選択
時が止まるような衝撃だった。右手に持っていたフォークを落とす。お皿に当たって、その音が店に響く。我に返る。
「……ごめんなさい」
誰に言うでもなく、呟いた。
「ごめん……驚かせて」
山口くんは前のめりになった体を引いて、椅子の背もたれに寄りかかる。
わたしは何も言わない。首を振ることもない。
「今なら……っていうのは、別に冗談とかじゃないんだ。僕、本当にあれからずっと、丸山さんのこと、忘れたことないんだよ」
「……ありがとう」
そう言うのが精いっぱいだった。
「返事は、もらえない、かな?」
彼があのときと同じように、わたしを見ているのがわかった。
顔を上げることができなかった。
「……今はできない」
「でも、今日このまま別れたら、君はもう僕とは会ってくれない。違う?」
「……会うよ。会おう。何度か会って、それから返事してもいいでしょう?」
そう言って顔を上げる。目が合う。
「本当?」
「うん」
「よかった……」
彼は笑った。心底ほっとしたように。
二週間後に会う約束をして、その日は別れた。
わたしも、ずっと会いたかったのだ。誠と付き合っているときも、山口翔太のことを思い出していた。
誠に抱かれながら、頭の中には彼を住まわせていた。自分が怒鳴った声がずっと響いていた。頭の中の彼はいつも悲しそうな顔をしていた。
中学二年の夏から、わたしは平穏で静かな毎日を過ごした。もう何も失くなることはなかった。
高校は、なるべく遠い学校へ、誰もわたしを知らないところへ、と思って受験した。通学に一時間半かかった。
山口くんは、わたしたちの地元から自転車で行ける高校に決まったらしかった。高校生になってから、駅で一度だけ見かけたが、見つからないように通り過ぎてしまった。二度と会ってはいけない人だと思っていたから。
東京の私大に入った。同じ中学の子もいたかもしれない。でも、大学は広すぎてわからなかった。少なくとも吹奏楽団に、中学の部活の仲間はいなかった。山口くんは千葉で一人暮らしをしていると人づてに聞いた。
月曜、出勤。
チームミーティングがあった。
「八月のインタビュー、作家の佐々木文子さんで行こうと思う。澤口、スケジュール調整頼む」
瀬川さんの呼び捨てが心にぐさりと来なかった。浮かれていたのかもしれない。
「石井くん、丸山さん、六月の誌面上がってきたから見ておいて。いい仕上がりだぞ」
と瀬川さんがわたしたちを褒める。頷きながら、笑顔になる。
いいことが続いて、しばらくは笑顔でいられた。
でも、すぐに不安になった。自分がこんなに幸せだと、バチが当たるのではないかと。
黒崎さんのインタビュー記事は、瀬川さんの言う通り、いい仕上がりだった。
石井さんのレイアウトがよかった。写真がよかった。彼女はきれいに写っていた。わたしはインタビューを文字に起こしただけだ。
「石井さん、さすがですね」
一通りの確認を済ませ、感想を言う。
「え、何が」
「レイアウト、きれいだなって」
「あ、そうかな、ありがと。まあ、いい写真が撮れたのは丸山さんのおかげだから。また頑張ろうな」
目の前のデスクの石井さんはそう言って笑うと、すぐに仕事に戻る。
わたしも慌ててパソコンに向かって、八月のインタビュー案を作る。
中学生の昼休み、よく図書室に逃げた。佐々木文子という作家の作品には、その頃出会った。
恋愛小説を書く人だ。
わたしには経験できない恋を、すべて彼女の本の中で知った。
暖太という男の子が出てくる、『ひなたぼっこ』という話を、三回も借りて読んだ。
暖太は、幼なじみの麻子をずっと守っている。でも、彼は病気で長くはもたない命。だから、自分がいなくなっても麻子を守ってくれる男を探している。しかし、そんな男は見つからないまま暖太は死ぬ時を迎える。二十歳。病室のベッドの隣で、麻子は、「心の中のあなたがわたしをずっと守ってくれる」と言う。微笑みながら、暖太は息を引き取った。
初めて読んだのは、ブラウス事件の頃だった。その頃から、わたしの心にはずっと山口翔太がいたような気がする。
そして、またその男がわたしの目の前にいる。六月の最初の土曜。
彼はお店をたくさん知っているようだった。芸能界との関わりがそうさせているのだろう。
「会わない間、どうしてたか教えてよ」
「高校や大学のこと?」
「そう。僕は二高に行って、サッカーをやって、それから、千葉の大学で経済学部。丸山さんは?」
「わたしは……」
言葉に詰まる。わたしは何をしていたのだろう。高校や大学で。逃げただけの場所で。
「吹奏楽部だった?」
「え? ああ、うん。そう。吹奏楽部だった。高校も大学も」
それから、同じような調子で彼の質問に答える。大学の時の専攻、就活生の頃──。
「恋人はいた?」
楽しそうに彼は聞く。植村誠の顔が浮かぶ。
「……恋と呼べるものなのか、よくわからないけど」
「ごめん、つい……気になって」
わたしは首を振る。
そして、彼にいつ返事をするべきか迷う。
山口くんとの再会は素直に嬉しかった。そして、わたしが恋をしたことがあるとすれば、その相手はきっと山口くんであるということもわかっていた。
でも、二十八という年齢で付き合うには、彼はわたしにとってあまりにも、幼い憧れであるように思う。
「あのね、山口くん」
「ん?」
「わたしもたぶん、あのときあなたのことが好きだったよ」
彼が目を見開く。それから、その目を細めて笑う。
「ありがとう」
「でも、これからもう一度あなたを好きになれるか、やっぱりわからない」
「だから今、試しているんでしょ」
「そうだけど……」
わたしはうつむく。
「僕は、今度こそ丸山さんを守りたいんだよ。そりゃ、今は仕事もしてるし、四六時中一緒にはいられないけど……。彼氏に、してくれないかな」
うつむいたわたしの顔をのぞき込むようにして言う。
誠に同じようなことを言われたとき、わたしはどうやって返事をしたのだろう。
「……後悔するかもしれないよ」
「それでもいい。今が大事だから」
「じゃあ……付き合う」
うつむいたまま、小さな声で答えた。彼の手がわたしの頬をなでる。
「目を見て言って」
顔を上げる。目が合う。
「よ、よろしくお願いします」
お辞儀をするふりをして、もう一度うつむいてしまった。




