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去る

 石井さんの後任者が異動してきたのは七月のこと。ほとんど話したことのない同期の男子──大野俊一くんだった。 

 ほとんど話したことがないとはいえ、同期と同じ部署で働くのは、入社以来これが初めてだ。なんとなく嬉しいような気もする。

 今までは店舗にいたが、結婚するので本社勤務を希望しての異動ということだった。

 結婚──もう三十歳を目前に控え、その二文字はわたしたちの世代にとって、日常的に目にするものになっていた。SNSを開けば同級生の結婚報告。会社では同期の寿退社。

 大野くんは、石井さんからスタジオ予約や撮影、機材の扱いについて引き継ぎを受けた。夏から秋にかけては、四人で取材に行ったものだ。

 撮影は二人体制だったが、取材は二人で、というわけにもいかず、わたしは自分の仕事をいつ完全に大垣さんに渡すか迷っていた。

 石井さんは徐々に有休消化日を増やし、わたしと大野くん、大垣さんの三人で取材に行く日が増えた。

 大野くんの仕事ぶりは申し分なかった。車の運転にも安心感があった。

「さすが、一家の大黒柱になる人はちゃんとしてるね」

「真面目なだけだよ」

「真面目っていいことだと思うけど」 

「でも、ビッグにはなれないよ。言われたことしかできないからね。その代わり、安定はしてるかな」

 大野くんが笑って言った。わたしは何も言えない。わたしと同じだ。

 

 二月、瀬川さんが言った。

「今度の取材、大垣さんがやっておいで。俳優の野間柊一さんのやつ」

「え? 一人でですか?」

「そうだよ。大垣さんは、丸山さんが見てないほうが力を発揮できると思う」

 これには彼女よりわたしが驚いた。

「わたしも行ける日ですよ」

 そう言うと、瀬川さんはわたしのほうを向いて言う。

「何日か有休取って。全然取ってないだろ」

「でも……」

 わたしが言いかけたのを遮ったのは、大垣さんだった。

「丸山さん、わたし、一人で行けます!」

 あまりに力強くて、わたしは何も言えなくなる。

「じゃあ、そういうことで。丸山さんはすぐ有休の申請して。休んでる間はメールや電話も禁止ね」

 瀬川さんはそう言って、部屋を出ていってしまった。


 二月十五日。大垣さんを一人で取材に行かせた日。わたしは実家に帰っていた。

 一人の家にいてもすることがなかったし、退職して家に戻ることを実はまだ両親に伝えていなかったからだ。

 母は喜んだ。

「沙紀が帰ってきてくれたら、わたしもまた料理が楽しくなるよ。お父さんは食べても何も言わないから」 

 父は心配した。

「お前、辞めてもいいけどよ、次どうすんだ? 決まってねえんだろ」

 いつかは再就職をしなければいけないのはわかっていた。でも、今は自分がやりたいことをやる、それしか心になかった。

「一年くらいゆっくりするよ。貯金もあるし、迷惑かけないから」

 父はわたしを叱ったりしない。わたしがどうする気かきちんと伝えれば、何も言われないことはわかっていた。


 週明け、五日ぶりの出勤。

 いつもより三本早い電車に乗った。

 編集部にはまだ誰もいないようだった。わたしのデスクの上に、原稿が置いてある。薄暗い部屋で電気もつけず、鞄を置くこともせず、わたしはそれを手に取って読む。大垣さんが一人で取材に行ったときの記事だ。

 読んでいると、ドアの開く音がする。

「大丈夫そうだろ?」

 背後からの声。振り向くと、瀬川さんが立っていた。

「……はい、大丈夫ですね」

「これで思い残すことなく辞められる?」

 瀬川さんが優しく聞く。

 退職すると言ったものの、どこかで編集部には自分がいなければ、と思っていた。でも、何の心配があるだろうか。

 わたしがいなくなっても、会社は回る。

「すみません、気を遣っていただいたみたいで」

「丸山さんには気を遣わせてばかりだったからね。最後くらい上司らしく、部下の心配を解消してやろうと思ったんだよ」

 瀬川さんはそう言うと、電気のスイッチを入れるのに壁のほうを振り返る。わたしは鞄を置いてエアコンを入れる。

 十分後に大垣さんが来た。

「おはようございます! あ、丸山さん!」

 五日会わなかっただけで、彼女は随分元気になっているように見えた。

 彼女がわたしのすぐ横に立つ。

「おはよう。記事見たよ。これで大丈夫だよ。お疲れさま」

「……ありがとうございます!」

 大垣さんは深くお辞儀して、しばらく顔を上げなかった。

 ようやく顔を上げて自分のデスクに行くときに、鼻をすする音が聞こえた。

 

 辞めると決めてからの約一年は、早く流れたように思う。

 三月の最初の朝礼で、やっと部署内に石井さんとわたしの退職が告知された。

「正直、仕事を教えられすぎて、異動か退職かって薄々気づいてましたけど…」

 大垣さんがそう言った。不安そうな顔をしていた。

「大垣さんなら大丈夫だと思って、やっと辞めるんだよ。あとよろしくね」

「……頑張ります!」

 そう言った大垣さんの声は震えていた。

「大垣さん、泣くなよ。憧れの丸山さんの後任だぞ。名誉なことだな」

 瀬川さんがそう声をかけたが、余計に彼女を刺激してしまう。

「だって……やっと丸山さんと一緒に働けると思ったら、一年でいらっしゃらなくなるなんて……」 

「こんなに寂しがってもらえたらわたしも嬉しいよ」

 昔のわたしでは考えられないほど、恵まれた職場だった。

 その環境を捨てることを、わたしは選んだのだ。

 この選択が合っているかどうかは、帰ってみなければわからない。

 今やひとつの会社で一生勤め上げる人は少ないが、新卒で入社したこの場所を出ていくというのは、わたしにしては大きな決断だった。

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