31. 一条、月に立つ
31. 一条、月に立つ
ドーム部分が直径2キロ弱のアギラカナ・ムーン・リゾート(AMR)愛称アムールは工作艦で一度に建造するには大きかったため、アギラカナで建造した。それをハイパーレーンゲートを通して月まで運んだものだ。
これも宇宙船モジュールの転用なので、運んだというより月まで自力航行し、均された月の地盤の上に作られた2キロ四方の固化された土台の上に着陸したという方が正確だ。地球から見た月の真ん中、中央の入江付近にAMRは作られたため、AMRから見ると地球がいつも頭の真上に見える。
アギラカナ・ムーン・リゾート(AMR)への渡航は、日本以外の各国にもオープンしているのだが、日本人枠八割に対しその他枠二割(日本と国交のある国に限る。【注1】)とだいぶ差をつけている。
搭乗チケット購入時には氏名と国籍を示さなくてはならず、成田出国時パスポートとチケットに記載された氏名、国籍が異なる場合はチケットは無効となり、払い戻しはされない。
また旅行者がAMRで問題を起こした場合は、成田まで強制送還され、送還費用は問題を起こした国に請求される。期限内に送還費用が支払われない場合は、送還費用が支払われるまで当該国の国籍を持つ者のチケット購入は出来なくなる。
別に日本人以外の枠は不要ではないかとの意見もあったが、欧米人の金持ちにサービスしとけば何かいいこともあるだろうと軽い気持ちで枠を設けた。
また、AMRへ入場時、生体情報を読み取られることを同意することもチケット購入の条件になる。各国の工作員対策も兼ねた措置だが、AMRには抜かれて困るような情報もないし、危険物の持ち込みも不可能なので工作員に潜入されることはさして問題にしていない。
旅客宇宙船ジュピターの個室の中ですっかり胃から出すものを出し切ってすっきりした一条だったが、席に戻ってミネラルウォーターを貰って落ち着いたと思ったら、すぐに機は着陸態勢に入ってしまった。月を周回中のジュピターから月の姿を見ることがほとんど出来なかったようだ。
ジュピターがAMRの宇宙港に到着後、一条は出口に向かう人の列に並び、複数ある客室ドアの一つを通り、ボーディング・ブリッジに出た。
そこから、他の乗客に混ざってぞろぞろと進んでいく。荷物の受け取りカウンターでチケットを見せ、預けていたキャリーバッグを受け取り、到着ロビーにたどり着いた。
ここまでで、乗客から見て手続きらしい手続きは一切ない。実は、到着した乗客はボーディング・ブリッジを通過中に、詳細に生体情報が読み取られ記録されており、以降の移動や行動はプライベートな場所を除き監視され記録されている。なお読み取る生体情報の精度は、そのデータで病理的な診断はもとよりバイオノイドを製造することが可能なレベルである。
一日六便、ほぼ四時間ごとの到着で一便あたり六百名ほどの乗客が到着ロビーに吐き出されてくるのだが、出迎えの人が迎えに来ているわけでもないため、ロビーが人で混み合っていることはない。時折、制服を着た二人組の警備員が巡回しているのが目に入る。一条はこの旅行を視察旅行と大使館内では言いはっているが観光気分でAMRを観て回るつもりだったため、関係者による出迎えは無用と予め断っている。
口から出すものを出したので、お腹がすいてきたが、荷物が邪魔なので食事の前に予約したANLホテルに向かうことにする。日本語と英語だけで書かれた案内板の掲示に従って歩いていくと、いつの間にか宇宙港のブロックからAMRのメインストリートに出ていた。少し歩くとすぐにANLホテルのロビーのエントランスである。ホテルのチェックインは日本時間で午後一時からのため、あと二時間弱の時間がある。ちなみにAMR内の時刻は、アギラカナと同様に日本標準時が採用されている。
フロントで、手続きだけ済ませたあと、荷物を預け、いったんメインストリートに戻る。通りは明るく照明されているのだが、上を見上げると、満天の星空が見え、真上には半月状の地球が見えた。通りの両側には、ファーストフードの店や喫茶店、日本料理や土産物屋などが並んでいるが人通りはそんなに多くはない。
どんなものを売っているのか興味もあり、土産物屋を覗いてみることにした。土産物屋では名物にしようと思ったのか地球見団子を売っていたがどうも人気はないようだ。中には日持ちのする、奈良漬けや佃煮といった月に何の関係があるのかわからない商品が並んでいたのだが、商品説明カード見ると、『アギラカナ御用達』と大きく書いてある。製造社名を確認したところ、確かに、アギラカナ大使館と取引のある社名と思う。注意して見ると、そういった商品がかなりたくさん店の中に並んでいた。
しかし、何と言っても売れているのは、月の石を使った装身具や装飾品で大勢の人が手に取って眺めている。結構な値段の値札が付いた商品だが、中には大量に購入しようとする人もいて、店の人に止められていた。購入数量に制限があるらしい。
次に入ったのは土産物屋の近くのカジュアルレストラン。軽く食事をするつもりで店に入ったのだが、腹の中に何もない状態だったので、結局ガッツリ日本産ブランド牛のサーロインステーキを食べてしまった。その上デザートのショートケーキもいただき、ぽっこりお腹を膨らませてホテルへ戻った。ステーキを食べる時には普段は適当に赤ワインでも頼む一条なのだが、さすがにそれは控えたようだ。
食事を終えてホテルに戻るとチェックインのできる午後一時まで時間がまだあったが部屋は使用可能だったので部屋に入る。フロントに預けていたキャリーバッグはすでに部屋に運んであったので、その中に入れていたセパレートの水着に着替え、その上に短パンと膝まである長めのパーカー、足元はサンダルと言ういで立ちで話題の低重力飛び込みプールにさっそく出かけることにした。
低重力飛び込みプールは、このホテルに付随した施設なので、プール階でエレベーターを降り、受付で手続きを済ませて更衣室で短パンとパーカーをロッカーに入れ、プールエリアに向かう。
プールエリアに向かう通路には黄色でラインが引いてあり、数字が書いてある。一番手前から9.8、向こうの先が1.6と書いてあった。一歩ずつその通路を進んでいくと体が軽くなってくるのを感じる。最後の方はまさに雲の上を歩いている感じだ。
「……お客様にお願いします。低重力に体を慣らすため、十分ほどは、軽く歩行するなどしてプールの周りでお過ごしください……」
一条はその放送が聞こえなかったのか、そのまま、十メートルの飛び込み台のあるところまでやって来て、飛び込みの順番を待つことにした。
すぐに順番が来たので、飛び込み台の上に上がるエレベーターに乗り込んで上に昇り、飛び込み台の先端までまでいって下を覗く。十メートルの高さでも下がけっこう小さく見える。
下を覗き込みすぎたのがいけなかったのか、それともわざとだったのか。
「お、おお、おひょ? おひょひょひょひょーー!」
奇声を上げながら落下する一条。思った以上にゆっくり落下するのですっかり安心してしまったのがいけなかった。
バシーン!!
思いっきり腹を打ってしまった。真っ赤になった腹を撫でながら、もうこんなところに来るもんかと飛び込み台をにらむ一条の顔の上に、かなり高くまで上がった水しぶきがゆっくり落ちて来て降りかかる。
プール脇に常備されたバスタオルで体を拭いて、部屋に引き上げることにする。入って来た時の通路を戻っていくのだが一歩一歩体が重くなりこれが結構つらい。
更衣室で濡れた水着の上から短パンとパーカーを着てサンダルを履いて部屋に戻る。もう一度普段着に着替え、今度は目玉である月面走行車両によるミニツアーに行くことにした。
AMRでの一番の目玉はアポロの台座や月面車の残る静かの海への専用遊覧宇宙船で行く周遊ミニツアーなのだが、要予約で、今日明日では乗れそうもなく断念した。さすがの一条もそこまで職権濫用はしなかったようだ。いや単に、し忘れただけなのかもしれない。
ホテルのフロントで月面走行ツアーを申し込むと、次の出発がもうすぐだそうで、慌ててツアー出発口のあるホテルの地下に向かった。
月面走行車両は八輪車を二両連結したもので、ツアー客が乗る部分は、床面以外の全面が透明になっており、座席についてシートベルトを全員が締めるとツアー開始だ。気密ドアが閉まり走行車が走り出す。外界とAMRを遮断する前方のゲートが開くとそこは低重力の月の世界だ。今は昼間なので、外の地面の温度は百度を超えているはずだが当然車内は快適だ。月面走行車は時速20キロほどで、凸凹のある月面上を進んでいく。時折、走行車が勢いをつけて上った小さな坂道から浮き上がったりもするのでそのたびにツアー客の歓声が上がる。もちろん一条もその一人だ。三十分ほどの月面ツアーだったがことのほか楽しかった。
ツアーが終わると参加者全員にレジンのような透明な物質で周りを固めた3センチくらいの月の石が配られた。それをもらったことで一条のこのミニツアーに対する評価がぐっと上がったのは言うまでもない。今の一条はAMRに視察に来たお偉いさんモードだったのだ。朝の醜態は彼女の中では既に忘却の彼方、無いことになっていた。お偉いさんモードの一条の心証が良くなった月面走行車のミニツアーはこのあと、アギラカナから何らかの優遇措置が得られるかもしれない。
はしゃぎまわっていたせいですっかり疲れてしまった一条だが、このまま視察をホテルの中だけで済ませてはまずいと思い至り、着替えを持って少し離れたところにあるという露天風呂風大浴場に出かけることにした。そこでは、日本酒の入った徳利をたらいに入れ、頭上に浮かぶ青い地球を愛でながら、地球見酒が出来るそうである。
AMRで使用している水は、火星と木星の間にあるアステロイドベルトの中の氷小惑星から運んだ氷を融かしたもので、飲料用には蒸留したものを使っているが、浴場用や温水プール用には、宇宙ミネラル水と銘打って、ミネラル分をある程度残したものを使用している。特に効能等は謳っていないが非常に好評である。
AMR内ではほとんどの個所の重力加速度は1Gに設定しているが、月の重力を体感するため、重力加速度を月と同じ0.16Gに設定している区画もある。0.16Gに慣れるまで、平衡感覚にずれを生じる場合がある。
低重力加速度に設定された代表的な場所は、何個所かにある高飛び込み用温水プールだ。そこにはいずれのプールにも5メートル、7.5メートル、10メートルの高飛び込み台が設けられている。10メートルの高さから下のプールに飛び込むには勇気がいるが、月の重力下での飛び込みなので、地球での1.6メートル程度の高さからの飛び込みと同じ衝撃しか受けない。しかも10メートルの落下には3.5秒かかる。いちど長時間の滞空に慣れてしまうと癖になるらしい。
飛び込み用プールでは水の上への落下なので衝撃は少ないが、落下先が床材や地面などの固い物の場合、十分怪我をする可能性があるので、決してプール以外で飛び降りたりしないよう注意書きがいたるところに貼られている。
【注1】一条がアインと相談し、ネット上の情報などをもとに国別対日友好度なるものを作成している。公開はしていないが月チケットのその他枠の中に国別の枠もあり、友好度の低い国の枠は非常に小さい。台湾やタイといった国はなにげに枠が大きい。パラオなどは無制限と聞いている。
国別対日友好度はシステム的に自動で友好度を計測しているものとばかり思っていたが、実際は、一条が鉛筆をなめて適当に決めていたものだった。
『巻き込まれ召喚。 収納士って最強じゃね!?短編集』
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