十匹目 ただ、会いたかっただけなの。それすら許されないの?
「次は、お前だ」
クティトはそう言って少女へと近づく。彼女が一歩近づくたびに、凍った草花がパキン、という音を立てて砕けていく。少女は先ほどまで悪魔がいた場所を見つめたまま動かない。
「ま、待ってください!」
咄嗟に立ちあがり、声を出せば、クティトは歩みを止め、振り向く。その顔には静かな怒りが浮かんでいるようにも見えたミューリスはグッと息を呑む。
辺りの冷気がまた少し冷たさを増したような気がする。そして、それは範囲が広がったらしい。ミューリスの体に冷気が纏わりつき、体が震えそうになる。
「なぜ、止めるの?」
「だ、だって……彼女は……悪魔ではありません……! そ、それに、まだ小さな子どもです……」
一言彼女に言うたびに、辺りの空気が重くなっていく。それは静かに心臓を締め付けてくるように。それが彼女から放たれるプレッシャーであることは明白だ。
「小さな子どもね。だから? それで殺さない理由にはならない」
「――っ、ですが」
少女はまだやり直せるはずだ。悪魔と一緒にいたが、彼女は幽霊でもないし悪魔でもない、ただの人間だ。それを殺すなんて間違っている。
ミューリスは震える体を抑え、少女とクティトの間に立つ。クティトは不快そうに眉を顰める。すると、少女はハッとして、そこから逃げようとする。
だが、逃げることは許されない。動こうと舌少女の体に氷の杭が突き刺さり、大木へと磔にする。
「キャァァァッ!?」
「クティトさん! なにをしているんですか!」
少女が痛みに叫び、涙を流す。ミューリスは弾かれるように少女へと駆け寄ろうとするが、それよりも早く、クティトの氷がミューリスの足を包むように凍り付き、動きを封じた。
「ソイツに近づくな。死ぬよ」
「クティトさん! 貴女はなんてことを……!」
「こんな小さな子だからかわいそう?」
「え……?」
少女から流れる血に心をきしませながら、ミューリスが半ば泣きそうな声でそう言って酷く後悔した。クティトの表情が見たこともないほどに――悲しみに歪んでいたから。
まるで、冬の夜、誰もいない町で降り注ぐような孤独と悲しみにまみれた雨のようだった。ミューリスはそんな彼女の声と表情にこれ以上ないほどの痛みを胸が訴えた。
呼吸が重い。胸が苦しい。口から吸いこんだ冷気が肺を冷やし、流れた冷たい血液が体を冷やしていく。
「アンタが今やっていることの方がもっと、その子どもにとってかわいそうなことをしている」
「な、なにを言って……」
「アンタは、悪魔の手を取ってしまった人間がどうなるか知らないだよね」
クティトはそう言って、ミューリスの横を通り抜け、少女へと歩み寄る。ダラダラと血を流し、顔を涙と鼻水でグチャグチャにした少女は、「やめてよ。こないで」と泣き叫ぶ。
「一度でも、悪魔の手を取れば、ソイツはもう普通には戻れない。一生、叶うことの無い夢を追い続け……死んでも天国からの導きは来ないで、永遠に彷徨い続け、最後には悪霊になってしまうの。そうなったら、この子は永遠に苦しみ続ける。そこで会えるはずのない友達を探し続けて」
その言葉は重たい。ミューリスは心臓に氷の杭でも刺されてしまったかのように声を出すことができなくなる。
「会えるもん……」
凍てつくような空気と静寂が包んだその時、少女が泣き声交じりに小さく呟く。ミューリスとクティトが少女へと注目する。
「ラッキーに会えるって言ってたもん」
「誰に?」
先ほどの暗く悲しみを思わせる声から、冷たく淡々とした言葉でクティトが聞き返す。少女はビクリと体をすくませる。が、体に刺さった杭が痛いのだろう。呻き声を小さく漏らす。
だが、すぐにそんな痛みなど忘れてしまったかのように、少女は見下ろすクティトを鋭く睨んだ。その眼光は幼き少女のものとは思えない。
「ラッシュバルトおじちゃん。悪魔にお願いすれば、なんでも叶えてくれるって言ってたもん!」
少女の言葉にミューリスは絶句した。まさか、こんな少女に“悪魔にお願いすればいい”と言うなんて。確かに、悪魔や幽霊と言ったものを信じない人が多くなりつつあると言うのは知っていた。が、それでも、たとえ冗談だとしても……あまりにも、酷い。
クティトの空色の瞳が射抜くように細められる。少女は喉笛を噛みちぎらんと叫ぶ。だが、その声は酷く痛々しかった。
「みんな、みんな、言ってた! 手伝ってくれるって! だから、頑張って悪魔を呼んで、みんなから心臓を貰ったの! それのどこが悪いの!?」
「……全部悪い」
興味がないと言いたげにクティトはうんざりした様子で、そう吐き捨てた。少女の瞳が憎悪で濁る。
「悪魔に頼れって言ったソイツはすごく悪い奴だ。たとえ、冗談だとしても言っていいことじゃない。こんな何も知らない子どものアンタには余計に」
「だ、だったら助け――」
「無理。どんな理由であれ、悪魔の手を取ってしまったんだから。死ぬ以外の未来は……ない」
クティトは右手を振り上げる。コォォ、と冷気を纏った手が辺りの空気を凍てつかせていく。彼女は本気で殺すつもりだ。ミューリスは止めなければ、と思い手を伸ばそうとするが――
「なんで、なんで……これは……悪いことなの……?」
少女がすがるような視線でクティトを見上げる。いくつもの涙の跡が残った顔に、恐怖に震える唇。クティトは右手を刃のように指をそろえる。
「すごく悪いこと。とても、とても、悪いことだ」
スっと手が振り下ろされる。その時、少女が叫んだ。
「そんな、誰も……教えてくれなかったのに!」
グシュッ! クティトの右手が少女の胸へと突き刺さる。薄く氷を纏い、刃のように鋭くなった彼女の手は、柔らかい肉をあっさりと斬り裂き、その中の筋肉や骨を凍てつかせ、砕いていく。少女の口と胸から大量の鮮血が吐き出され、それはクティトのコートと彼女の顔や髪を赤く濡らす。
「ガハッ……! そ、んな……いや、だ……いやだ」
少女が自分の心臓を貫くクティトの右手を掴む。予想していない行動にクティトが僅かに瞳を見開く。ミューリスはその光景を見ながら、少女を起点に辺りの空気が変わっていくのを感じた。
なにか、嫌な気配が這いずり寄って来る。それは、強烈な殺気を纏っている。
「ク、クティトさん! な、なにか来ます!」
「わかってる。クソ……コイツ」
掴まれた右手が抜けないようだ。クティトは舌打ちをすると、左手を振り上げ――右腕を斬り落とした。
状況が理解できずに、呆気に取らるミューリスは引き抜いたクティトの右ひじ先からボタボタと流れる紅い川から目が離せなかった。花びらのように散る血が視界に広がる。が、その間にもナニカの気配は近づいてきている。
「クティトさん! 血が……」
「気にしなくていい。それよりも……いや、いい」
クティトは何かを言いかけ、やめると、口と胸から血を吐き出し続ける少女を鋭く一瞥すると、そのままミューリスの元へと駆け寄る。
「アンタのことは守る」
「へ、ク、クティトさん?」
クティトの左手が伸ばされ、ミューリスを一瞬で抱え上げ――
「さて、ちゃんと口閉じてた方がいいよ。じゃないと、舌噛むよ」
その言葉に嫌な予感が走り抜ける。脇に抱えられたミューリスは不安で押しつぶされた半笑いを浮かべ、クティトを見上げた。
「あの、クティトさん。あの、私、心の準備が――」
そう言い終える前に、クティトは軽く地面を蹴り、空へと飛びあがった。大砲で撃ちだされたんじゃないかと思うほどの風が襲う。
「ぎゃぁぁぁぁぁっ! と、飛ぶ前に、一言言ってくださいよぉぉぉぉぉ!」
恐怖を紛らわすために叫んだミューリスの声が森中に響き渡る。クティトはそれにうるさそうにしながらも、近くの木のてっぺんへと氷の足場を作ると、そこに着地し、ミューリスを抱えたまま下を覗き込んだ。
自然と、ミューリスも必然的に地面を見下ろすことになる。高さにして十メートル以上はあるだろうか。そんな場所で脇に抱えられたミューリス。ある意味宙づりと変わらないその状況に恐怖を感じるなと言うのは無理な話だろう。
「ひぃぃぃ、落ちる! 落ちちゃいますよクティトさん!」
「うるさいな。大丈夫だよ。私が掴んでるから」
「そ、そう言われても――あ、クティトさん! 右手……大丈夫ですか……?」
両手でクティトの体に抱き着くようにして彼女の顔を見上げる。ヒュウヒュウと冷たい風が吹くたびに体が震えそうになる。が、それよりも彼女の手の方が心配だった。
あんなに大量の血が出ていた。加えて、彼女は肘から先は本当に無くなっていた。が、クティトはまるで気にしてないというようにフッと鼻で笑った。
「平気だよ。私はアンタら人間とは違うから」
そう言ってクティトは右手をひらひらと振ってみせた。そう、初めて見た時と変わらない、白く細いしなやかな手が。
「えっ、な、なんで……!?」
その疑問にクティトが答えることは無い。ただ、その時、ミューリスは彼女の表情がどこか寂しげに見えた。だが、すぐにその表情は見えなくなってしまう。
やはり、なんだかおかしい。ミューリスがクティトを見つめたままそんな考え事をしていると――
『グルォォォォォォォオオオオオオン!』
腹の底まで撃ち抜いていくような重低音が森を駆け、それは森の木々や草花を押しつぶすように木霊する。あまりにも大きなその音が、鳴き声だと理解するのにミューリスは時間がかかった。
「な、なんの声ですか……」
クティトがギュッとミューリスを抱える腕に力を少し込める。ミューリスは下を眺める彼女に倣うように、おそるおそる両手でしがみつきながらそっと下を覗き、言葉を失った。
『グルォォォォォ……』
そこには巨大な獣がいた。黒く、鋼よりも硬そうな体毛に覆われたそれは、獰猛な犬のような顔に人間の男性のような上半身、そして、犬のような下半身を持つそれは、二本足で立ち、血のように真っ赤な瞳でこちらを見ていた。
「――ひっ」
憎悪が心臓を突き刺してくる。ゴクリと生唾を呑む。あの魔獣は、初めて見たあのナメクジみたいな魔獣なんかとは比べものにならないほどの醜悪さをアレは含んでいる。あの、悪魔ですら霞んでしまうほどにだ。
魔獣がコチラを見て、ニヤリと口元を歪める。無意識にクティトにしがみつく手に力が入る。クティトは目線だけ動かし、ミューリスを見ると、ギュッと左手に力を込めた。
安心させるような、そんな温かく力強い感触のおかげで、ミューリスは逃げ出しそうな心を引っ張り戻せた。
クティトの体がぐらりと傾く。
「アンタのことは守るよ。だから、少し我慢してて」
「え? クティトさん? どういう意味で――ひぁぁぁぁぁっ!?」
体に強風が吹きつける。引っ張られるような、感覚にミューリスは叫ぶ。まるで、流れ星のように落下していく二人。すると、落ちてきたと思い込んだ魔獣がニターっと口を大きく開く。
ミューリスはこのまま食べられてしまうと思った。だが、そうはならない。魔獣の口までもう少しというところで、クティトは魔獣の鼻っ面を蹴り上げたから。
『ルァァッ!?』
そのままクルリと宙で一回転し、降り立つように着地したクティトはミューリスを抱えたまま、トントン、とつま先で地面を叩いた。
まだ、内臓がフワフワと浮いているような違和感が残っている。ミューリスはこのまま魂が口から抜けてしまうのではと思っていた。が、抗議の声を上げたところで、意味がないともうわかっているので、ミューリスは落ちないように彼女にしがみつくしかできない。
魔獣が苛立たし気に鼻をさすりながら、クティトを睨みつける。その大きく開かれた赤い瞳はまるで、夜に上る月のようだ。
あぁ、あの魔獣は怒っているんだ。なぜか、ミューリスはそう感じた。普通であれば、あんな魔獣見たら、怖いと思うはずなのに。いや、実際、ミューリスは怖かった。
だが、それよりもあの魔獣が怒りを感じているということのほうが気になった。
「ラッキー」
耳を澄まさなければ聞こえにくいほど、小さな声が聞こえた。その瞬間、魔獣はうなり声を上げるのをやめ、大きく見開いた瞳を僅かに細めた。そして、構えていた両手をだらんと下げる。
明らかに様子が変だ。が、気にせず、クティトが右手に魔力を集めるているのに気付き、すぐさまミューリスは服を引っ張り止める。
青色の瞳が不快そうにミューリスを射抜く。その瞳の奥が何かを伝えているようにも見える。が、それをミューリスは理解できなかった。
『グォォォ……』
魔獣が少女の方へと跪く。そして、グルグルと喉を鳴らす。それは、さっきのような敵意と怒りに満ちたものではなく、飼い主に甘えるようなソレだった。
いや、違う。ミューリスは直感する。あの魔獣は……
「ラッキー」
もう流れる血もないのか。真っ青な顔で殆ど声とも言えない声で名前を呼び、少女はフルフルと魔獣の顔へと手を伸ばす。少女の体を貫いていた氷の杭はいつの間にか砕けていた。
グルグルと喉を鳴らした魔獣は待っていたという言うように、その小さな手を包むように大きな手で握る。少女がその顔に安堵の色を浮かべる。
ミューリスはその光景に言いようのない違和感を感じる。胸の奥がざわつく。
「ラッキー、やっと会えた――」
少女はそれ以上言葉を続けることはできなかった。なぜなら、彼女が言葉を出すために必要な――頭部が無くなっていたからだ。遅れるようにシューッと音を立てて頭部のなくなった少女の首から赤い噴水が上がる。
濃い鉄の香りが空気に漂う。魔獣がゆっくりと、立ち上がる。少女の手を握ったままなので、ぶらんと少女の体が地面を離れる。その光景は、まるで子どもが人形でも持っているかのようだと考えてしまったミューリスは、そんな自分に嫌悪した。
『……ド、ウシテ、ダ』
バラバラの音程でそう呟く魔獣。クティトが右足の踵を上げ、体勢を僅かに低く構える。だが、ミューリスは、首からダラダラと血を流し続ける少女だったそれに全ての思考を奪われているために気付かない。
『ボク、ハ……アイ、タク、ナカッタ』
「だろうね。そんな姿じゃ」
クティトは地面を蹴り、一瞬で魔獣の至近距離まで迫る。そのまま、流水が流れるように体を捻り、魔獣の体に回し蹴りを放った。薄く氷を纏ったその蹴りは、鋼のような体毛すら切り裂き、その奥の筋肉も切り裂く。
強烈な衝撃により三メートルはある巨体が小石のように、転がり木々をなぎ倒し、地面へと倒れた。ドスン、という音と砂埃が舞う。
結構派手に吹っ飛ばされたようだが、大したダメージにはなっていないようだ。魔獣はブルブルと頭を振って立ち上がる。斬り裂かれたはずの傷口はもう塞がっていた。
その様子を見たクティトはニヤリと、口元を歪める。憎悪と喜びが入り混じったような酷いものだった。が、ミューリスは、何故か、酷く悲しい気持ちになった。
「さて、アンタはここにいてもらうよ」
「え、ですが……邪魔なのでは……」
そう言ったミューリスは、苦い顔をした。
「……邪魔ではない。アンタは私の近くにいないとすぐ死んじゃうから」
地面へと放り投げられ、尻餅をつく。ミューリスは痛みに顔を歪めながら顔を上げれば、いつの間にか、氷の檻がミューリスを守るように現れていた。クティトは檻を確認すると、すぐに魔獣の方へと向かって行く。
残されたミューリスは恐る恐る、氷でできた格子を掴む。だが、それは氷でできている筈なのに、全く冷たくはなかった。
次回更新日は2019年11月26日(火)ごろを予定しております。




