約束
山口くんとお別れした日に行ったバーに二人で入った。
「丸山さんが人と話したいって言ったの、初めて聞いたよ」
「そうですね。初めて言ったと思います。友達いないので」
思えば、会社の同期もみんな違う部署で、とっくに辞めてしまった人もいて、そういう意味では、会社に友人はいなかった。
「で、何の用」
「退職されると聞きました」
カウンター。わたしの右にいる石井さん。わたしは体ごと右を向いて、そう言った。
石井さんはわたしのほうを見なかった。
「瀬川さんにしか言ってないぞ。口軽いな、あの人」
石井さんは笑った。わたしは体をカウンターのほうに向ける。
「わたしが辞めたいって言ったから、誰もいなくなるって、瀬川さん泣いたんです」
一瞬の沈黙。
「……辞めるの?」
「はい。今年度いっぱいで。だから大垣さんの育成をしています」
「部長になるからだと思ってた」
「瀬川さんもそのつもりで彼女を引っ張ってきたみたいですけど……。わたし、実家に帰りたくて」
もうお金もだいぶ貯めた。しばらくは家でゆっくりしたかった。
「……そんなに自分のことを話すなよ。俺も話さなきゃならなくなるだろ」
石井さんは横目でわたしを見て、そう言った。
「え? いえ、別に、そんなつもりじゃ……。ただ、瀬川さんがかわいそうで……」
「だから、俺に、考え直せって?」
「いえ……。いや、そうかもしれない……」
そう言われて、わたしは初めて自分が心の奥底で思っていたことを理解した。
「丸山さんはさ、ずーっと瀬川さんのために働いてきたんだよな」
「はい……」
「あの人のことが好きなんだよな」
はっきりと自覚したあとで、石井さんが言葉にする。それはもう、真実のような気がしてならなかった。
「そう、でしょうか」
「うん。でも、自分を愛することが先だから、実家に帰ろうと決意した。ところがやっぱり、瀬川さんを置いていくのがつらいんだ」
「置いていくだなんて……」
「でもな、俺も自分のことが先なんだわ。いくら〝かわいい後輩〟の頼みでも、自分の母親より優先するのは無理だなあ」
石井さんは、冗談のようにそう言った。「かわいい後輩」という部分に反応して、この話はそのまま終わらせればよかったのに。
「……お母さまが、どうかされたんですか?」
わたしはしっかり右を向いて、彼の横顔を見て聞いた。
「……あんまり、聞くなよ」
ふっと笑って、石井さんは答えた。
「すみません……」
「まあでも、君くらいしか話す人はいないから、言ってもいいな」
「……そんな、無理に話さなくても」
「誰かに、聞いてほしかったのかもしれない」
石井さんは、初めて左を向いた。
わたしも彼のほうを見た。
「優秀じゃない都合のいい女は、ひどい目に合うって言ったの、覚えてるか」
「ああ、わたしの家に来てくださったときの……」
「あれ、俺の母親のことなんだよ」
カウンターに頬杖をついて、少し上を向いて、石井さんは続けた。
「俺の母親はね、中卒なんだ。二十歳になる前に俺を産んだ。父親には会ったことない。捨てられたんだ。一人で生きていけないから、そのあとも母さんは男に頼った。でも、俺がいたからだろうけど……結婚してくれる人はいなかった。何度も彼氏はできたけど、まともに別れ話もしないで、みんなに捨てられた」
黙って聞く以外の選択肢がなかった。
「ずっと二人で暮らしてて、仕事を始めるときに、母さんを福島に置いてきた。東京なら稼げると思ったんだろうな。実際、そこそこ稼いだし。でも、もう帰らなきゃいけないんだ。地元で働く。母さんの近くにいたいんだ。俺だけが母さんの心の支えだったのに、なんで出てきちゃったんだろう──」
今、石井さんはわたしではなく、自分の心と話しているようだった。
「……俺も今年度で終わりだ。母さんがちょっと病気しててね。だから帰る決意をしたんだ」
この人に、瀬川さんのために残ってほしいなんて言えなかった。
「すみません、わたし……」
「いいんだよ、誰でもまずは自分が大切なんだから。しかし、瀬川さん、俺の代わりは置いてくれないな。早く引き継ぎしたいのに」
石井さんはそう言って笑うと、立ち上がった。
「この週末は帰るんだ、そろそろ解散しよう」
「はい!」
無駄に勢いよく返事をして、わたしも立ち上がる。
「また、月曜な」
石井さんは、さっとお会計を済ませてしまう。
店を出てから、
「出しますよ」
と言って財布を出した。すると石井さんは答えた。
「お金はいいんだ。俺の家のはね、気持ちの問題なんだよ」
わたしはとんでもなく恥ずかしいことをした気がして、何も答えずに財布をしまった。
「丸山さんは、実家が茨城だったな」
「はい」
「隣だな」
「はい」
「辞めてからも時々、県境あたりで飲もうか」
「いいですね、そうしましょう」
お互い県境までどれくらい遠いかもわからないのに、そんなことを約束した。




