表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/23

選択

 時が止まるような衝撃だった。右手に持っていたフォークを落とす。お皿に当たって、その音が店に響く。我に返る。

「……ごめんなさい」

 誰に言うでもなく、呟いた。

「ごめん……驚かせて」

 山口くんは前のめりになった体を引いて、椅子の背もたれに寄りかかる。

 わたしは何も言わない。首を振ることもない。

「今なら……っていうのは、別に冗談とかじゃないんだ。僕、本当にあれからずっと、丸山さんのこと、忘れたことないんだよ」

「……ありがとう」

 そう言うのが精いっぱいだった。

「返事は、もらえない、かな?」

 彼があのときと同じように、わたしを見ているのがわかった。

 顔を上げることができなかった。

「……今はできない」

「でも、今日このまま別れたら、君はもう僕とは会ってくれない。違う?」

「……会うよ。会おう。何度か会って、それから返事してもいいでしょう?」

 そう言って顔を上げる。目が合う。

「本当?」

「うん」

「よかった……」

 彼は笑った。心底ほっとしたように。

 二週間後に会う約束をして、その日は別れた。


 わたしも、ずっと会いたかったのだ。誠と付き合っているときも、山口翔太のことを思い出していた。

 誠に抱かれながら、頭の中には彼を住まわせていた。自分が怒鳴った声がずっと響いていた。頭の中の彼はいつも悲しそうな顔をしていた。 

 

 中学二年の夏から、わたしは平穏で静かな毎日を過ごした。もう何も失くなることはなかった。

 高校は、なるべく遠い学校へ、誰もわたしを知らないところへ、と思って受験した。通学に一時間半かかった。

 山口くんは、わたしたちの地元から自転車で行ける高校に決まったらしかった。高校生になってから、駅で一度だけ見かけたが、見つからないように通り過ぎてしまった。二度と会ってはいけない人だと思っていたから。

 東京の私大に入った。同じ中学の子もいたかもしれない。でも、大学は広すぎてわからなかった。少なくとも吹奏楽団に、中学の部活の仲間はいなかった。山口くんは千葉で一人暮らしをしていると人づてに聞いた。


 月曜、出勤。

 チームミーティングがあった。

「八月のインタビュー、作家の佐々木文子さんで行こうと思う。澤口、スケジュール調整頼む」

 瀬川さんの呼び捨てが心にぐさりと来なかった。浮かれていたのかもしれない。

「石井くん、丸山さん、六月の誌面上がってきたから見ておいて。いい仕上がりだぞ」

と瀬川さんがわたしたちを褒める。頷きながら、笑顔になる。


 いいことが続いて、しばらくは笑顔でいられた。

 でも、すぐに不安になった。自分がこんなに幸せだと、バチが当たるのではないかと。

 黒崎さんのインタビュー記事は、瀬川さんの言う通り、いい仕上がりだった。

 石井さんのレイアウトがよかった。写真がよかった。彼女はきれいに写っていた。わたしはインタビューを文字に起こしただけだ。

「石井さん、さすがですね」

 一通りの確認を済ませ、感想を言う。

「え、何が」

「レイアウト、きれいだなって」

「あ、そうかな、ありがと。まあ、いい写真が撮れたのは丸山さんのおかげだから。また頑張ろうな」

 目の前のデスクの石井さんはそう言って笑うと、すぐに仕事に戻る。

 わたしも慌ててパソコンに向かって、八月のインタビュー案を作る。

 

 中学生の昼休み、よく図書室に逃げた。佐々木文子という作家の作品には、その頃出会った。

 恋愛小説を書く人だ。

 わたしには経験できない恋を、すべて彼女の本の中で知った。

 

 暖太という男の子が出てくる、『ひなたぼっこ』という話を、三回も借りて読んだ。

 暖太は、幼なじみの麻子をずっと守っている。でも、彼は病気で長くはもたない命。だから、自分がいなくなっても麻子を守ってくれる男を探している。しかし、そんな男は見つからないまま暖太は死ぬ時を迎える。二十歳。病室のベッドの隣で、麻子は、「心の中のあなたがわたしをずっと守ってくれる」と言う。微笑みながら、暖太は息を引き取った。


 初めて読んだのは、ブラウス事件の頃だった。その頃から、わたしの心にはずっと山口翔太がいたような気がする。

 

 そして、またその男がわたしの目の前にいる。六月の最初の土曜。

 彼はお店をたくさん知っているようだった。芸能界との関わりがそうさせているのだろう。

「会わない間、どうしてたか教えてよ」

「高校や大学のこと?」

「そう。僕は二高に行って、サッカーをやって、それから、千葉の大学で経済学部。丸山さんは?」

「わたしは……」

 言葉に詰まる。わたしは何をしていたのだろう。高校や大学で。逃げただけの場所で。

「吹奏楽部だった?」

「え? ああ、うん。そう。吹奏楽部だった。高校も大学も」

 それから、同じような調子で彼の質問に答える。大学の時の専攻、就活生の頃──。

「恋人はいた?」

 楽しそうに彼は聞く。植村誠の顔が浮かぶ。

「……恋と呼べるものなのか、よくわからないけど」

「ごめん、つい……気になって」

 わたしは首を振る。

 そして、彼にいつ返事をするべきか迷う。

 山口くんとの再会は素直に嬉しかった。そして、わたしが恋をしたことがあるとすれば、その相手はきっと山口くんであるということもわかっていた。

 でも、二十八という年齢で付き合うには、彼はわたしにとってあまりにも、幼い憧れであるように思う。

「あのね、山口くん」

「ん?」

「わたしもたぶん、あのときあなたのことが好きだったよ」

 彼が目を見開く。それから、その目を細めて笑う。

「ありがとう」

「でも、これからもう一度あなたを好きになれるか、やっぱりわからない」

「だから今、試しているんでしょ」

「そうだけど……」

 わたしはうつむく。

「僕は、今度こそ丸山さんを守りたいんだよ。そりゃ、今は仕事もしてるし、四六時中一緒にはいられないけど……。彼氏に、してくれないかな」

 うつむいたわたしの顔をのぞき込むようにして言う。

 誠に同じようなことを言われたとき、わたしはどうやって返事をしたのだろう。

「……後悔するかもしれないよ」

「それでもいい。今が大事だから」

「じゃあ……付き合う」

 うつむいたまま、小さな声で答えた。彼の手がわたしの頬をなでる。

「目を見て言って」

 顔を上げる。目が合う。

「よ、よろしくお願いします」

 お辞儀をするふりをして、もう一度うつむいてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ