004 共同生活(1)
食事を終えて、部屋に戻り。
隅に備え付けられている洗面台で歯を磨いていると、ニーナが横から興味深そうな目で眺めてきた。俺は歯ブラシをいちど口から離すと、
「……どうした?」
「あ、いや……なんか、食後に歯磨きしたりとか、オレの世界と変わらないんだなって……」
「そりゃ、するだろう。虫歯になると面倒だし、口臭があると嫌われるぞ」
虫歯はいちおう魔術で治療可能だが、基本的に治癒魔術は、傷痍や病毒に対する知識と治癒過程について、正しい認識を抱いていないと効果をほとんど発揮しない。それゆえに、歯を治療できる魔術師というのはかなり少ないのだ。当たり前のように治療代も高額になるので、歯磨きを習慣化するに越したことはなかった。
「……歯ブラシもあるんだ」
「あぁ、俺は使っているが……。ただ金がないやつは、指と爪と楊枝で清掃するのが一般的だな」
「へ~、意外と高級品なんだ……。それ、どんな材料から作ってるの?」
「猪の毛だ。豚や馬も使われるらしいけどな。それを木の板に植え込んで作るんだが、職人が手作業で作るものだから、値はけっこう張るぞ」
「ふむふむ……」
あごに手を当てて、頷くニーナ。酒場で話していた時もそうだったが、生活文化的な話はかなり気になるらしい。まあ、これから生活してゆく世界のことなので、当然なのかもしれないが。
「歯磨き粉とかは使わないの?」
「しっかり磨きたいときは、塩を使ったりする。あとは……金持ちは、ソーダ灰を付けて磨いたりするらしいな。俺は使わんが」
「ソーダ灰――ああ、炭酸ナトリウムね! なるほど」
「…………?」
納得したように声を上げたニーナだが、言い換えた単語は俺には理解できなかった。もしかしたら、向こうでは一般的に知られている別名なのだろうか。
怪訝に思いながらも、水差しから注いでおいた、コップの水を口に含む。口内をよくすすいで、流しに水を吐き捨てると、またニーナから質問が飛んできた。
「……水道はないの?」
「す、水道か? 上水道のことなら、さすがに二階のこの部屋にはないぞ。よっぽどの金持ちでないと、上層階に水は通せないが……」
ここウェラの街だと、今いる宿屋の地区はそれなりに水道が普及している裕福層の区域だが、それでも全階層に上水道を導入している建物は、俺の知るかぎりでは存在しない。水を押し上げる設備と高置貯水槽を組み合わせれば技術的には可能だろうが、どれだけの金と維持費がかかるのやら。
「……ニーナのいた世界だと、どこでも水道が通っていたのか?」
「あー、外国だとないところもあったけど……。少なくともオレの国は、基本的にどんな場所にも水は通っていたよ」
「そりゃ――すごいな」
皮肉でもなんでもなく、俺は素直に驚きの言葉を漏らした。話の端々から感じていたことだが、やはり彼女のもといた世界は、やたら高度な生活システムを備えているらしい。羨ましいかぎりである。
――もっとも。
逆に言えば、ニーナにとってはいきなり生活レベルが落ちるということでもある。おそらく苦痛に感じるところも多いだろうが……こればっかりは、慣れてもらうしかあるまい。
少し彼女を気の毒に思いつつも、俺は使い終えた歯ブラシの毛を水でそそぎ、
「ほれ」
と言って、歯ブラシの柄を向けて差し出した。
「……?」
が、ニーナはきょとんとした様子で小首をかしげた。……むしろ伝わらなかったことに、俺のほうが困惑しそうなのだが。
「いや、お前も歯を磨けという意味だ。面倒がると、あとで虫歯になって後悔するぞ」
「ぇ……あ、あぁ……。で、でも……フェランのものだし――」
「いまさら気にしなくてもいい。むしろ、お前が虫歯になって治療費がかかるほうが困る」
なぜか赤面して遠慮するニーナに、俺は訝しみつつ言葉をかける。食事はご馳走になっておきながら、歯ブラシを借りることには尻込みする彼女の態度は、どうにも謎である。
ニーナは逡巡の果てに、「じゃ、じゃあ……」と視線を若干逸らしながら、俺から歯ブラシを受け取った。いったい何を迷っていたのか。
「使う水は、水差しからコップに移して使うようにしてくれ。……水道と違って、無駄遣いするとすぐになくなるから気をつけるように」
「う、うん」
「あと水差しのほうの水がなくなったら、俺に忘れずに言うように。一階で店から汲ませてもらうんだが……それくらいなら、ニーナにもすぐできそうな仕事だし、あとで教えるよ」
「わ、わかった。……水は魔法で出さないんだ?」
「魔法は無尽蔵に使えるもんじゃないぞ。飲み水は魔法で作るが、洗い流すための水なら水道から――って感じだな」
「ふむぅ……なぁるほろ……」
歯を磨きながら、俺の言葉に耳を傾けるニーナ。歯ブラシ自体は、彼女も元の世界で使っていたようだが、その手つきは少々ぎこちない。おそらく、形状や大きさに違いがあるせいだろうか。
ときおり難しい顔を浮かべながら一生懸命に歯を磨く少女の姿は、どこか愛らしく微笑ましい。彼女の様子を見ていると、俺は自然と口元が緩むのを感じた。
苦戦しつつも歯磨きを終えたニーナは、ふぅと安堵のような息をつく。それから、俺のほうを向いて歯ブラシを見せて、
「これ、使いおわったら……どこに置けばいい?」
「あー、コップの水を捨てて、空になったそこに立て掛けといてくれ。コップの置き場所は、そこの備え付けの棚に……」
説明しながら、こういう細かい生活上のルールも共有しておかないと駄目なのだと気づく。これまでは独りで生活していたので、物の置き場所や使い方は何も考えずに済んだのだが――同居人がいるとなると、そうもいかなそうだ。
……誰かとの共同生活、か。
ふいに、もう十年近く前のことを思い出して、俺は懐かしい気分にさせられた。恩人であり師匠とも呼ぶべき人物に手を差し伸べられ、当時まだ子供であった俺は、旅人たる彼と二年間ほど生活をともにすることになる。その時に多くの知識や魔術、そして生き方を教えられたおかげで、今の俺という存在があるのだった。
恩送り、というやつだろうか。かつて恩師に助けられたように、右も左もわからないニーナに生き方を教えるということ。それは俺にとっては、当然のことのようにも思えてきた。
「……フェラン?」
「ああ、いや、すまない。……ほかに、なんか聞いておきたいことはあるか?」
思考に沈みすぎたところで、名前を呼ばれて現実に引き上げられる。俺は取り繕うように、ニーナに質問がないか聞いてみた。俺にとっては当たり前のことでも、彼女にとってはわからないことが多いだろうし、向こうから尋ねてくれたほうがやりやすいだろう。
「聞いておきたいこと――」
ニーナは自問するように呟いた。それからハッと思い至ったように顔を上げる。俺と目を合わせた彼女は――すぐに視線をそらし、どこか恥ずかしそうに頬を指で掻いた。
「……どうした?」
「え、えっと……あー……」
言いよどんだニーナだったが、二秒ほどの沈黙ののち、おずおずと言葉を口に出す。
「その……トイレって、どこ?」
「トイレ? ……ああ」
そういえば、食事の時に水を何杯も飲んでいたのを思い出す。よほど俺が魔法で作り出した水がおいしかったのだろうか。
「二階のいちばん奥――この部屋を出てすぐ左手だ。宿泊客共用の便所になっている」
「あっ……共用トイレなんだ」
「当たり前だ」
俺は呆れそうになりながら答えた。客室ごとにトイレが設けられた宿など聞いたことがない。……ニーナの世界だと、水道が発達しているから一般的なのかもしれないが。
「じゃ……じゃあ行ってきます」
「ああ」
どことなく戸惑いの表情を浮かべたニーナを、俺は軽く手を振って見送った。彼女が用を足している間に、あとで外出するための準備でもしておこうか――と思ったのだが。
バタンッ! と勢いよくドアが開けられた音に、俺はびくりと肩を反応させてしまった。
何事か、入り口のほうを見ると、なぜかニーナが真顔で立っていた。時間的には、排泄を済まさずにすぐ戻ってきたようだが……。
彼女は必死そうな声を絞り出して、俺に言った。
「か、解説して……」
「――はい?」
「お、オレの世界とけっこー違うみたいだからさ……」
「あ、あぁ……」
今度は俺のほうが戸惑いながら、ニーナに頷いた。
……便所の使い方も説明が必要なのか。べつに彼女が悪いわけではないのだが、知識や常識のズレに頭が痛くなりそうだった。
異世界に転生するとは何とも難儀なことだな、と少し同情するような気持ちを抱きつつ、俺はニーナの用足しに同行することになった。
「……で、どこがわからない?」
便所のドアを開けながら、俺はニーナに尋ねた。
ここの排泄器は便座のついた腰掛式で、さらに貯水タンクの水を落とすことで排泄物を下水に流し込める、高度な機能を備えた便所だった。貧民街や田舎で大多数の、おまるに糞尿を溜めるタイプと比べれば、おそらく水事情の発達したニーナの世界のトイレに近いと思うのだが――
「えっと……」
ニーナはおそるおそるといった様子で、棚板の箱に入った紙を指差した。
「トイレットペーパー……これ?」
指差されたのは、四角い再生紙の落とし紙だった。排泄後の拭き取り用具として、都市ではこうした再生紙を使うのが一般的である。
「そうだが……お前の世界にもあったんだろ?」
「い、いや、あったけど……もっとこう、白くて大きくて柔らかい感じの、ロール状の紙を使っていてさ……」
「そういうのはない。諦めろ」
俺は無慈悲に言い放った。ニーナはショックを受けたような顔で、口を半開きにしている。……可哀想なんだが、慣れろとしか言いようがない。
しばらくして、ようやく我に返った彼女は便器を指差して、
「これは――水洗式だよね?」
「ああ。そこのタンクに水が貯められていて、下のレバーを押せば便器に水が流れるようになっている。……ただし、水を流しすぎるなよ。わざわざ一階から水を汲んでこなきゃならんからな」
「う、うん……わかった。で、でも水洗式でよかった……」
心の底から安堵したような表情を見せるニーナ。潔癖症なのか、それとも向こうの世界の衛生観念がそうとう高いのか。あるいは、両者かもしれない。
「……こっちは、ゴミ箱?」
ニーナはふと気づいたように、便座の横にある蓋された箱に指を向けた。どうやら、それもわからないようだ。
「使用済みの落とし紙を捨てておくための箱だ」
「……えっ!? み、水に流さないのっ!?」
「は、はあっ? ……流せるわけあるか。排水管が詰まるぞ」
予想外すぎるニーナの発言に、俺は素っ頓狂な声を上げてしまった。
彼女の世界だと、紙をそのまま下水に流すのか? 俺にとっては、ちょっと信じがたい話だが……。まあ、たしかに柔らかい紙と言っていたから、排水管を通して捨てられるのだろうか。
トイレですら、これだけお互いの認識がズレていることに溜息が出そうになるが――致し方ない、か。
「……ほかに説明は要るか?」
「いや……た、たぶん、大丈夫」
「そうか。じゃ、俺は部屋に戻っているぞ」
ニーナをひとり残して、便所から出つつドアを閉める。内側から鍵がかかったのを確認して、俺は小さく息をつきながら頭を掻いた。……なんだか、まるで小児の面倒を見る親のようだ。
子供を持つというのはこんな気持ちなのだろうか、などと馬鹿げた思いを抱きながら、俺は自室に戻ろうとして――
「うぐっ……」
……便所のほうから、うめき声のようなものが聞こえてきて、俺は踵を返した。
コンコン、とドアをノックしながら、ニーナに尋ねる。
「大丈夫か?」
「へ、へいき……ちょ、ちょっと……ショックを受けただけ、だから……」
「そ、そうか……」
何にショックを受けたのだろうか、と一瞬思ったが、すぐに理解した。かつて男だった者が、女の体で便所に入ったのだ。まあ、その、そういう違いの部分で衝撃があったのかもしれない。
少し心配になった俺は、ドアのそばの壁に背を預けて、ニーナが無事に用を足すのを待つことにした。どうせ排尿だけだろうし、そこまで時間がかからないだろう。
……と思ったのだが、やけに無音が長く続く。俺が眉をひそめていると、ふいに中から「あっ!?」と短い悲鳴じみた声が上がってきた。……何をやっているのやら。
「おい――本当に大丈夫か?」
「…………」
「困ったら、遠慮せずちゃんと言え。いちおう俺は、お前の保護者なんだからな」
「う……うぅ……」
「ど、どうした?」
なぜか涙声でうめくニーナに、俺は動揺しつつ声をかける。返答がなく心配になったが、しばらくすると水が落ちる音が響いてきた。どうやら小便はできているようだ。
「――大丈夫だったか?」
「…………」
「何か問題があったら、こっちのほうで対応するぞ」
俺はできるだけ優しい声色で言った。何があったのかは知らないが、こういうときは変に問いたださないほうが得策だろう。
静かに、辛抱強く待っていると、便所のドアがゆっくりと開いた。そして姿を見せたニーナを目にして――俺は一瞬、唖然としてしまった。
涙を目尻に溜めて、とがった耳の先まで紅潮させた顔。息遣いは嗚咽が混じっていて、今にも泣き返ってしまいそうな状態だった。
なぜ、そんなことになっているのか――それは彼女の下半身を見れば、すぐにわかった。
ズボンの上部から局部にかけて、水で濡れたようになっていた。たぶん尿を派手に引っかけてしまったのだろう。
「……だ、大丈夫か?」
「っ……そ、その……た、……った、まま、できると、思ったら……でき、なくて……」
「あー……男と女だと、勝手が違うからなぁ。いつもと違う体になったら、失敗するのも無理はないさ。仕方ない仕方ない」
なるほど、たしかに男からすると、小便だけで便座に腰掛けるのは違和感がある。それで立ちションをしてみたら、思うようにいかず失敗したのだろう。
……嫌に現実味のある話だ。俺も女に転生していたら、やらかしていたかもしれん。
妙な同情心を湧きあがらせながら、俺は子供をあやすように、ニーナに声をかけつづける。とりあえず泣かないでほしかった。心臓に悪い。
なんとか落ち着いてくれるように苦心していると、ふと足音が聞こえた。階段側から、誰かが二階に上がってきたのだ。
その人物はすぐに俺たちに気づき、好奇心を浮かべながら近づいてくる。
「あっれー、フェランさんと……ニーナちゃんじゃない。そんなところで、何やってんの?」
ミルドだった。清掃用具を手にしているから、二階を掃除にしにきたのだろう。
……あまりのタイミングに、頭痛がしそうだった。
「いや、なんでもないから気にしないでくれ」
「なんでもないって……もう、廊下でイチャイチャしてもらったら迷惑なんだから。そういうのは部屋で――」
そこまで言ったところで、ようやくニーナの状況に気がついたのだろう。ミルドは絶句すると、ドン引きしたような表情を浮かべた。
「え、なに、フェランさん……そういう趣味もあったの?」
「間違いなく、きみは相当な誤解をしているぞ」
「いくら女の子の羞恥が好きだからって、そういうのは……最低……」
「……わかった、わかった。俺は最低な男でいいから、放っておいてくれ」
死ぬほど面倒になったので、俺はミルドを無視することにした。というか、今は彼女と話している場合ではない。
俺は溜息をつきながら、慰めるようにニーナの背中を肩をぽんと叩き、自室に誘導する。後ろからミルドの冷たい視線が刺さったような気がしたが、諦めて気にしないことにした。
二人で部屋に戻って、ドアをしっかりと閉めると、俺はひとまず安堵の息をついた。だが――ニーナのほうは、とうとうボロボロと泣き出してしまった。
「ご……ご、めん……。お、オレ……フェラン、に、迷惑……かけて……」
「ったく、泣くな泣くな。――失敗なんて、誰だってするもんだ。ましてやニーナは、ぜんぜん違う世界に違う体でいるんだから、うまくいかないに決まっている」
「……うぅ…………」
「俺はお前の世話をすると、自分の意志で決めたんだ。だからニーナ、お前は俺に負い目を感じるなよ」
「……ぁ……りがと……ぅ」
涙を袖で拭いながら礼を述べたニーナは、少し落ち着きを取り戻していたようだった。おそらく、異世界に対する不安やストレスが、さっきのヘマを引き金にして強く表出していたのかもしれない。環境に適応していない状況では、ひとは冷静さを欠き、感情的になりがちなものである。
「ほら、洗面台で顔を洗ってこい」
「ぁ……うん」
俺の言葉に促され、ニーナは少し赤くなった目のまま顔を洗いに向かう。足取りはしっかりしていたので、ひとまずもう心配はなさそうだった。
彼女の大丈夫そうな様子を確認した俺は、衣服を収納している引き出し棚を漁った。ズボンは腰の紐を強く結んで、裾をたくし上げれば、ニーナの体躯でも俺の衣服を着られるだろう。問題は――
「……ニーナ」
「ん……なに……?」
「お前の世界って、パンツはいてないまま生活するやつっていたか?」
「えっ!? ぃ、いなかったけど……」
びっくりしたような声を上げるニーナに、やっぱりそうかと俺はひとりで納得する。
田舎や下層階級の女性なら局部用の下着を着用しないで生活する者も多いのだが、まあだからといって彼女に強いるわけにもいくまい。
俺のパンツだとサイズが違いすぎるし、そもそも女性に男性用の下着をあてがっても、はき心地は保証できない。そうなると――
「……ミルドから借りてくる、か」
先程の遭遇を思い出しつつ、俺は溜息交じりに呟くのだった。
◇
汚れた衣服を洗濯する場合、水桶に水を溜めて揉み洗いをしたあと、室内に縄を張ってそこに吊り乾すのが基本となる。とりあえず日常的な家事に慣れてもらうことも兼ねて、ニーナには部屋で洗濯することを指示しつつ、俺はミルドに会いにいくことにした。
階下で探せば、彼女はすぐに見つかった。ちょうど二階の掃除が一段落して、休憩しようとしていたところらしい。
俺に声をかけられると、彼女はからかうような笑みを浮かべて、
「あたしに何か用? ……フェランさん、ニーナちゃんとの“お楽しみ”はいいの?」
「お楽しみでも、なんでもないぞ。そういう趣味はない」
「――しってるしってる。フェランさん、女の子にぜんぜん興味がないしねー」
あはは、とミルドは快活に笑った。彼女もべつに本心では誤解していたわけではないのだろう。もう二か月以上、俺はここで生活しているので、ミルドも俺が異性と無縁なのをよく知っているのだ。
「あの子、フェランさんと本当はどんな関係だったり?」
「兄妹だ」
「……もうちょっと、可能性のある嘘ついてよ」
適当に答えた俺に、ミルドは呆れたように言った。金髪、碧眼、エルフ耳のニーナと、茶系統の髪と瞳で人間種の俺とでは、兄弟どころか親戚でも少し無理がある。
「食事の時はフードであんまり見えなかったけど、二階で見たあの子の耳、綺麗にとがっていたよね。……ウッドエルフには思えなかった」
鋭い分析をするミルドに、俺は内心で感嘆した。よく見ているものだ。仕事柄、ひとの顔の特徴には目ざといのかもしれない。
彼女の言うとおり、東方の大森林近くに住むウッドエルフは人間との融和が進み、耳の形が若干人間寄りになっている。いっぽうで遠い西方のハイエルフはほぼ純血を保っているのだが、ニーナの耳はこのハイエルフのものに近い。
そのハイエルフが、なぜ帝国東部側にいるのか。しかも世間知らずそうな様子なものだから、ミルドがニーナに対して怪訝に思うのも、当然の流れだろう。
――といっても。
じつは普通のハイエルフではなく、神が肉体を作り出した転生者なのだ、と言うわけにもいかない。よって、俺ができるのは彼女の詮索を拒むことくらいだった。
「ほら」
ポケットから取り出した銀貨を数枚、俺はミルドの手に握らせた。
「あんまり、これ以上は聞かないでくれ」
「むむーっ! ……うーん。気になるけど、しょーがないなぁ」
にやにやと嬉しそうな顔を浮かべつつ、彼女はチップを懐にしまいこんだ。……こいつ、相変わらず現金だな。
呆れながらも表情には出さず、俺は本題のほうを口にすることにした。
「で、お願いがあるんだが――」
――パンツを貸してくれ。
……などと、俺が真顔で女性に頼みこむ日が来ようとは、いったい誰が予想できたであろうか。
取り乱さず平静にお願いを伝えると、ミルドは呆気に取られたような表情をしてから、腹を抱えて笑いだした。そんなに俺が、お前のパンツを借りようとすることが面白いか? ……まあ、滑稽か。自分でもいやに納得してしまった。
抱腹するミルドにやるせない気持ちを抱きつつ、俺はふたたび口を開いた。
「それで――貸してくれるのか、くれないのか」
「……ふっ……いっ、いいけど……あははっ! フェランさんが、あたしから、ぷっ……パンツを、はは……」
笑いすぎだろ。どんだけツボにハマったんだ。
俺がちょっと不機嫌そうに溜息をついてみせると、ミルドは「ごめんごめん」と、くすくす笑いつつも謝罪をした。そして鳶色の髪をふわりと揺らしながら、軽快なウインクを見せて、
「ニーナちゃんのためでしょ? なら、いいよ。ついてきて」
「……ご快諾どうも」
話が早くて助かった。俺は肩をすくめながら感謝し、彼女の部屋まで同行させてもらうことにした。
私室に到着すると、ミルドはすぐにタンスを漁りだした。下着類のまとめられた引き出しから、彼女はパンツをいくつか取り出す。
計三つ、ミルドは掲げるように両手で引っさげて、パンツを俺に提示した。どこかワクワクしたような雰囲気だった。
「じゃーん! どれがニーナちゃんに似合うでしょーかっ? フェランさんのご意見やいかに!」
「下着として機能すれば、どれでもいいだろ」
「あっ、つまんないコト言わないでよ~。フェランさんは興味ないかもしれないけど、ニーナちゃんは女の子なんだから。そういうの気にするかも、でしょ?」
「気にしているのは、きみだけだと思うんだが。だいたいアイツは――」
もとは男だったんだから――と口を滑らせてしまいそうになり、俺はあわてて言葉を濁した。
「……そういう部分にこだわりはないだろう。たぶん、な」
「ふーん……?」
どこか不思議そうな表情で、ミルドは曖昧な言葉を発した俺をまじまじと見る。だが、追究すべきではないと判断したのだろうか、すぐに笑顔を浮かべた。
「じゃ、フェランさんのセンスでどうぞ!」
「……俺のセンスね」
それは、ほぼ実用性で決めるという意味だが。
俺はあらためて、ミルドが手にしているパンツを眺めた。左から順に、一つ目は股上の浅いローライズ、二つ目は丈の少し長いドロワーズ、そして三つ目は紐で布を固定するタイプのものだった。
いちどパンツから目を離し、ミルドの頭に視線を向ける。彼女の身長は、俺とニーナの背の中間くらいだろうか。人間の女性としては平均的な身長だ。
サイズの違いという観点で見ると、いちばん修正が利くのが紐を利用した下着だった。結んで固定するので、腰囲と合わず困ることがほとんどないからだ。女性に限らず、男性の局部用の下着としても、紐で結ぶタイプのものは一般的であった。
「――いちばん右のこれで」
「へぇ~? フェランさん、ひもパンが好みだったり?」
「俺の好みは、まったく加味されていないとだけ言っておこう」
「……ですよねー。はぁ、つまんないの」
溜息をつくミルドは、心底面白くなさそうだった。いったい俺に何を期待していたのか。
「じゃあ、はい。どうぞ」
俺が指定した下着を、彼女は差し出した。それを受け取ると、ミルドはふふっと笑いながら、
「……ヘンなことには使わないでよ?」
「変なこと?」
「あっ、それあたしに言わせる気~?」
「……納得した。そういうことに使うことはありえないから、安心していいぞ」
「むぅー。そう言われると、ちょっと悔しいんだけど……! ……でも一回くらいだったら、許しちゃ――」
無視して部屋を出ようとした俺は、「もー! フェランさんつまんないなー! ばか!」と後ろから罵声を浴びせられた。俺は苦笑しながら、「あとでまた、何か礼するよ」と手を振って、さっさと退室する。
……やれやれ。
俺は少し疲れたように嘆息した。親近感をもって接してくるミルドを嬉しいと思う反面、できるだけ距離を取りたい心情もある俺にとっては、なかなか対応の仕方に苦慮していた。もっと自然に、のらりくらりと流せればよいのだが。
くだらないことを考えつつ、俺は二階の部屋に戻ることにした。けっこう時間がかかったので、ニーナの洗濯のほうも終わっているだろう。
自室の前に到着して、鍵を開けた俺はそのままドアを開けようとして――思いとどまった。いちおうノックをして、声をかけたほうが無難か。
「ニーナ、入っても大丈夫か?」
しばらくすると、内側から「う、うん」と彼女の了承が聞こえてきたので、俺は入室した。
どうやら洗濯は終わったらしく、家具の出っ張りなどに括って張った縄に、彼女がはいていたズボンとパンツが吊りかけられていた。
そして当のニーナはというと、下半身が丸出しというわけにもいかないので、ローブを上から着こんで素肌を隠していた。下がすっぽんぽんだからか、どこか居心地が悪そうにもじもじしている。
「ほれ、下着を借りてきたぞ」
「あ、ありが――」
ニーナにパンツを手渡した瞬間、彼女は硬直したように動かなくなった。俺が怪訝に眉をひそめていると、彼女はおそるおそるパンツを確認するように両手で広げ、そして顔を少し紅潮させながら尋ねてくる。
「も……もしかして、この世界の女性って、みんなこういうパンツはくの?」
「……? いや、みんなってわけでもないだろうけど……。腰に固定する場合に便利だから、局部の下着としては多いタイプだな。男でも女でも」
「お、男でも……!?」
愕然としたように顔を強張らせるニーナ。……そ、そんなに男のひもパンがショックなのだろうか。
俺のほうこそ異世界の基準に困惑していると、彼女は赤みを帯びた顔を斜め下に向けつつ、咳払いを一つして、
「……ま、まあ、ちょっと驚いただけだから………。その、ありがとう。――オレのために、わざわざ借りてきてくれて」
「気にするな。とりあえず、俺の用意したズボンと合わせてはいてもらって――」
そこで気づいた。着替えるにしても、必然的にその途中で肌を露出することになる。彼女だけに限らず、同じ部屋で生活するなら、どうしてもお互い着替えで服を脱ぐ場面は避けられない。
俺は困ったように頭を掻くと、ドアのほうに体を向けた。
「外に出て待っている。着替えおわったら声をかけてくれ」
「ぁ……う、ご……ごめん」
「いいさ、謝ることじゃない」
そうフォローの言葉を口にして、俺は部屋を出た。
ドアに背を預けながら、俺はゆっくりと、大きく息をついた。これだけ他人に気を遣うのも久しぶりで、少し疲労感が込み上げてくる。
ニーナの面倒を見るということは、自分で決めたことだ。だから、それについて不満を漏らすつもりは俺にない。
ただ、少し戸惑う部分があるのは確かだった。それは知識や常識の差異といった部分もあるし――“男女”の違いといった部分もある。
彼女がもと男性だったというのは理解しているが、それでも肉体が少女であることには変わりない。どうしても配慮というものが生まれてしまう。それは、おそらくニーナ自身にとっても同じことだろう。
女性であり、男性でもある彼女に、俺はどんなふうに対応してやればよいのか。明確な答えもなさそうな悩みが、俺の内心には生まれつつあった。
「……まだまだ、これからだな」
ぽつりと呟く。
おそらく、これから生活するなかで、もっといろいろ問題も出てくるだろう。子供時代に恩師に拾われて共同生活をした経験上、すべてが平穏無事に進むわけではないことは承知していた。何かしらのトラブルは起きてしまうだろう。
その時に、俺はちゃんと“大人”らしく振る舞えるだろうか。冷静に適切に、物事を処理できるだろうか。そして、かつて師匠が俺を育ててくれたように、俺はニーナをこの世界で生きられるよう導けるだろうか。不安は尽きなかった。
それでも――
「も、もう着替えたから大丈夫。……ごめん、外で待たせちゃって」
「だから謝るなって。……ああ、裾はちゃんと折って上げたほうがいいぞ。ちょっと足を出してみろ」
彼女のために、できるかぎりのことをしよう。
そう俺は、心に決めた。