0匹目 出歩いてはいけないよ
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草木眠る深夜。
男は一人、夜道を歩いていた。月明かりが照らすだけでは心細い帰り道、男は手に持ったランタンの明かりを頼りに森を歩く。
踏み固められた地面からコツン、コツン、という自分の革靴が音を奏でる。その音が余計に不安を駆り立てる。
――紅い月が出る前に家に帰りなさい。もし、家から遠いところにいるのなら、近くの協会で守ってもらいなさい。
幼いころから言われてきた言葉を思い出す。紅い月、それはヤツラの時間だ。
男は空を見上げ、月が出ていないことにホッと胸を撫で下ろす。そう言えば、今日は新月だったのか。そして、「くだらねぇ、おとぎ話にビビるなんて子どもじゃあるまいし」と呟き、はっと鼻で笑い飛ばす。
だが、所詮強がりに過ぎない。小さな頃に言われた怖い話というのは、知らず内に恐怖を掻き立てる材料となっている。
男は気付かない。女神など信じないと豪語する彼がいつの間にか、妻から無理やり持たされた十字架を握り締めていることに。
ザァ、ザァ。
不気味な風が吹き、森がそよぐ。男は思わず立ち止まり、辺りを見回す。その額から汗が流れ、十字架を力いっぱい握りしめる。
いつもなら、その爽やかな風に心の疲れは幾分か薄れていただろう。だが、今はその風が何よりも恐ろしかった。
早く、早く、早く家に帰らなければ。歩く速度を速めたことにより、少し古びたランタンは横に大きく揺れ、キィ、という音が響く。それだけで体がビクビクと過剰に反応する。
もう一度、空を見上げた。星々は煌めき、大地をうっすらと照らしている。だが、そこに月は無い。小さく安堵の息を零した時、なにか、“違和感”感じた。だが、正体がわからず、男は口を引き結び、再び歩き始める。
「……ん? なんだこれ」
男は不意に何かを踏んづけたような気がして顔を下に向け、呟く。ランタンの明かりで照らしてみれば、そこには赤い首輪が落ちていた。
犬用の首輪みたいだ。男はしゃがんでそれを拾い上げた。ネームプレートが付いており、確認すれば、そこには“ラッキー”という文字が刻まれている。
「誰かの落とし物か?」
犬の首輪だけ落ちていると言うのもなんだかおかしなものだが、男は首輪を近くの木の枝へとぶら下げた。葉っぱが少ない木なので、探している人は見つけ出しやすいだろう。
良いことをしたという気持ちが、ほんの少しだけ恐怖心を薄める。男は小さく笑み浮かべると再び歩きだした。
だが、暫く歩いているうちに男は再び恐怖心に襲われた。いつもなら、すぐに自分の村が見えてくるはずなのに、いつまで歩いても見えてこないどころか、村への看板すら見ていない。
そして、男は気付いていた。誰もいないようなそんな暗い森の奥からずっと、視線が男を突き刺していることに。それが森に入った時からだと。
最初は勘違いだと思っていたが、ナニカの気配を感じてしまった。男は険しい表情で十字架をギュッと握り締めた。
そして、視線に威嚇半分、自分の恐怖心を薄めるのに半分で愚痴った。
「クッソ……あのクソジジイめ……部屋が空いてるのに満室だなんてぬかしやがって……っ」
怒りに任せに地面を蹴ると、ちょうど落ちていた石ころにつま先が当たったようだ。軽い音と共に小石が森の暗闇へと吸い込まれるように消えていく。男はもう一度、怒りに任せに地面蹴ろうと足を上げたその時――
「どうされましたか?」
「えっ」
上げていた足を弾かれるように急いで降ろした男は慌てた様子で振り返る。すると、そこにはローブを着た一人の男が立っていた。フードを目深に被っているために表情こそわからないものの、声や体格からしてきっと男性だろう。
「道に迷ってしまったのですか?」
彼は穏やかな口調でそう言った。こんな時間に森を歩くだなんて怪しいやつだ。だが、それは自分にも言えたことだ。
「あ、いや。帰る途中なんだ」
できるだけ穏やかに返すと、彼は口元に笑みを携えたまま一歩、近づく。
「そうでしたか。ですが、こんな時間に森を歩くのは危険です。最近では、魔獣も出ると噂されています。どうでしょう? 狭いですが、私の家で夜を過ごしては」
「え? あ、いや……お気持ちは嬉しいが、悪いですよ。こう自分で言ってはなんだが、こんな夜中に森を歩いている人間を易々と自分の家に呼んでは危険だ」
そう言って男は笑う。普段であれば、こんな夜中に森で出会った人間など恐ろしくて仕方ないと思うところだが、不安で押しつぶされそうな時となれば別だ。
他人と話すという行為のおかげで、いくらか恐怖心が薄れた。笑みを浮かべる余裕ぐらいはでてきた。だからといって、目の前の彼についてくと言う選択肢はない。
なぜなら、男には家で待つ大切な妻がいるのだから。思い浮かべれば、フワリと胸の奥が温かくなる。
「それに、すまないな。家で妻が待っているんだ。もう、寝ているかもしれないが、それでも一秒でも早く帰ってあげたいんだ」
そう、大切な、つい先月式を挙げたばかりの。まさに幸せの絶頂であり、こんな出張さえなかったらずっと妻の傍で仕事ができた筈なのだ。そう考えたら、じわじわと苛立ちが沸き上がるのを感じてしまった男は被っている帽子を深く被り直す。
「だから、厚意はありがたいが遠慮するよ。……貴方も早く家に帰った方がいい。魔獣の噂は俺も聞いている。それに、俺はおとぎ話なんてものは信じないが、悪魔でも出そうな夜だ」
男はそう言って声を出して笑った時だった。
ゾクリと冷たいなにかが背筋を走り抜けた。それはまるで、血管の中に氷でも入れられてしまったかのような痛みにも似た冷たさ。男がブルリと体を震わせると、ローブの男は心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか?」
「え、あ……大丈夫だ。夜中だから冷えてしまったみたいだ」
「そうでしたか。なら、やはり私の家で暖を取っては?」
「いや、本当に、その言葉だけで十分だよ。ありがとう」
男はそう言いながら目の前の彼に不信感を抱いた。どうして、ここまで執拗によくしてくれるのか、と。まさか、彼は悪魔なんてものを信じているのだろうか。あんなおとぎ話を……いや、もしかしたら魔獣に襲われるのを心配してくれているだけなのかもしれない。が、正直言って、男は魔獣という存在も信じてなどいなかった。
だがもし、本気で悪魔や魔獣を信じているような奴だったら……気味が悪い男だ。早々に立ち去るのが吉だろう。
「じゃあ、本当にありがとう。少し夜道に不安になっていたが貴方のおかげで少し恐怖心が薄れたからそろそろ行くよ。貴方も早く家に帰った方がいい」
そう言うが早いか、男は返事も待たずに踵を返し歩き始めた。走り出してしまいとこだが、その気持ちをグッと押さえ、歩く。早く、彼から離れたい、その一心で歩く。
「……では、また」
ローブの男がそう言って口元に笑みを浮かべる。だが、その声も表情も男が気付くことは無かった。
暫く歩いていると、男は背後から足音がしていることに気付く。自分の動きに合わせているのか、止まれば止まり、動けば足音がまた響く。
まさか、さっきのローブの男か、とその姿を思い浮かべる。
「まさか……追って来たとかないよな」
そう考えて、男はあの異様な雰囲気を放つ奴ならあり得るかもしれないと肯定した。声などは人の好さそうな感じはしていたが、ああいうやつに限って頭のネジが何本か吹っ飛んでいることもある。
男はローブの男を脳内から追い出すために最愛の妻だけを思い浮かべる。帰りの遅い自分を心配してくれているだろうか。帰ったら、遅くなったことを謝らなければ。
そう考え表情を綻ばせたその時――
「アナタ」
女性の声が背後から聞こえた。その声に男は立ち止まるしかない。そして、困惑に満ちた表情で彼は振り向くか否かを考える。
冷たい汗が背中を流れる。ランタンを持つ手が震える。握り締めていていた筈の十字架はいつの間にか無くなっていた。
「アナタ」
また、声が聞こえた。先ほどと全く同じトーンのそれから男は今にでも逃げ出したい気分だった。
あれは、妻の声だ。こんな静かな森の中だ。聞き間違うはずがない。だからこそ、男はその心臓に冷たい水でもかけられたような気がしているのだ。
「……ッ」
こんな場所にいるはずがない。妻は家で待っている筈だ。迎えに来たということはあるかもしれないが、彼女は敬虔な教会の信徒だ。霊や悪魔と言った超常的なものを信じ、わざわざ十字架まで無理やり持たせた彼女が危険だと言われているこの時間に外に出るはずがない。
きっと、幻聴だ。男はそう言い聞かせ――一気に駆け出した。
「はぁ……ッ。はぁ……っ!」
男はわき目も振らず全力で森を抜けることに集中する。両手両足を全力で動かす。すると、背後から誰かが走る音が聞こえてくる。
やはり、追いかけてきたか。男は恐怖心で砕け散りそうな心を必死に強く持ちながら、走った。
「アナタ、どうして逃げるの? 私よ、迎えに来たの」
「――ひっ」
男は短い悲鳴を上げた。無理もない、男は自分の息が苦しくなるほど全力で走っているのに、背後から聞こえた妻の声は先ほどと全く同じトーンであったからだ。
明らかに背後のそれは走っている筈なのに、息が切れたり乱れた様子はまったくない。いや、息遣いさえ全く聞こえないと、気付いてしまった男は恐怖心を紛らわすために堪らず叫んだ。
「うわぁぁぁぁああああああああッ!」
「アナタ、どうして逃げるの?」
もう、あれが最愛の妻ではないことはわかりきったことだ。だが、声は変わらず聞こえてくる。男は“どうして俺がこんな目に”と泣きたくなった。
その次の瞬間、男の耳元で声が聞こえた。それは、生きている人間が出せるものだと思わせるほど、氷のような冷たい声で一言。
『こんな真夜中に外を歩いたら危ないわよ』
「――うわっ」
同時に男は地面へと倒れ込んでしまう。何かを踏んづけた拍子に転んでしまったようだ。カラン、カラン、と音を立ててランタンが転がり、壊れてしまったようだ。明かりが徐々に弱くなり、最後は暗闇が辺りを支配する。
灯りという心の拠り所が無くなってしまった。男は歯をガチガチと鳴らし、転ぶ原因となった忌々しい存在へと視線を向け、言葉を失った。
「え、あ、な……!」
そこには、赤い首輪が落ちていた。暗闇でも何故かはっきりと分かるほど鮮明に見えるソレから逃げるように男は立ち上がろうとした。
だが、男は立てなかった。
なぜなら、そこにある筈の両足が――無くなっていたから。薄明かりに反射するはいつの間にか自分の周りに広がった血だまりだけ。
「ひっ、あ、なんだよ……なんなんだよこれ!」
何故痛みはないのか。男は半泣きになりながら這いつくばりその場から逃げようと試みる。だが、それは許されない行為だ。
男の背中にドスン、と重たいものが乗せられる。それにより男は顔面を地面へと叩きつけられてしまい、ガツンと殴られたような痛みが額から後頭部へと走り抜けていく。
「うぐ……っ」
どうにかして立ち上がろうとするも、背中の重みのせいで体は思うように動かない。痛む頭で振り向いた男は自分の背中に乗っている正体を睨む。
赤いベールのような薄明かりがその正体を照らす。黒いローブに身を包んだそれは、口元に笑みを携えていた。男はその人物が先ほどの男とは別人だと体格から予想する。そして、それは当たっていたようだ。
「ダメですよ。こんな時間に外を歩いては」
ローブの人物は若い女性のようだ。鈴の音のようにかわいらしい声は美しくもある。が、その声には温度も感情など感じさせない無機質なものだった。
声だけで分かる。今、目の前にいる奴は人間ではない、と。男は自分の恐怖心を誤魔化す様に口を動かす。
「お前は、だ、誰なんだ」
ガタガタと震えた言葉にローブの人物はカラカラと笑って首を傾げる。
「誰? そんなことはどうでもいいでしょう? だって、貴方はもう」
男の首筋へと手を伸ばしたローブの人物はニヤリと歯を見せる。ギラりと輝くその笑みの後ろで男は――真っ赤に輝く月を見た。どうして、今日は新月のはずでは。
血のように真っ赤に染まった月。あぁ、そうか、と男は胸の内で呟く。首に伸ばされた手がスーッと首筋を横に撫でる。
「――死んでいるのだから。かわいそうに、恨むのならこんな結末に導いた女神を恨みなさい」
「あ、あ……」
「フフフフ、ウフフフフ」
男が最後に目に焼き付けた景色は、笑う女性と紅い月だった。