決断
五月の連休が来て、茨城に帰る。
母が言う。
「あんたそろそろ結婚しないの?」
「ないな」
「わたしは別にいいけどねえ、結婚だけが女の幸せじゃないからさあ」
「そうでしょう。今は仕事が楽しいから。子どももいらないし」
わたしみたいなひねくれ者を、これ以上この世の中に増やさなくても、と思ってしまう。
「子どもはともかくねえ、パートナーくらいいても……」
「……いい人がいればね」
母はそれ以上はその話をしなかった。わたしと母が話すばかりで、父は黙って食事をしている。
家を出て長いのに、昔のまま残されている自分の部屋で、わたしは一人眠る。
中学校の卒業アルバムを、クローゼットの奥から出して開く。
山口くんが笑っていた。
わたしはどうにか笑ってみせたくらいの顔で、目は笑っていなくて、もう十年以上経っているのに、全然顔つきが変わらない。
わたしとパートナーになれる人なんていない。自分は誰も寄せ付けないというような顔をして、本当は誰かに愛されたいのだ。
愛してくれている家族のもとも離れて、それなのに愛してくれていると信じていた男性とは付き合い続けることができなくて。
この人なら愛せるかもしれないと思った人のことは、やっぱり愛せなくて。
──自分を愛することが先。
ふと、こころさんの言葉がよぎる。
わたしを愛することとは何なのか。
連休が明けて、わたしは瀬川さんに呼ばれた。
「今度の取材、大垣さんも連れていってくれる?」
「別にいいですけど、なぜですか?」
「あの子、そのうち丸山さんと同じように仕事ができるようにしたいんだ」
「……そう、なんですね」
では、わたしはどうなるのか。わたしの仕事が減らされるのか? 今だって抱えきれないほどの仕事をしているわけではないのに──。
「なんでかわからない?」
「……え?」
「僕も、あなたも、いつか次のステージに上がらなきゃいけないからだよ。あなたが、部長になるために、あなたの下を育てなければならないんだ」
編集部への異動の話が出た頃より、わたしは冷静だった。
考えていたことは二つだ。
でも黙っていた。黙って、わたしの目の前に座る瀬川さんを見つめた。
「あなたの考えていることはわかる」
「なんだと思いますか」
「一つは、石井くんのほうが社歴が上だから、部長になるのは石井くんだということ。もう一つは、大垣さんのモチベーションの心配」
「相変わらず、お見事です」
わたしの考えていることはすべてお見通しの上司。この人がいなくなったら、わたしはどうなる? 仕事ができるだろうか。
「僕は、石井くんより丸山さんに任せるべきだと思ってる。彼は人をサポートするほうが向いているんだ、そういう適性だよ。あなたはリーダーに向いている、僕の後を安心して任せられる」
瀬川さんは、わたしをまっすぐに見て言った。偽りのない言葉だと知っていた。
「大垣さんのモチベーションは、あなたと一緒に働いているうちに、回復するよ。それはわかるんだ」
「……なんでですか?」
「あの子を採用したのは丸山さんだから。あなたがいたからうちに入社するって決めたんだよ、あの子は」
思い出した。
人事部だったわたし、選考を受けていた大垣さん。
わたしは、会社のことを懸命に伝えた。そのわたしが輝いて見えたと、彼女は言った。そして、うちに決めたのだ。
そんな大切なことを、わたしはどうして今まで忘れていたのだろうか。
でも、わたしが今やるべきことは、自分が部長になるための後輩育成ではなかった。
「瀬川さんは、どこへ行くんですか。次のステージはどこなんですか」
どんな答えが返ってこようが、伝えることは決めていた。でも、そう尋ねてみた。
「僕は、マーケティング本部に行くよ。ちゃんと行けば、あなたの上司でもいられるよ。次の春には、二人で昇進しよう」
それを聞いても、わたしの心は揺らがなかった。
「すみません、瀬川さん。わたし……退職したいんです」
ずっとここにいると思っていた。
でも、そうしていたら、わたしはいつまでも幸せになれないと思った。
瀬川さんは、しばらく何も言わなかった。
沈黙がとても長い時間に感じられた。
「……なぜ?」
ようやく口を開いた瀬川さんが、それだけ言う。
「実家に帰りたいんです。わたし、もう、東京にいる意味がないし……。仕事は楽しいですが、最優先したいほど大切にもできません」
今だけは、上司が瀬川さんであることが悲しかった。退職の意志を伝える相手が、他ならぬ瀬川さんであることが。
「……だから、そういう意味で、三月まで、大垣さんへの引き継ぎはきちんとします」
瀬川さんは、口をきつく結んだ。何かをこらえるように。それからゆっくりと言った。
「……僕の部下は、みんな仕事を辞めてしまうな」
澤口さんのことを気にしているのだろうか。でも、わたしたちは誰も、瀬川さんのことが嫌で辞めるのではない。
それを伝えようと思ったら、瀬川さんが続けた。
「実は、石井くんからも退職したいと言われているんだ」
だからわたしだったのか──。今、瀬川さんを一人にできない気がした。
でも自分を犠牲にすることもできなかった。
「……丸山さんの希望はわかったよ。年度末に退職で調整するから、手続きについてはまた指示する。五月から大垣さんを連れていってね」
「……わかりました」
瀬川さんの右目から光るものが落ちるのを確認した。だから、彼を残して会議室を出た。




