明るい顔
自分を愛するとはどういうことなのだろう。
生まれてからこれまで、きっとそんなタイミングがなかったのだ。あったとして、もう記憶にも残っていないような昔のことだ。
「丸山さん!」
考え込んでいたら、虚空を見つめていたらしい。澤口さんに声をかけられて我に返る。
「あ、はい、すみません」
「大丈夫?」
「はい。ちょっと顔洗ってきます」
お手洗いに行って、洗面台で顔を洗う。
顔を上げる。鏡に自分が映る。
気が強そうな顔をしている。幼いとき、もう少し柔らかい顔をしていたと思うのに、いつからか、人を寄せつけない顔になった気がする。
明日から化粧を変えよう。そう決意して、編集部に戻る。
入口で石井さんと会う。
「少しすっきりした顔してるな」
「そうですか……どうぞ」
ドアを開けて石井さんを先に通す。
「ありがとう」
デスクに戻り、気を取り直してインタビュー素案の作成に取りかかる。
昼休み。
余り物で簡単に作ったお弁当を自分のデスクで食べる。ランチに出かける人もいれば、コンビニに何か買いに行く人もいる。
今日は瀬川さんと石井さんが二人で牛丼を食べに行き、澤口さんはお弁当だった。
「前から思ってたんだけど」
二人きりの部屋で、澤口さんから声がかかる。
「はい?」
「卵焼き、めっちゃ上手だよね」
「そ、そうですか」
何を言われるのかと身構えていたから、そんなことかと力が抜ける。
「うん、わたし不器用だから上手にできないのよね」
澤口さんはそう言うと、自分のお弁当箱から少し焦げた卵焼きを取って、わたしに見せ、笑った。
「自分が食べるだけだからいいんだけど。丸山さんはいい奥さんになりそうね」
「いえ、そんな……」
「奥さん」という響きが妙に引っかかり、褒められているのに少しも嬉しそうにできないわたし。
「彼氏いるんでしょ? 結婚は?」
「……まだ考えていません」
わたしはどんな顔をしていたのだろう。澤口さんは、小さく「そっか」とだけ言って、それ以上はそのことを聞かなかった。
小さい頃の夢──綺麗な花嫁。
真っ白なドレスへの、幼い憧れ。
歳を重ねるにつれ、その夢は叶わないものであるという思いが強くなった。
誰がわたしを花嫁にしてくれるというのだろう。学校で孤独なわたしを。
わたしは、ずっと独りでいるのだと思っていた。
誠がいたときも、この人はわたしを花嫁にはしてくれないと思っていたし、今もそうだ。山口くんとは結婚できない。そう思う。
化粧を変えた日、最初に変化に気付いたのは石井さんだった。
「あれ、なんか雰囲気違うな。いいことあった?」
「別に何も……」
「でも、いつもより優しい顔してる」
「……ありがとうございます」
それを聞いた澤口さんがわたしの顔を見て、
「ああ、お化粧変えたんだ! すごくいいと思うよ」
と笑った。
「え、女って化粧で表情まで変えちゃうんですか?」
と石井さんが目を丸くする。
「石井くん、女性と付き合ったことないの?」
「ありますけど……化粧なんかしない頃が最後なので」
石井さんがきまり悪そうに答えた。
「へえ、そうなんだ。アイラインの引き方ひとつで顔の印象は変えられるものだよ。丸山さん、そっちの方が似合うよ。かわいい」
そんな話をしていたとき、瀬川さんが偉い人たちの会議から戻ってきて、わたしの顔を不思議そうに見た。
「丸山さん……何かいいことあった?」
わたしたち三人はそれを聞いて、顔を見合わせて笑ってしまう。
「瀬川さん、その話はさっき、三人でやりました」
石井さんが言う。
「なんだ、そうか」
「化粧を変えたそうです」
「化粧で表情まで変えるのか?」
そしてわたしたちはまた笑う。
「瀬川さんと石井くんって気が合うのね」
「お、男だからな」
そんなやりとりのなか、満場一致でこのメイクの方が良いということになり、わたしは次の日からもずっと同じように、「良い顔」で仕事に行った。
顔を変えてから初めて山口くんに会ったのは、それから十日ほど経った日だった。
彼にも喜んでもらえると、少しは期待していた。
ところが、別れ際に彼はこう言った。
「今日、つまらなかった?」
「え、なんで?」
「だって、少し前は、話しているうちに表情が明るく変わったのに、今日は変わらなかったから……」
ああ、そうか。
この人には「自分の力で丸山沙紀が笑顔になった」ということが大切なのだ。わたしが最初から「良い顔」でいたら、彼は満足しないのだ。
つまらなかったことにして、このまま別れ話に持っていくこともできた。
でも、そうはしなかった。
できれば、向こうから別れ話にしてほしい。自然消滅でもいい。
明るいお化粧の下に、悲しい気持ちを隠して、その日は家に帰った。




