五匹目 怖い存在だと聞かされていた
青色の瞳。それは冬の寒空を思わせる。穢れなど知らないといいたげに真っ白な髪に、同じ色をしたオオカミを思わせる耳と尻尾。それらは、木漏れ日を反射し煌めいていた。
ミューリスは、恐怖心も忘れて目の前の彼女に見入ってしまう。あまりにも、神秘的で美しいそれはどこか神々しさを感じる。
なんて、美しいんだろう。あれが、噂で聞いていた獣人。初めて見るそれにミューリスは息をするのも忘れてしまう。だが、その時、彼女を現実へと引き戻す様に冷たさを帯びた空気と音が鼓膜を撫でた。
「獣人……か。アンタはそう呼んでくれるんだ」
「えっ」
「さて、アンタは少し、そこで立ってな。動かないでね。動くと――死ぬよ」
そんな声が届いたころには、ミューリスの視界に映っていた筈のクティトの姿はもうない。どこに消えたんだ、と探そうとするよりも早く、背後から凄まじい悲鳴が響く。それは、悲鳴と形容してもいいのだろうかというほどの濁った音だった。
ドシャ!
続くようにそんな音が響く。嫌な予感がする。ミューリスは錆びたブリキのおもちゃのように硬い動きでゆっくりと、振り向く。そして、口を開いたまま固まってしまう。
そこには、黒い物体が地面に落ちていた。二メートルはあるだろうか、それはナメクジのような形をしていた。だが、そのナメクジには本来あるであろう頭部と呼べるものがない。
まるで、もぎ取られたかのような切り口。残った胴体はまだ生きているのか、ビクビクと痙攣するように動いており、実に気味が悪い。そして、その少し離れたとこには頭部らしき、触覚のようなものがついた物体が落ちている。
「な、こ、これは……っ」
黒い物体の前に立っているクティトは、ミューリスのか細い声が聞こえたようだ。
「見たことない? これが、魔獣だよ」
「ま、魔獣……」
地面で蠢く魔獣と呼ばれた黒い物体を踏みつけるクティト。すると、ブジュリという音と共にドロリと黒い粘着質の液体が漏れだす。ニオイはしない。だけど、思わずミューリスは顔を顰めた。
――魔獣。それは、悪魔の使いとも呼ばれている。普通の動物と違って、全てを塗りつぶすような黒い体と、血のように真っ赤な瞳が特徴と言われている以外はほとんどが謎に包まれている。
これが、魔獣についての一般的な知識。実際に見るのは初めてなミューリスはそろりと、その魔獣から一歩後ずさってしまう。だが、それは珍しいことではない。通常であれば、魔獣を見ることなんてできない。なぜなら、魔獣は人々が見る前にハンターなどに駆除されてしまうからだ。
クティトは肩越しにその動きを見ていたのか、ゆらりと、尻尾を軽く揺らす。風にそよぐミューリスの視界にその動きがチラリと入ったが、それがなにを意味するのかは分からなかった。
『ゥグアァァァアアアオォォォ……』
「ひっ、ク、クティトさん! まだ、生きて……っ!」
どこからあんなおぞましい声を出しているのか。大きな岩同士を擦り合わせたようなザラザラとした低音が響き、頭のない魔獣の体がブルブルと痙攣させ、起き上がろうと蠢く。ミューリスは後ずさりながら、クティトへと声をかける。あのままでは、彼女が立ちあがった魔獣に殺されてしまう。だが、助けに行くなんて無理だ。
戦う力がない。いや、それ以前にミューリスにはあんな恐ろしいものと――戦う覚悟なんてない。
ガタガタと体を恐怖で震わせているミューリスをクティトは肩越しに見据える。その視線からは何の感情も感じられなかった。
それもそうか。彼女ははなからミューリスが戦うなんて思ってもいないのだから。ミューリスは顔をひきつらせたまま、魔獣を凝視する。
見れば見るほど、恐ろしいという感想しか出てこない。ミューリスが知っている生き物とはかけ離れたおぞましい見た目がその大半を占めているせいだ。
「アンタはそこで見てな」
「クティトさん、な、なにを言って……」
ぐらりと、首から先のない魔獣の巨体が立ち上がる。あんな巨体が倒れれば、小さな少女であるクティトなどそのまま押しつぶされてしまうだろう。だが、クティトは魔獣を見上げたまま動かない。
「クティトさん! に、逃げてください……っ!」
ミューリスがそう言うと、クティトはため息をつく。すると、冬でもないのに、彼女が吐き出した吐息は寒さに凍えるように白いのがうっすらと見えた。心なしか、辺りの温度も下がっているかのようにも感じる。
魔獣がゆさゆさと体を揺らす。それは、真っ黒に焦げた大木が倒れかけているかのようにも見える。このままでは本当に彼女が潰されてしまう。だが、ミューリスは動けない。ガクガクと膝が震えているからだ。
「……」
クティトは無言のまま見上げる。魔獣はそんな彼女を見下ろしながら、首であろう場所を軽くもたげ、威嚇する。
『ゥグアァァァアアアオォォォ!』
「――クティトさん!」
魔獣が体をクティトの方へと倒す。ミューリスは叫び、手を伸ばすが――
「うるさい」
クティトが冷たく言い放つと同時に、地中から突き出す様に生えた氷の柱が――魔獣の体を貫いた。黒い煙のような物が魔獣の体から噴き出す。
一本、一本が鋭く尖った氷柱は魔獣の硬そうな皮膚を呆気なく貫通し、飛び出た氷の牙は、魔獣の黒い体液に濡れ、木漏れ日を反射してキラキラと煌めく。ミューリスは一瞬だけ恐怖を忘れ、“なんて美しいのだろう”とその光景を見ながら呑気に考えてしまう。
『ゥグアァァァアアアオォォォッ!?』
だが、すぐに、その意識は魔獣の叫び声によって引き戻されてしまう。
魔獣は頭部があった切り口から叫び声を上げ、体を大きく揺らす。砂埃が舞い、ドスン、という音を立ててクティトの前で崩れ落ちるように倒れる。
パリンパリン、と魔獣の体から飛び出していた氷柱が砕け、転がる。それは、キラキラと輝き、まるで宝石のようだった。
氷の柱が体に突き刺さったまま、魔獣は怒りを吐き出す様に吠える。が、クティトは軽く鼻を鳴らした瞬間、魔獣の半ば口となりかけていたソコを包み込むように凍り付く。キラキラと煌めく氷のマスクの奥から魔獣のくぐもった恨み声が響く。
『オォォォォォォォォ』
「まだうるさいね。……あぁ、ちょうどいいからアンタに魔獣について教えてあげるよ。どうせ、あんまり知らないでしょ」
「え……?」
振り向き、そう言った彼女は薄く微笑む。ミューリスはその笑みにゾッとすると同時に、なぜか胸の奥がチクリとした。初めて見た彼女の笑み。だが、そこには嬉しさ、楽しさという感情は含まれていないだろうと思ってしまうほど。でも、どこか寂しそうに見える不思議な笑みだったからだろう。
「魔獣はどんなに体を粉々にされても、死ぬことは無い」
魔獣の体に刺さっていた氷の柱が破裂する。同時に辺りに飛び散る魔獣の破片。水気を帯びたソレはびちゃびちゃと地面や木々を黒く染め上げ、そこから蒸発していくように薄墨のような黒味の強い灰色の煙が立ち込める。
ニオイはしないとわかっていても、ミューリスは顔を顰めた。だが、すぐにその顰め面は驚愕を浮かべる。
「ま、まだ……いきてる……?」
その言葉に反応するように、飛び散った破片がグジュグジュと音を立てて蠢く。そのおぞましさにミューリスはこみ上げてくる悲鳴をグッと飲み込む。
「そう、生きてる。でも、この破片が集まって再生するっていうことは無い。この破片はそのうち、周りの魔力を吸って、大きくなって新たな魔獣となるまぁ、結局は増えるってことね」
「で、では……どうやって……」
少しだけ、魔獣という存在を知ったおかげか、ミューリスの顔からわずかに恐怖心が消える。クティトが小さく鼻で笑う。黒い軍服のようなコート以外は真っ白なせいか、その姿はどこか神秘的に見える。そう、それはまるで雪の妖精のようだ。
だが、その姿には見ているだけで息苦しくなりそうな威圧感がある。クティトは近くに落ちている何かを拾う。そして、それをミューリスへと見えるように翳す。
それは、小さなレモン色のガラス球だった。だが、その中身は酷く濁っている。まるで、瓶の中に泥水でも入れたかのような綺麗とは言えないものだ。
「コイツみたいに大きくなった魔獣には心臓がある。それを潰せば魔獣は散らばった破片ごと――」
パリン。
クティトはその石を握りつぶす。呆気なく、砕けたソレはパラパラと地面へと散らばる。同時に、辺りに散らばっていた破片がスーッと溶けるように消えていく。
「この通り、消える」
ミューリスは辺りに張り詰めていた圧迫感が無くなると同時に、その場にへたり込む。クティトはその様子を見下ろしながら、軽く息を吐き出す。
すると、フワリと雪が解けるように彼女の真っ白だった髪は茶色へと変わり、オオカミのような耳とフサフサとした尻尾が煙のように消えてしまう。
ミューリスが何も言えずに、ただただクティトを見つめる。すると、彼女はつかつかとミューリスの前へと歩み寄る。見下ろす茶色の瞳にミューリスは自分の顔が映っているのを見て、思わず“酷い顔”と言ってしまいそうになった。
だが、それよりも先に言うことがある。ミューリスは今だ恐怖と緊張でドキドキとしている心臓をそっと抑えながら、感謝の眼差しで見上げる。
「助けて、くれて……ありがとうございました」
クティトは無表情で返事することなく、ミューリスを見下ろしたまま、手を差し出す。ミューリスは反射的に手を差し出しかけたところで、躊躇してしまう。
クティトは何も言わず、差し出した手を引くと、ミューリスに背中を向けたまま歩き出す。
「……立てるよね。行こうか」
「あ……クティトさん……」
ミューリスは躊躇してしまった自分の手を見つめ、静かに立ちあがる。意外とすんなりと立ち上がれた自分自身に驚いた。
前を向く。
魔獣がいたことなんて嘘だったかのように、静けさと穏やかさに満ちた景色を眺め、その先を歩くクティトを見つめる。ミューリスの表情に影が差す。
せっかく、手を差し伸べてくれたのに、それを掴むことを躊躇してしまった。だけど、それは恐怖ではない。触れるのが少し、畏れ多かった。
そんな言い訳染みた言葉を飲み込む。そして、ギュッと握り損ねた自分の手を握り締め、ミューリスは顔を上げると、先を歩く彼女を追いかけた。
暫く歩くと、ミューリスの鼻がなにかのニオイを嗅ぎ取る。それは、人生で嗅いだことの無い物だ。だが、なぜか嗅いだことのあるような気がした。
そんな不思議なニオイを探すようにキョロキョロと辺りを見回す。すると、前を歩いていたクティトが振り向く。変わらず無表情で何を考えているかはわからない。
先ほどの、獣人の姿の方がまだ表情の変化があったのではないだろうか。だが、獣人のことを聞くタイミングを見失ってしまったミューリスはもう一度軽く、辺りを軽く見回す。
「クティトさん……なんか、変なニオイしませんか……?」
恐る恐るそう声をかけると、クティトが軽く頷く。
「するね。でも、あんまりこのニオイ、吸い込まない方がいいよ」
「え?」
「じゃないと、アンタ、後悔するから」
「それって、どういう……あ、ちょ、待ってくださいよー!」
歩き出す彼女を追いかける。
「……あ、でも、慣れておいた方がいいよ」
思い出したようにクティトは振り向かず、歩く速度も変えずにそう言った。が、ミューリスは意味がわからず首を傾げる。
どういうことだろうか。
そんな、ミューリスの疑問を感じ取ったかのように、クティトは呟く。その声はいつもと変わらないようでいて、どこか暗いようにも感じた。が、余りにも些細なそれに、ミューリスは勘違いだろうと結論を下す。
「だって、ハンターになったら、このニオイはずっと付き纏ってくる。どんなに逃げたくてもね」
不意に彼女が立ち止まる。その目の前には他の木よりも大きく太い大木がそびえている。天まで届くのではと思うほどのそれは大きく枝を広げ、空を隠し、そこだけ他よりも薄暗い。
そして、そこだけなんだか雰囲気が違う。そうミューリスは感じ取った。
なんだか、嫌な空気が流れている。同時に、掠める程度だったニオイが強く鼻腔を貫いてくる。思わず吐き気がこみあげ、片手で口を覆う。
「……ッ」
このニオイ――知っている。ミューリスは幼い頃に、故郷で起こった悲惨な事故を思い出す。とある一家が、無残に惨殺された事件。
そこでは、今よりもずっと濃い……これと同じニオイがしていた。ミューリスはそこまで思い出し、その表情をサッと青く染める。どこかで、羽虫の飛ぶ音が聞こえた。
「ク、クティトさん」
声が震える。おそらく……いや、きっと彼女の前のそのニオイの発生源がある。ミューリスは勇気を振り絞り、一歩踏み出す。
近づけば、近づくほど、鼻腔を貫き脳みそをかき回す程の腐臭が濃くなる。肩越しにチラリとミューリスを一瞥したクティト。その眼差しから彼女が何を思っているかはわからない。
「……」
クティトは無言でその場から一歩、横に移動する。そこには大木から伸びた太い根がはびこり赤茶色のシミがある。そして、そのコーヒーでも零したようなシミの真ん中、つまりは大木の根元には――首と両膝から先のない“男性の死体”がもたれかかるようにして座っていた。
次回更新日は2019年11月9日(土)頃を予定しております。




