻菜の暗色の瞳を見下ろす。
「二階堂君の話、BITEして確かめたの?」
「ええ、彼が同じチョコバーを買ってきてくれたの。少なくとも、今日の放課後に怪しい瞬間はなかった」
「ふうん」
ククリの言葉は、そんな含みのある生返事で止まった。麻菜は逸らされたヘーゼル色の瞳をチラと見上げて、隈のある瞼を細め、ゆっくり両肘をテーブルに着く。
「だから、今度はククリをBITEさせてほしい」
「……もちろん」
はにかんだククリは、ポケットから銀紙に包まれたガムを取り出した。それを見て、実瑠玖が声を上げる。
「あっ、プールサイドで食べてたやつ! そのためだったんですか!?」
『テーブルマナー』の声が重なる。
「BITE」
――ククリは連絡通路側のプールサイドに立ってガムを噛んでいる。プールの手前側を泳いでいるのは女子部員、奥側が男子部員だ。
視界の右側に、ずぶ濡れの実瑠玖がガミガミと怒って現れる。大方こう言っているのだろう。「プールサイドはお菓子禁止です!」
くるりと背後を向いて見えたのは、開け放された連絡通路の扉と、一枚壁で隔てられたシャワースペースだ。一枚壁の外側にはいくつかフックが備え付けられ、右端のそれにビート君が引っ掛かっているのを見つけ、麻菜は口を開いた。
「今、マスターキーはどこに?」
実瑠玖が答える。
「部室の鍵が見つかった時点で、生徒会に返しました」
「生徒会?」
「はい。マスターキーは生徒会の立ち合いがないと貸せないらしくて、わたしと同じ一年の役員が、プールまで来てくれていたんです。鍵が見つかったのに部活が終わるまで引き留めるのも申し訳ないので、その場でマスターキーをその子に渡しました。すぐに職員室に戻してくれたと思います」
「その生徒会の子って、白田さんと同じクラス?」
「え、はい」
「女子? 猫みたいな顔の子?」
「あれ、その子のこと知ってるんです――」
「今回の敗因はそこよ。借りたものは自分の手で元の場所に返しなさい。二階堂君、写真部室の鍵はマスターキーの保管場所にあるわ。職員室に行きなさい」
「え何で」
「今すぐ!」
「え、あ、はいっ……!」
半ば無理やりのように二階堂を追い出すと、麻菜はガムを吐き出した。
困惑した実瑠玖が問う。
「どういうことですか? 写真部室の鍵が、マスターキーと一緒にあるって」
「違うわ。写真部室の鍵を盗んだ犯人は、マスターキーと写真部室の鍵を入れ替えて職員室に返したの。二つのカードキーはどちらも白無地だし、入れ替えるのは簡単なはずよ。犯人の目的は、そうやって運動部棟のマスターキーを手に入れることだったのよ」
「でも、マスターキーはすぐ生徒会に返して……まさか、青柳さんが犯人だって言うんですか?」
「その生徒会の子は青柳というのね。マスターキーを別の鍵と入れ替える方法で盗むには、二つの手順を踏む必要があるわ。一、マスターキーの代わりになるカードキーを手に入れる。二、一人でマスターキーに触れる機会を作る。犯人は写真部室の鍵を盗んだ後、水泳部室の鍵を盗み、マスターキーが貸し出される状況を作った。青柳さんなら白田さんのクラスメートで女子だから、自ら立会人に名乗り出ても不自然に思われないわ」
「なんで女子?」
「あなたたち、『水泳部の部室』と一纏めに言うけれど、実際は『女子水泳部』の部室で、そこには女子更衣室があるんでしょう? そんな所に立ち会うのに、男子の生徒会役員は相応しくない。それから、水泳部室の鍵をプール内のすぐに見つかる場所に置けば、鍵が見つかって不要になったマスターキーは、青柳さんに渡ることになるわ」
「そうやってマスターキーを盗んだとして、入れ替えたカードキーが、どうして写真部室の鍵だとわかったの?」
「それは二階堂君の昨日の話からよ。ファミレスで財布がないとわかった後、『一度席に戻って探した』と言っていたでしょう。友達を含めて三人も居たのなら、誰かは隣席のビニル袋に気づいてもおかしくない。それがなかったのは、袋が一時的に隠されていたからだわ。それに……ファミレスにいた二人の友人の中には、一年生の女子がいたのよ。その子がきっと、青柳さん」
「悪い人がいなければっていうのは、そういう意味だったんだね」
そこでククリは一度俯き、少し戸惑ってから呟く。
「ていうか、二階堂君って女子の友達いるんだ」
「ちょっと待ってください! 青柳さんは真面目で大人しい子なんですよ。それに、マスターキーなんか何に使うって言うんですか?」
実瑠玖は、まだ級友が窃盗をした事実を受容できないのだろう、何かに懇願するように言った。
麻菜は米神に指を当てる。
「でも、二階堂君が財布にカードキーを入れていることを知っていて、今日の昼休みより前に白田さんの鞄から鍵を盗める、そんな人物、青柳さん以外に見当たらない。でも確かに、プールの中に鍵を投げ入れた時間については疑問なの。昼休みにはなかったなら、五、六限の十分休みか……考えられるのは、青柳さんに一連の行動を指示した別の人物がいること」
麻菜の悩む様子を承けて、ククリが言った。
「マスターキーを盗んだってことは、犯人は運動部棟に用があるんでしょ。それなら、あたしたちも行ってみようよ。何かわかるかもしれないよ」
「そうね。もしかしたら、運動部棟にあるものが盗まれようとしているのかもしれないし」
麻菜も同意し、席を立つ。
慌ただしく部屋を出ようとした麻菜とククリを、実瑠玖が手を伸ばして止めた。
「えッ、あの! 危なくないですか? 麻菜先輩の考えが正解なら、青柳さん以外に黒幕がいるってことなんですよね? 誰か先生を呼んだ方が……」
「白田さんは来なくていいわ。それより、二階堂君と一緒に青柳さんに鬼電して。事の真相を確かめて頂戴」
「わたしは先輩たちを心配してるんですよ!」
しかし、麻菜はククリをクイと親指で指して言った。
「大丈夫よ。三徳は包丁だけど、ククリナイフは軍用だもの」