誰か
食事を終えて、駅に戻る。帰りは違う方向だった。
「送ろうか」
山口くんが聞いた。わたしは首を振る。
「そう。じゃあ、また」
「うん」
わたしは短く返事をして、自分が行くべきホームに向かって歩き出す。
恋人ができて、それが嬉しいはずなのに、自分があまりにも無表情であることに驚く。
無表情のまま、電車に乗って最寄り駅に帰った。
雨が降っていた。
折り畳み傘を取り出してさす。それから歩き出す。
マンションの前に人影がある。傘もささずに立っている。
「沙紀……」
びしょ濡れの誠だった。
「……ストーカー」
「やめろよ。待ってたんだぜ」
「そんなこと頼んでないでしょ。帰って」
「話だけでも聞けよ」
立ち止まったのが間違いだった。後悔しながら、聞き返す。
「何の用」
「やり直そうよ」
「別れるって言ったのそっちでしょう」
相変わらず誠は雨に濡れながら、わたしの前に立っている。
「なあ、タオル貸してくれないか」
「嫌。自業自得でしょ。わたしは待っててなんて言ってない。それに……恋人ができたの」
それだけ言って、わたしはマンションの入口に向かった。
誠の声が後ろから聞こえていた。
「本当に好きな奴か?」
返事をしないまま、部屋に入ってしまう。
ベランダから下を覗くと、誠はゆっくり歩き始めたところだった。
ほっとしてベッドに座り込む。
鞄からスマホを出す。山口くんからメッセージが来ている。
短い返事を書いて送る。彼からの返事を待たずに、眠りに落ちてしまった。
目が覚めたら夜中の三時だった。
誠の声が響く。
──本当に好きな奴か?
「これから、ちゃんと好きになるよ……」
誰もいない部屋で呟いた。
シャワーを浴びてから、ベッドで眠り直す。
今日は日曜だ。ゆっくり寝よう。何も考えずに──。
雨はなかなか止まなかった。が、雨音で眠りに誘われた。
そして朝、強くなった雨の音で目覚めた。起き上がる。
「……まだ六時じゃん」
時間を確認するために手に取ったスマホを、ベッドに投げつける。
そしてもう一度横になる。
わたしは思い出していた。
中学生の頃、あの人はサッカー部で、音楽室の窓からはグラウンドが見えた。個人練習の時間は、なんとなく窓から眺めていた。あの人を探してはいなかった。この中にいるのだろうと思いながら、眺めていた。
部活の仲間ですらわたしに恋愛の話を振ることはなかったし、当時のわたしはあれが恋なのかどうかもわからなかった。
グラウンドを、山口翔太がボールを追いかけて走る。シュートが決まる。三階の音楽室を見上げる。わたしに手を振る。手を振り返そうと思って、吹いていたホルンを下ろして、右腕を上げようとする。その右手を、後ろから来た誰かに掴まれる。
「……っ!」
朝の九時過ぎだった。
さっき見ていたグラウンドは夢だとすぐにわかる。
麦茶を一口飲んで、テレビをつける。どこも同じような情報を流しているだけで、わたしにとってはテレビはBGMだった。
インタビューをした人だとか、する予定の人だとかが出てくれば、もう少し興味が湧くのだろうと思う。もしかすると、山口くんがいろいろ教えてくれるかもしれない。
しばらくするとわたしはまた眠り、昼過ぎに起きると食料の買い物に出かけ、夕方は本を読んで、それから絵を描いて──と、わたしが楽しいと思うことはだいたいやり尽くした。
いろんなことをする間、ずっと頭の中に、朝の夢でわたしの右手を掴んできた人がいた。
彼に手を振り返してはいけないのだと、そういうわたしの心だと、言葉にならずとも考えていた。
そうだとしたら、あれは誠なのだろうか。振り返ろうとしたら目が覚めてしまった。
「丸山さん、大丈夫?」
月曜、わたしに声をかけてきたのは石井さんだった。
「え、何がですか」
「なんか、元気なさそうだから」
わたしが元気だったこともあまりないのだが、確かに今日はずっと何かが引っかかって、調子が良いとは言えない。
うつむいたわたしに、石井さんは
「無理すんなよ」
と言って微笑んだ。
何度も中学校の夢を見る。
山口くんはいつもグラウンドを走っている。音楽室にはわたし以外誰もいない。
彼がシュートを外す。すると、彼は突然グラウンドから消えてしまう。
そして、そこに別の誰かが現れる。でも顔が見えない。その人がシュートを決める。
そんな夢の話を山口くんにしたのは、七月の終わり、金曜の夜だった。
「今の僕は、丸山さんの夢には出てこないんだな」
と彼は寂しそうに言う。
「……ごめん」
「いや、登場できるように頑張るよ」
デートを設定してくれるのはいつも山口くんだった。というのも、彼の仕事が不定期で、毎週何曜日と決めるわけにもいかず、わたしたちが会うのは彼の仕事の都合がつくときだけなのだ。
わたしは平日も夕方には退勤できるし、土日はほかに遊ぶ人もいないので、彼が決めてくれることに何の問題もなかった。お店もいつも彼が決めた。
「たまには、食べたいものとか、行きたいところとか、リクエストしてくれていいんだよ」
この日も、山口くんが決めた中華料理屋だった。
「ううん、どこでも楽しいからいいよ」
実際、彼が連れていってくれるところはどこも良いお店だった。
ただ、わたしたちにはそんなに「話題」がなかった。会わない間にしていた仕事の話をするくらいで、共通の趣味もないし、昔話はもうだいたいし尽くした。
だから、食事中、よく沈黙した。彼は黙ってわたしを見ていたけれど、わたしは見つめ返すことをしない。
「ねえ、丸山さん」
「はい」
わたしは顔を上げる。
「僕、明日、夕方まで休みなんだけど……だから……」
「じゃあ、わたしの家に来る?」
格別にドキドキすることもなく、相手をドキドキさせるような言い方でもなく、わたしは言った。
「い、いいの?」
「何もない家だけど……」
言って、そういえば彼に恋人がいたのか聞いたことがないと思い出す。
「女性の家は初めて?」
「実は……」
山口くんの照れた顔。初めて見たかもしれない。
「そうなのね」
「ちょっと、笑うなよ」
「ごめんごめん」
別に、彼に恋人がいたかどうかなんて、わたしには関係なかった。ただ、山口くんのことを、かわいいと思っただけだった。
しかし、急にわたしは笑顔でいられなくなる。夢に出てくる誰かが、顔はわからないのに、頭の中に住んでいる。




