Ⅰ
間違いなく、ここは旧校舎の家庭科資料室であるはずだった。
しかし、今や天井には真鍮製のシャンデリアが吊るされ、臙脂色の絨毯には部屋を圧迫するダイニングテーブルが置かれている。過去の無垢な姿は一片の面影も残さず、怪しい洋館じみた姿に変わり果てていた。
テーブルの向かい合う短辺には、それぞれ一人ずつが席についている。二人はどちらもこの私立妙塩高校に通う二年生で、下座は挙動不審な男子高生、上座はまるで人形のような女子高生である。
旧家庭科資料室の主人である彼女は、艶やかな黒髪を肩口で一直線に切り揃え、その姿はどこかこけしに似て、不気味な雰囲気を纏っていた。加えて、目の下にはくっきりと青い隈があり、その目でジッと正面を見つめているため、客人たる男子生徒を震えあがらせていた。
唐突に、家庭科室へ繋がるドアが開き、そこからまた一人の少女が現れた。小麦色の肌にミルクティー色の髪を持つエキゾチックな顔立ちの彼女は、やはり当校の制服であるジャンパースカートを着ていて、左手には銀のクローシュを持っている。三徳ククリという名の彼女は、鼻歌を歌いながら上座にだけ料理をサーブした。
銀蓋を取ると、部屋中に濃厚なチーズの香りが広がる。
「お待たせしました、卓条麻菜様……某有名ファミレス店の大人気メニュー、チーズドリアの完全再現でございます!」
「チーズドリアだ!」
男子生徒は思わず声を張り上げた。
「さっき、僕が最後に食べた料理を訊いたのは、このため? でもなんで今、料理なんか?」
「あーれ、お客様~? 失せ物探偵『テーブルマナー』に依頼をしたからには、我々の捜査手法くらい知っておいてもらわないと! 君、ここに来るまでに余計なものは食べてないだろうね?」
ククリにジトリと睨まれて、男子生徒は「余計なもの」の意味を考えながら首を竦ませて答える。
「う、うん。財布を失くしたのに気づいてからここに来るまで、水すら口にしてない。そうしろって噂で聞いたから……でも、そうする理由までは知らないよ。『失くしものに気づいたら、何も食べずに旧校舎の家庭科資料室に行きなさい』、噂はこれだけだ。『テーブルマナー』という探偵は、あんたたちのことなの?」
「だから、さっき名乗ったでしょ! まあ探偵つっても、推理するのは麻菜だけなんだけどね」
「麻菜っていうのは……」
男子生徒は正面に黙して座す「食卓椅子探偵」を恐る恐る見た。
卓条麻菜には、他の誰もが決して持ち得ない不思議な能力があった。霊視やサイコメトリーにも似た力だが、本人の説明によれば、それは一種の共感覚であるらしい。
ククリが言う。
「そして、あたしは麻菜の専属料理人。得意なことは、知ってる料理の完全再現で、『テーブルマナー』としての仕事は、正に今――君みたいなお客様が最後に食べた料理と同じものを作って、ここで麻菜に振舞うこと!」
男子生徒は確かに、一時間前まで友人と駅前のファミレスにいて、チーズドリアを食べていた。そのドリアは、探偵の目の前で湯気を立てるドリアと見た目も匂いもそっくりだったが、だからと言って、この状況が彼に理解できるわけではない。
「財布を探そうってのに、あのドリアと同じものを作って、現場検証でもしようっていうのか? でも、ここはファミレスじゃないし、客や店員だっていない。そのドリアはよく似てるけど、同じものとは……」
「問題ないわ」
男子生徒の言葉を遮ったのは、意外にも麻菜の方だった。
「ククリの料理は完璧よ」
それから、麻菜はスプーンでドリアを掬い、口元に持っていってから次のように呟く。
彼女の動作を嬉しそうに見ていたククリも、麻菜が言うのに合わせて同じ言葉を言った。
「BITE」
麻菜の赤い唇に、白く芳醇なチーズが侵入した。
途端、麻菜の目の前には、ファミレスの店内の光景が広がった。
――湯気立ち昇るドリア、ドリンクバーのグラス、友人が二名、スマホ。まばらな客、汚れたナプキン、椅子の上のリュックサック。
それから、麻菜はドリアを二、三口食べてスプーンを置き、話し始める。
「食事の時間は夕飯時のラッシュ前、つまり午後四時頃、ファミレスに行ったのはあなたと友人二人。六時頃開始の塾に備えて、腹拵えに行ったのね。普段ならコンビニなどで軽食を買って済ませるけれど、今日は職員会議で三時前には学校が終わったから、暇潰しも兼ねてファミレスに入った。だけど、食事を提案したのはあなたじゃない、あなたは友人二人に流された」
「なんでそれを知って?」
「テーブルに置いた三人のスマホに、同じソシャゲの画面が映ってる。友人二人が手に入れていないレアキャラを、あなたは自慢げに画面に映して見せているわ。課金したわね」
男子生徒はそっと視線を逸らした。図星であったのだ。
「金欠だったあなたは当初、百円程度のパンで小腹を満たすつもりだった。だけど友人の誘いを断りきれなくて、こっそり財布の中身を確認してからファミレスに入るわ」
「そ、そうだった! ファミレスに行く前、リュックから財布を出して中身を見た。それから、どこに財布を仕舞ったか覚えてなくて」
「友人達の陰で慌てて確認したから、リュックに戻す暇も惜しんで適当に仕舞ったのね。敗因はそこよ。財布を仕舞う場所は統一しなさい」
「それができたら苦労しないよ」
男子生徒は気まずそうに言う。
「財布を入れたのがリュックじゃないとしたら、ズボンのポケットに入れるはずなんだ。でも、会計の時にはどっちにもなくて、席に戻って探しても見つからなかった。もしかしたら、盗まれたんじゃないかとも思うんだけど」
「……確かに、食事風景の映像が一度途切れるわ。紙ナプキンで口を拭い、トイレに立ったようね。だけど、その間、友人たちは席を立っていない。あなたが戻ってきた直後、友人たちのドリンクのグラスは減ったままだったから。第三者に財布を盗む隙がないのはもちろん、友人たちもあなたの財布なんて狙わない。一人だけドリンクバーを頼まず、課金自慢をした時点で、あなたが金欠なのはバレていたから。……財布がリュックにも服のポケットにもないのなら、ファミレスに入る前までは持っていた別の袋があったのよ」
麻菜がそう結論づけると、男子生徒はポカンと見事な間抜け面を晒した。麻菜は少しイラついたように目を閉じて続ける。
「まだ思い出さないの? あなた、ファミレスに誘われるより前に、コンビニでパンを買っておいたんでしょう。入店時にはその右手に、パンを入れたビニル袋を持っていたはずよ。食事に誘ってくれた友人の手前、決まりが悪くなったそのパン、どこに隠したのかしら」
「ああっ!!」
男子生徒は大声を上げて、それからすぐさま駅前のファミレスに走った。店員は、彼ら高校生三人組が座っていた席と隣接するボックス席に、ビニル袋が残されているのを見つけて保管してくれていた。
午後四時の入店前、彼は財布を確認して、それをビニル袋に放った。そして席に移動しながら、隣の誰もいない席にその袋を隠したのである。店の客入りは少なく、彼らの食事が終わるまで袋を置いた席が埋まることはなかった。帰り際に回収するつもりでいたが、店で過ごしているうちに、視界から消した袋の存在をすっかり忘れたのだ。
「財布、見つかったって。お手柄だったね、麻菜」
本日の間抜けな客人からスマホでメッセージを受け取り、ククリは傍の女子高生探偵に伝える。しかし、麻菜は何やら考え込むように眉根を寄せて言った。
「悪い人がいなかった場合の話だけどね」