自由
春になり、わたしは実家にいた。
毎日絵を描いて、ピアノを弾く。編み物をする日もあった。散歩に出て詩を読んだり、河原で歌を歌ったり。
在宅で少しだけアルバイトもした。時間の制約はまったくない。好きな時間にパソコンに向かって、疲れたらやめる。
退職するとき、連絡先はほとんど消してしまった。大学生のときのサークルの人の連絡先もようやく消した。昔の恋人たちの連絡先はもちろん消した。
登録外の電話番号から電話がかかってくる。留守電を聞く。一回だけ山口くん。何回か植村誠。新しく電話帳にその名前を追加することはなかった。折り返し連絡をすることもなかった。そのうち電話は鳴らなくなった。
退職するときに残しておいた連絡先は、家族を除けばたったの五人だった。
その五人も、なぜ残しておいたのかはよくわからない。今までのわたしなら切り捨てていた関係のはずなのに。
九月、ぼんやりと転職サイトを見始める。実家から通えるところで、仕事はなるべく楽なほうがいい。やりがいはいらない。いつか辞めるから。
いつものように夕食を終えて、スマートフォンを眺める。
すると、着信がある。
登録外なら番号表示だが、今回は名前が出た。
応答のボタンを押す。
「……もしもし、丸山です」
『あ、もしもし? 出ないかと思ったよ。元気?』
懐かしい声だった。
「元気です。……瀬川さんは?」
『うん、変わりない』
「そうですか。それで、今日は……」
働いているときですらほとんど電話などしなかった。用事があればメールをする。しかし、この日は電話が鳴った。
『結婚することになったんだ、今度』
心臓の音が一瞬響いた気がした。
「……おめでとうございます。お相手がいらっしゃったとは」
『いい歳だからね、いま流行りの婚活をしたよ』
「はあ、それで、ご結婚をわざわざ伝えるために電話を……?」
『いやあ、メールでもよかったんだけど、しばらく会わないから、ついでだし電話してみたんだよ。久しぶりに声が聞きたいと思って』
くすぐったい言葉が耳元で響く。
「ありがとうございます」
『……結婚式は来てくれるか』
すぐに返事ができない。
「いつですか」
『三月二十日』
「都合がつけば、行かせていただきます」
いつでも行けるくせに、そんなことを言う。
『ぜひ。編集部の初期メンバーもみんな呼ぶからさ。招待状送るわ。住所送っといて』
「はい」
『じゃあ、またな』
「失礼します」
電話を切ってから、わたしは自分の気持ちを確かめる。
あれは恋ではなかった。自分を大切にした今ならわかる。さっき少しどきっとしたのは、昔のなごり。条件反射だ。
二十三時前にメールが二件来た。
一件は、さっき住所を送った瀬川さんからお礼のメール。
もう一件は、「瀬川さんのこと聞いた? 大丈夫?」というメールだった。




