四匹目 青い瞳のオオカミ
「ま、待ってくださいっ」
家を出て先を歩くクティトを急ぎ足で追いかける。呼びかければ、彼女はピタリと立ち止まり振り向く。その表情からはなにも読み取れない。
「なに?」
「ど、どうして……ギィテさんにあんな言い方したんですか。もう少し、柔らかい言い方があったのではないでしょうか」
「柔らかい言い方……?」
意味がわからないと言うような眼差しでクティトはそう問いかける。
「そうです。どうして、“生きているなんて希望を持たない方がいい”なんて言ったのですか。私は、あの時……言うにしても“最悪の場合もある”と言うべきだと思います」
「どうして?」
「え? ど、どうしてって……」
まさか聞き返されると思っていなかったミューリスはどもる。普通に考えれば、はっきりと言われるよりも、ワンクッション置いた言葉の方が相手を不快にさせたり、心に傷を与えずに済むからだ。
それは、協会に入る前、つまりは普通に生きていれば、はっきり伝えるという行為は時と場合を選ぶなど常識だと身に付いていく。そう教えられるからだ。が、目の前の彼女はどうだろう。表情から読み取ることはできないが、心の底から疑問を感じていることは明白だった。
「どうせ同じことを伝えるのに、言葉を変える必要が? そんな、無駄なことして意味があるの?」
「無駄なことって……っ」
ミューリスが眉尻を下げる。すると、クティトはゆっくりと瞬きをした。その時、彼女の茶色の瞳が一瞬だけ、青色に見えたような気がした。そして、何故か胸に寒風でも吹いたような気がした。
「アンタ、私に何を求めているのか知らないけど、もし、私にアンタの普通を求めているのなら、やめて欲しい」
そう言った彼女は踵を返し、空を見上げる。青かった空はいつの間にか、オレンジ色へと変わり始めていた。サンサンと輝いていた太陽も、ゆっくりとではあるが、帰り支度を始めている。
「私は普通じゃない。アンタらとは違う」
そう呟いた彼女の声は、ズキン、と胸の奥深くに刺さったような気がした。それほど、彼女の言葉は重たく、酷く苦い感じがした。そしてまた、冷たい風が胸に吹いたような気がした。
夕日がクティトを照らし、それは逆光となって、彼女の姿を霞ませる。曖昧な姿でいるクティトが、なんだかとても、儚いものに見えた。あのまま夕日が沈むと同時に消えてしまいそうな儚さが。
クティトは片手で日よけを作って空を仰ぎ、ミューリスへと向く。もうその時には、先ほどまでクティトに纏わりついていた儚げな空気は消え去っていた。
「……さて、今日も活動時間は終わりだね。宿、予約してあるんでしょ?」
「え? あ、はいっ! この先にある宿です」
ヘイカーから持たされた地図を急いで確認する。そして、道に置いてある看板も確認したミューリスが頷くと、クティトは先を歩く。
急いで彼女を追いかけ、ほんの少し後ろを付いて行きながら、彼女の小さな背中を見つめる。話せば、話すほど、彼女のことがわからなくなる。
冷たく他人から距離を置いているように見えて、相手のことを思っている。今回がいい例だ。思わず、自分の意見を押し付けてしまったが、彼女がああ言ったのは、きっと、相手を思ってのことだと思う。
ミューリスは歩きながら、ため息をつく。もっと、彼女のことを知りたい。素直に彼女に“貴女のことを知りたいです。教えてください”と言ったら答えてくれるだろうか。
「……無理……ですよね」
そう小さく呟き、顔を上げれば、もういつの間にか宿の前へとたどり着いてたようだ。ドアの横でミューリスを待つクティトは、ゆっくりと瞬きをし、軽く頭を動かす。
聞かなくてもわかる。ミューリスは気を取り直して、宿の扉を開く。フワリと、風が吹く。その時、何故か腕にうっすらと鳥肌がった。が、気にしないことにした。
「いらっしゃいませー!」
質素な見た目にカウンターが一つ。その奥で立っている受付の女性が、扉から二人が入って来ると同時にそう言って眩しい笑顔を浮かべた。その笑みに釣られるようにミューリスは「こんにちは」と言って笑顔を浮かべる。
「昨日連絡していたミューリス・イーデンと言います」
「ああ! ご丁寧に部屋が空いてるか聞いてきた人ですね? なんかすみません、わざわざ聞いてくれたのに、誰もいないみすぼらしい宿で」
たはは、と受付の女性は笑う。見た目からしてミューリスと年は近そうだ。
「いえ。とても、温かい雰囲気のある宿だと思いますよ」
ミューリスは本心からそう言った。確かに、ぱっと見、古臭い宿という言葉が似あう見た目だが、いたるところから温かさを感じる。
例えば、カウンターや花瓶を置くための台。木製のそれの角は意図的に丸く削った後がある。それは、不意に角にぶつかってケガをしないための配慮だ。
それに、一番は目の前の彼女だろう。初めて会ったというのに、彼女の笑顔を見ているとほんのりと心が温かくなる。
ぐいぐい、とわき腹を小突かれる。振り向けば、クティトが見上げている。やっぱり、その表情からなにかを読み取ることということは叶わないが、なんとなく“早くしろ”と言われているような気がしたミューリスは、コホンと咳ばらいをした。
部屋へと通されると、ミューリスはやっぱりな、と納得した。全ての家具の角が丸く削られている。しかも、木のささくれができないようにきっちりやすりがけされている。
「綺麗な部屋ですね」
ミューリスが上機嫌にそう言う。だが、クティトは聞こえてないと言わんばかりに、窓側に置いてある椅子へと腰かけ、瞳を閉じてしまう。
ミューリスはシュン、と項垂れると、持っていた荷物を部屋の隅へと置き、どこに座ろうか考える。生憎、椅子は残り一つ――クティトの向かいだ。
「……」
さすがに、もうそこまでの度胸は今日は残っていない。全て使い切ってしまった。これ以上、彼女に近づきすぎるのは逆に彼女との距離が離れてしまうような気がする。
ミューリスがおろおろと部屋を歩き回っていると、目を閉じていたクティトが片目を開けて、ミューリスを見つめる。その視線が“目障りだ”と言っているのは誰が見ても明白だろう。
「なにしてんの」
「えっ、あ、いや……その……」
「そこの椅子に座ったら?」
「は、はいっ」
大人しく座ると、満足したのかクティトは再び瞳を閉じてしまう。流れる無言の時間が気まずい。椅子の向き的にクティトを見つめる形となるのも、要因の一つだろう。
ミューリスはできるだけ見ないようにと視線を逸らそうとするが、意志と反して目線は何故かクティトを見つめてしまう。
夕日に照らされ、オレンジ色にも見える茶髪はサラサラと窓の隙間から入り込んだ風でなびいている。眠っているのだろうか、冷たい無表情よりもわずかに柔らかく見える。
まるで、絵画でも見ているようだ。そのくらい、夕日に照らされる彼女は神秘的だ。でも、なにか、違和感を感じる。でも、その正体はわからない。
ミューリスはふと、何かの気配を感じて窓の外を眺める。もう、夕日がほとんど沈んだ世界は薄暗く、闇が侵食してくるようだ。
丁度町の外だ。そろそろカーテンを閉めなければ、と思い立ち上がったその時、ミューリスは見た。
闇の中を這いずり、すり寄って来る――ナニカを。闇とは違った動きをするそれは目を凝らさなければわからない。でも、見つけてしまった。
――あれは、見てはいけない。
そう誰かが言ったような気がした。だが、もう遅い。見つけた、見てしまった。その存在を。
ミューリスはまるで魅入られたかのように、闇の中で蠢く黒い影から目を離せなくなっていた。だが、わかっている。アレがよくないものだということぐらい。
「……あ」
目が合ってしまったような気がした。影のアレに目があるかはわからないが、ミューリスはゾクリと背筋に嫌な気配を感じる。
影が迫って来る。だが、ミューリスは知っている。あの影はあそこにそびえる女神像から先へと足を踏み入れることはできないと――
「ミューリスさん、クティトちゃん。夕食の準備ができましたので食堂に来てください」
ハッとミューリスはその声で我に返る。そして、自分が今まさに窓を開けようとしていたことに気付く。運が良いことに、クティトは寝ていて、そんなミューリスの奇行には気付いていないようだ。
窓の外を見れば、先ほどまでいた影はいなくなっていた。ホッと胸を撫で下ろす。
ミューリスはカーテンを閉めると、クティトへと体を向けた。柔らかい顔つきに、起こすのがちょっと悪い気もしたが仕方ない。
「クティトさん、クティトさん。起きてください」
彼女の体に触れるのはなんとなく気が引けたので、声をかけるだけにしておく。すると、軽く眉間に皺をよせながらクティトは静かに瞳を開き――
「命拾いしたね」
そう一言いうと、部屋を出ていってしまう。それがどんな意味を持っているかはわからないが、ドキリとしたミューリスは、ゴクリと息を呑むと、彼女の後を追うのだった。
次の日、ミューリスは気まずい朝を迎えた。
理由はもちろん、背中で眠っている彼女だ。どういうわけか、この部屋にはベッドが一つしかない。最初は、ミューリスがソファで寝ると言った。が、クティトも同じことを言って譲らなかった。
結果、背中合わせで二人は同じベッドで寝ることになってしまったわけだが。やはり、気まずいことこの上ない。
そんなことを考えていると、背後でもぞもぞとクティトの動く気配がする。どうやら、彼女も起きたようだ。ミューリスは気を取り直して、彼女へと挨拶しようと振り向き――
二人は顔を見合わせ停止する。
理由は簡単。振り向いたら意外と、お互いの距離が近かったのだ。どちらか片方が下手に動けば、二人の唇が当たってしまうような絶妙な距離。
二人の吐息がぶつかる。二人の距離がゼロになるまで、あと数センチというところか。そんなことを呑気に考えながらミューリスはクティトを見た。
「……っ」
流石のこれにはクティトも驚いているらしい。わずかに見開かれた瞳が物語っている。ミューリスはとりあえず、体をそらせ、顔を離すことにする。すると、顔が離れた瞬間にクティトはするりと体を動かしベッドから飛び降りた。
そして、何事もなかったかのように軽く首を鳴らし、口を開く。
「おはよ」
「お、おはようございます!」
急いで跳ねるようにベッドから降りたミューリス。クティトは朝があまり得意ではないのか、若干うんざりした雰囲気でミューリスを見ていたが、すぐに窓の外を一瞥し無表情で。
「さっそく、探しに行こうか」
そう言った。
朝食を済ませ、森へとやって来た二人。ミューリスはしきりに周りをチラチラと見ながら、前を歩く彼女の後に続く。その表情はどこか不安げに歪んでいる。
青々とした木々ばかりで特に変化もない道。同じ景色で、自分がちゃんと前を歩いているのか不安になる。が、前の彼女はまるで来たことでもあるかのように歩みに迷いはないように見える。
だが、ミューリスが不安げな表情でいるのはそれが理由ではない。
脳内に浮かぶは昨夜見た、あの黒い影。あれは、結局なんだったのか。まさか、悪魔だろうか。そう考えて、ミューリスは振り払うように首を振った。
あるわけがない。
悪魔があんな簡単に人前に姿を現すなんて聞いたことは無い。人前に出てくる場合があるとしたら、大抵はその人間の心が酷く弱っていたり、何かよからぬことを考えている人間の前だと本で読んだことがある。
では、なんだろう……幽霊? 魔獣? そんなものを見たことないミューリスは見当がつかない。
でも……女神像の前でうろうろしていたということは、やはり、よくないものだ。ミューリスはそんなものと目が合ってしまったときの冷たさを思い出し、それを振り払うように目の前を歩く彼女へと声をかけた。
「あの、クティトさん」
「なに」
振り向かず彼女は答える。
「迷いなく歩いていますが、なにか手がかりでも見つけたのですか?」
ミューリスはこの森に入る前からずっと疑問に思っていたことだ。どうして迷いなく歩いているのか。
朝食を終えるやすぐに、クティトが「森に行く」と言って着いてきたはいい。手がかりを見つけたならそれでいいのだから。だが、どう考えても彼女が手掛かりを見つけたとは思えない。
ずっと、一緒にいるのだ。何かあれば、ミューリスもわかるはず。なのに、そんなことはない。故に、ミューリスは懐疑的な視線を向ける。
「手がかり……か。まぁ、似たようなものか」
「似たようなもの……?」
ミューリスの問いが聞こえているのか。クティトは立ち止まり、辺りを軽く見回す。後姿から彼女が何を考えているかはわからない。
ザァ、冷たい風がどこから吹きつける。それは、今の季節からは想像できないほど、冷たい。一瞬なのに思わず体が震えてしまいそうだ。いや、ちょっとだけ、ミューリスの体は震えた。
ミューリスはその時、嫌な予感を感じた。その冷たい風にではない。ジリジリと、突き刺すようなそれは――視線だ。
「ク、クティトさん……え?」
ミューリスは肩越しに背後を確認し、視線を前へと戻しながら彼女の名前を呼び、言葉を失った。
なぜなら、そこに立っていたのは、まるで冬が人の姿にでもなったかのように真っ白な少女だったから。服も背丈もクティトと一緒。だが、茶色の髪は雪のように白い。
「ク、クティトさん……?」
もう一度、彼女の名前を呼んだ時――背後でナニカの気配を感じた。
「ク、クティトさん……!」
振り向けない。いや、振り向いてはいけないような気がした。だが、そのナニカはゆっくりとこちらへと近づいてくる気配がする。ミューリスは今にも泣きそうな表情で名前を呼ぶ。
すると、目の前の少女がゆっくりと振り向く。白髪がどこからか吹きつける冷たい風で揺れる。
『――ッラァァァァオオオッ!』
背後ですさまじい声が轟く。ミューリスは悲鳴を漏らす。だが、逃げられない。あまりの恐怖で動けなくなってしまったからだ。
怖い、怖い、こわい。振り向かなくたってわかる。背後のそれがいかに恐ろしいものかを。ミューリスは声にならない声を漏らし――
「やっぱり、目をつけられてたんだね」
振り向いたクティトは青色の双眼をスっと細める。そして、ミューリスは気付く。
彼女の頭部には、ピンっと立つオオカミのような耳が生えており、その後ろ……ちょうど尾てい骨辺りだろうそこから同じように真っ白なオオカミの尻尾が軽く揺れていることに。
それは、昔、絵本や教科書で見た……ミューリスはその姿をよく見るように、その目を限界まで見開く。
「ま、さか……獣人」
ポトリと、零れるように出たミューリスの掠れた言葉に、クティトの頭部に生えたオオカミの耳がピクリ、と揺れた。