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Love and words of a monopoly  作者: 空色 鈴
4/7

3

*グロテスクな表現があります*

我儘を言ってくれるようになった恋人。可愛い可愛い恋人。

その恋人のためならば、何だってできる。許すこともできると、朱嗚は思っていた。

彼女を、女を、愛というものを、甘く見ていた。

3


 二人の想いが実ってから、三ヵ月が経過した。その三ヶ月で、二人の間では様々な変化が起き始めていた。

 まず一つ目は、朱嗚が大学を辞めたこと。理由は、真葵にあった。

 この三ヶ月で、真葵は自身の全てを朱嗚に曝け出すようになっていた。

 小さな、可愛らしい我侭を良く言うようになった。寂しいと言葉を口に出し、いつでも密着するようになった。夜も、毎日同じベッドで手を繋ぎながら眠るようになった。

 また、独占欲の強い性格も露となった。

 朱嗚が真葵以外の人間と少しでも会話をし、関わりを作ろうものならば、真葵は凶変するようになった。

「アタシ以外と話さないで」

 朱嗚が久々に大学へ行き、帰ってきた直後に真葵はそう言った。玄関で真葵は「大学に行かないで」と繰り返し、壊れた玩具の様に一日中泣き続けた。それが、三日続いた。

 そんな真葵を見たくはないと、朱嗚は猛勉強をして入った大学を簡単に中退してしまった。誰に相談することもなく、何の躊躇いもなく、辞めた。

 友達。知り合い。家族との縁も切った。

 携帯に入っている友達のメールアドレスを消すのは躊躇われたが、元々よく思っていない親との連絡を遮断するのは安易なことだった。

 家の電話番号も変更し、携帯も解約した。今までの生活の人間関係の全てを、朱嗚は捨てた。

 真葵のために。

 朱嗚が今まで築き上げてきた繋がりは、跡形もなく消えた。それでも、朱嗚は後悔という文字を思うことはなかった。

 真葵と会話をするほどに、視線を合わす度に。唇を合わせれば合わせるほど、笑顔を向けられる回数だけ、朱嗚が真葵を想う気持ちは強くなっていった。

 思い出も、過去も、作り上げた人間関係も全てを捨てられてしまうほどに、朱嗚は真葵を愛していた。 真葵は朱嗚の生きる上での、中心となっていた。そして、それは真葵も変わらない。

 二人は幸せだった。

 真葵には朱嗚しかいない。朱嗚も、真葵さえ笑っていてくれればそれで幸せだった。二人の中には、愛する人しか存在しなくなっていた。

 小さなマンションの一室で、毎日、顔を合わせるのは好きな相手だけ。恋人という名の甘い響きの人物と、愛を語って自由に過ごす。誰にも会わず、関わらず、限られた空間だけが二人の世界。

 それは、異様な生活だった。だが、それが二人にとっての日常となっていた。

 まだ若い朱嗚と真葵には、この結末など予想ができない。目の前にある幸せだけが、全てだった。


 ガシャン!

 フローリングにティーカップが投げ付けられた。カップは粉々となり、葉の模様と形を失った。

「イヤ!」

 薄暗いリビングで、真葵の声が大きく響く。

 昼も当に過ぎた時間帯だというのに、部屋のカーテンは全て締め切られている。しかし、電気を付けることはない。カーテンの隙間から漏れる日光が、ふわふわと浮いている埃を照らしていた。

「何で出かけるのよ。食事なんて、出前でいいじゃない!」

 黒のクッションが、怒りに任せて朱嗚に投げ付けられる。ピンクレースのスカートパジャマが激しく波を打った。

「ヤだ、出かけるなんてイヤ! しかも朱嗚だけなんて、もっとイヤ!」

「お、落ち着いて、真葵」

 ヒステリックな叫びは、部屋だけではなく外にまで響いていく。クッションを受け止めた朱嗚は、何とか声だけでも抑えさせようと駄々をこねる真葵に手を伸ばす。だが、手はパチンと叩き落され、宥めるどころか距離を取られてしまった。

「イヤ!」

 久しぶりに大声を上げた真葵の息はすぐに上がっていた。それでも、吠える声は止められない。

「イヤ! ぜーったい、イヤ!」

 困り果てながら、朱嗚は飛んできた二個目のクッションを受け止めた。風圧に、薄茶の髪がばさりと靡く。

 暴れる真葵の手が棚に当たった。上に置いてあった掌サイズの冊子が落とされる。

 朱嗚はため息を付き、どうするものかと頭を抱えた。

 曜日も日にちの感覚もまるで狂い、今が何月かも分からなくなってから数ヶ月。そろそろ、現実という重みが二人に圧し掛かるようになっていた。

 朱嗚が家から持ち出した、自分の預金通帳。初めは多額の数字が並んでいたのだが、真葵に必要な物を買い揃え、毎日三回の食事を出前で取れば、当然金は日に日に減っていった。

 それに加え、光熱費や家賃もある。バイトや小遣いを溜めて作られた貯金は既に底を付いていた。

 朱嗚が学校を辞めたことに気づいていない親からの仕送りだけが、今の二人の生活を支えている。しかし、一人分の仕送りで二人が生活していくには、あまりに少なすぎるのだ。

 この生活を少しでも長く続かせるためには、どれだけ出費を少なくできるかに掛かっている。

「外はイヤ! 家の中がいい、出前がいい!」

 だが、朱嗚がどう説明しても真葵はぐずり、外出には納得しなかった。

「でも、もう冷蔵庫の中に食べ物も飲み物もないんだぞ? お金も残り少ないし、出前なんか取ったら明日から暮らしていけなくなるんだよ」

「なら何で、アタシは留守番なっ……ゴホッ」

「真葵!」

 首を横に振り、子供のように喚き続けていた真葵の口から、苦しげな息が溢れた。

 初めは小さかったが、段々と酷くなっていく咳。朱嗚はクッションを捨て、急いで真葵に駆け寄った。

「大丈夫? もう声出さない方がいいよ」

「っ、こほ、ごほっ」

 丸まった真葵の背を摩る。それでも咳は止まらず、しばらく細い身体が上下を繰り返した。

「ほら、咳が出るだろ。苦しそうだし、連れて行けないって」

「ケホ……」

 収まりつつある咳を出す口を抑え、真葵は言い返すことができず、口を尖らせて視線を逸らした。

 真葵の顔色は少し青白く、瞳も熱っぽく潤んでいる。手を触れればいつもより体温は高く、声も鼻声。明らかに風邪の症状だ。

「真葵は家で大人しく寝ていてよ。これ以上酷くなったら俺、どうすればいいか……」

 眉をハの字にする朱嗚に、真葵はそれ以上文句を言わなかった。

 ぜぃぜぃと息をする真葵の身体を、朱嗚は壊れ物を扱うように抱きかかえた。心配を灯す朱嗚の瞳に逆らえず、真葵は素直に身体から力を抜いていく。

「お願いだから、な」

 ソファの前で足を止めた朱嗚は、真葵の額にキスを落とす。そして、ソファへと真葵を下ろした。スプリングが軋み、決して柔らかくはない生地に細い体が沈む。

「うー……」

 ぷくと頬を膨らませながらも、真葵は大人しく身体を寝かせた。

 保険証や、身を証明できる物が何もない真葵は病院へ行くことができない。忘れたで通せたとしても、保健が利かない分診察料は倍になる。それを支払えるほどの金を、今の二人は持ち合わせていない。

 風邪なら薬でどうにか治すことができる。だが、軽い風邪を拗らせ、重い病になってしまえば、病院へ行かざる終えなくなる。

 しかし、大学中退の青年に名前以外言えない女の二人組み。親に連絡を入れられ、全てを白状させられ、事態が大事へ発展するのは目に見えている。

 当然、二人だけの生活も続けられなくなる。それだけは絶対に避けなくてはならない。

「薬買ってくるから。治ったら二人で買い物に行けばいいだろ」

 ソファの上を流れる黒髪を撫ぜ、濃茶の瞳は真葵だけを映して優しく微笑む。

「……分かった」

 渋々ながらも真葵は頷き、それを承諾した。ほっと、朱嗚は胸を撫で下ろす。

「すぐ、帰ってきてね」

「分かってる。真葵の好きなもの、たくさん買ってくるな」

「うん……」

 真葵が静かに肩の力を抜いた。瞬きが多くなり、眠る態勢に入っていく。

 朱嗚は床に落ちた毛布を拾い、弱っている身体にふわりと被せた。ソファの横にはみ出した手を取り、胸の上に置いてやる。

「じゃあ、いってくる」

「……いってらっしゃい」

 しばらく見つめ合った後、朱嗚は名残惜しそうに真葵から手を離した。

 二人の視線が外れる。朱嗚は机の上に準備しておいた財布をポケットの中に収め、上着を着る。そしてようやく、足をドアに向けた。

 埃の被ったドアノブに手をかけ、もう一度だけ、朱嗚の瞳が真葵に向く。真葵は不貞腐れたように頭まで毛布を被り、朱嗚に背を向けていた。

「すぐ帰ってくるから」

 少し困ったようにそう言って、朱嗚は静かにドアを開けた。

「いってきます」

 パタンとドアが閉まる。その言葉を最後に、部屋は静寂となった。

 しんと物音一つない部屋に、真葵は一人きりとなった。ここへ来て、初めてのことだった。

「……朱嗚……」

 小さな咳と共に出された寂しげな声は、誰に届くことなく、消えていった。


 三ヶ月ぶりの、外。

 埃臭さも、生活臭もまるでない新鮮な空気を思い切り吸い込み、朱嗚は大きく背を伸ばした。

 朝から晩まで着ていたパジャマを数ヶ月ぶりに脱ぎ捨て、ラフな英語柄のシャツとジーパン姿。床に埋まっていたアクセサリーを首に付けるのでさえ久々だった。わざとチャラチャラと音を鳴らし、朱嗚はコンクリートの道を歩いていく。

 久々に肌に受ける、眩しい直の日光。自然と耳に入ってくる近所の人の話し声。

 そこは普通の日常が広がっていた。朱嗚がなくしたと思っていた世界が、今、目の前にある。

「やっぱ、外はいいな」

 心に秘めていた本音を出して、朱嗚は大きく深呼吸を繰り返す。

 随分と前から、朱嗚の中には外に出たいという願望が渦巻いていた。勿論、真葵と一緒に、だ。外で恋人らしくデートをしたい。可愛い彼女を見せ付けてやりたい。男ならば誰もが一度は考えるだろう。

 しかし、真葵は外に出ることを頑なに拒否していた。朱嗚がどんなに外は楽しいと誘惑しても、頑として首を縦には振らなかった。本気で嫌がることを優しい朱嗚ができるはずもない。無理矢理外へと連行してまで、真葵と外に出たいわけでもないのだ。

「でもやっぱ、少しは外に出たいよな」

 少し視点を変えるだけで、視界一杯に映る自然。青い空や木々、土さえも、全てが朱嗚にとって新鮮に感じる。歩く足も、自然とスキップのように弾んでいた。

 道ですれ違った他人との小さな挨拶でさえ喜びを覚える。レジでの定員との他愛もない会話でさえ楽しいと感じる。

 朱嗚は久々の外の世界を楽しんだ。

 そう。その一時だけは真葵のことを忘れて。


「ただいま」

 明るい声と共に家のドアが開いた。

 両手に抱えるほどの膨らみをもった大量のビニール袋。その中には、大量の食料と飲物、生活に必要最低限の物が今にも溢れんばかりに詰まっている。

 これでしばらく外に出る必要はないだろうと少し残念に思いつつも、朱嗚は真葵が居るリビングに向かう。無駄な寄り道を少しばかりしたせいで結構な時間が経っていた。足が速まる。

「真葵、ただいま」

「おかえりなさい」

 時刻は夕刻。電気もつけていない部屋は、真葵の存在を声だけで肯定している。寝ていたのだろうと、朱嗚は電気を付けようとした手を引っ込めた。

「遅くなってごめんな。少しは体調良くなったか」

「うん」

 重過ぎる荷物は、キッチンのシンクの上に置かれた。ガスコンロの隣にあるスイッチを押せば、キッチンだけに小さな明りが燈る。

 ガサガサと音を立てるビニールの中から大量の食料が飛び出していく。安い冷凍食品。菓子パン。特売のお菓子にペットボトル。そして、真葵のための医療品。

「えーっと、飲み薬と体温計と。あ、起きてるなら何か飲んだほうがいいよな。色々買ってきたからさ」

「うん」

「何にする? やっぱ炭酸は止めといて、普通のスポーツドリンクに……」

「うん」

 しばらく食材を片付けながら会話を続けていた朱嗚だったが、ふと、違和感を覚えて動きを止めた。

短い返事に、まったく動こうとしない気配。不機嫌ではない、それでもいつもと異なる声。そこで漸く、朱嗚は真葵の異変に気が付いた。

「真葵?」

 不安を覚えた朱嗚は、ペットボトルを手に持ったまま真葵を呼ぶ。返事は返ってこなかった。

 ぞくりとした。腕に走ったのは寒気だ。鳥肌が立ち、足の指先にまで広がっていく。

 朱嗚は小さな明りを頼りに手探りで壁に手を伸ばし、リビングの電気のスイッチを入れた。

 ぱっと、黒の中に白の明かりが燈る。漆黒だった部屋は元の色を取り戻し、光に慣れようと瞼が落ちる。

 それでも朱嗚は無理矢理瞳を見開き、リビングを凝視した。

 次第に白の光りに慣れていく瞳。そこに、映し出されたものは。

「っ……!」

 声さえも、出なかった。

 朱嗚は、真葵の姿を映し出した自分の視力を、疑った。

「オカエリ」

 朱嗚の視線の先には、床に座り込む真葵がいた。赤い唇で半円を描いて、虚ろな漆黒の瞳を三日月に細めて、立ち竦む朱嗚を見つめている。

「オカエリ、朱嗚」

 変わらぬ声に続いて、ぴちゃんと水音が鳴った。

 それは真葵の掌から液体が落ちた音だった。真葵の手には、肉があった。色も、血管も、形も、肉にしか見えない。

 リアルでグロテスクな小さな肉の塊が、大事そうに握り締められていた。

 腕から床に駆けて滴る、色の付いた水滴。血は、まぎれもなく赤の塊から溢れ出している。赤黒い血は真っ白なブラウス、白とピンクのチェックのスカートに赤の水玉模様を付けていく。

 少し離れた机には、切り離された小さな肉体が無造作に置かれていた。小指の爪ほどの小さな手足。綺麗に剥がされた、毛皮。

 それらが張り付いていたはずの物体は、真葵の手の中だ。

 分離されようがはっきりと分かる。その物体達の正体は……


 動物の、死骸。


 朱嗚の目の前には、驚愕の光景が広がっていた。

「う、うわあぁぁあ!」

 思わず朱嗚は叫喚し、壁に背を押し付けた。

 足は竦み、身体は一瞬にして硬直して震えだす。血を見た瞬間に嗅覚が敏感に働き始め、埃臭さとは違う鼻を突くような鉄の匂いが鼻腔に纏わる。

 力を失った腕から、ジュースが床へと吸い寄せられた。一度跳ねたペットボトルは、身を隠すように棚の下へと転がっていった。

「どうして、そんな顔をするの」

 朱嗚を見て、真葵の双眸は悲しみに染まっていった。

 今にも泣きそうな顔で真葵は朱嗚を見据える。身体全体に力が入り、手の中にある肉片が強く握られる。圧力で肉が爆ぜ、血が飛び散った。塊の裂け目から臓器が飛び出し、よりグロテスクな物が出来上がる。

「ま、真、葵……何、して……なん、で、こんなこと!」

 搾り出された朱嗚の声は、明らかに困惑と動揺を秘めていた。瞳は恐怖に狩られ、身体は怯え慄き揺れている。

 あれだけ朱嗚の中に渦巻いていた真葵への愛情は、一瞬にして違う形へと姿を変えてしまった。

「朱嗚……どうして……」

 その、朱嗚の心の内を、真葵は見逃さなかった。

 ぎゅっと手の中の物体が細い指に締め付けられ、爪の中にまで肉と血を食い込ませていく。再び小さな肉が弾け、血が飛んだ。

 虚ろな瞳から一筋の涙が流れ、小さな血の水溜りに落ちた。

「怖い? アタシが怖いの、朱嗚!」

「ひぃっ!」

「ねぇ、朱嗚ッ! 答えてよ!」

 すっと、血だらけの腕が朱嗚に伸ばされた。

 赤い手。いつも目に付く白さはどこにも見えず、あるのは脅威だけ。

 朱嗚は反射的に目を閉じ、両腕で顔を覆った。

「ぅ、うわぁ! 来るなっ!」

 拒否の言葉に、真葵は驚いたように目を見開いた。上げていた腕が、ぱたりと下ろされる。

「どうして、そんな酷いコト、言うの」

 今にも消えてしまいそうな、泣き声。

 朱嗚は自ら発した言葉の失態にすぐに気づき、弾けた様に顔を上げた。

 再び瞳に映し出された真葵は、放心したように朱嗚を見つめ、ぽろぽろと大粒の涙を流していた。

 脱力しきった華奢な身体。喉から出る声は擦れる泣き声だけとなる。

 その姿は、ただのか弱い少女だった。

 白い頬を伝う涙を見た瞬間、朱嗚の中から恐怖は一掃された。まるで初めからそんな感情はなかったかのように、朱嗚は赤い真葵を愛おしいとさえ思った。

「ご、ごめん。あの、今のは、混乱して、咄嗟に出たもので」

 やっと出た言葉は、もう震えてなどいなかった。

 謝罪を聞いて真葵は少しの反応を見せたが、涙を止めることはなかった。はらはらと、赤の水に透明な粒を落としていく。

 言葉が止んだ空間には落ちる涙の音。そして、苦しそうにしゃくり上げる鳴き声だけが二人の耳に流れ込む。

「でも、なんで、こんなこと」

 自然と、朱嗚の足は前へと進めていた。無意識に漏れた声に、震えながらも小さな口が開かれる。

「だって、朱嗚、アタシ意外と話してた。道でも、店でも、楽しそうに」

「真葵、お前見て……」

「早く帰ってきてくれるって言ったのに、ウソつき!」

 赤黒い塊の上に雫が落ちる。色のなかった涙は赤へと変わり、血の中に解けていく。

「アタシ、だけって」

 虚ろで儚げだった真葵の闇色の瞳が、カッ大きく開かれた。瞳孔までもが見開かれ、涙で蕩けるようだった瞳は、鋭い獣のものへと変わった。

 それでも、唯一綺麗な涙は流れ続ける。

「アタシだけって、言ったのに!」

 真葵から出た声は、もはや絶叫だった。

「ヒドイ、イヤ、嘘ツキ! 朱嗚はアタシだけを見てよ! アタシ意外と話さないでよ! アタシだけ……っ、ゲホッ!ゲホ、ケホ……っ」

「真葵!」

 叫びすぎたせいだろう。声は、途中で咳へと変わった。激しい咳は続き、反動で握られる塊がミンチとなっていく。

 すぐにでも、朱嗚は真葵の傍に走り寄るつもりだった。だが、口から手を離した真葵の顔は口紅を塗りたくったように、酷い有様になっていた。

 どこかへ消えたはずの畏怖が途端に蘇り、朱嗚の足が竦む。

「アタシだけを見てよ。独占させてよ、キラわないで、よ」

 咳を抑えながら紡がれるのは悲痛の声だった。叫ぶことができなくなった声は、切なげに朱嗚へと訴えかける。

 その間も、真葵は手の中の物体を力任せに潰していく。内臓が原形をなくす。毛細血管の破裂音がリアルに響いた。

「ねぇ、これでもアタシをアイしてくれる? これでもアタシを置いていかない? 何をしても、アイしてくれるって言ったのに」

 真葵は涙を流しながら朱嗚に問う。瞳の中から怒りの炎は消えていた。朱嗚を見つめるのは、とても寂しげで頼りない双眸だ。

 朱嗚は思った。そして、理解した。

 この真葵の行為全ては、酷く幼稚な愛情表現なのだ。子供が玩具を誰かに渡したくないと、泣いて暴れるのと同じこと。独占欲の強い、真葵なりのストレートな想いの伝え方。

 真葵は、そんな方法しか知らないのだ。

 どんな酷いことをしても、どんな残虐なことをしても、受け入れてくれる。

 そんな愛を朱嗚が持っているか、確かめている。

「ね、朱嗚、なにか、言って」

 真葵の言葉の一つ一つが「愛」を確かめさせてと訴えている。

 朱嗚はほんの一瞬だけ、目を閉じた。心を落ち着かせる為に、自分に言い聞かせるように。


――愛しているからこそ、真葵はこんなことしたんだ――


 例え血に染まる真葵に恐怖を感じようとも、冷静になった朱嗚は真葵を嫌いとは思えなかった。

 風邪で頭が正常ではなくなっているのかもしれない。高熱で意識が朦朧としているせいなのかもしれない。

 そう考えながら、朱嗚は閉じた瞼を開いた。

「大丈夫、だから」

 こんな惨い光景を目にしたというのに、愛情は何も変わらない。一瞬だけ揺らぎかけたものの、それも恐怖によるもののせいだ。朱嗚は真葵を見て、まだ抱きしめたいと感じている。

 朱嗚は一歩、足を踏み出した。

「好き、だから」

 足は進む。朱嗚は恐怖心全てを拭い去り、一歩、また一歩と床を踏みしめる。

 そして、血溜まりの前で止まった。

「愛してるから」

 真葵に向かって手が伸ばされる。叩かれるとでも思ったのか、真葵は身体を縮めた。

「好きだよ、真葵」

 そんな真葵を、朱嗚は強く抱きしめた。

「好きだよ。愛してる。置いてなんて、いかない。だから、もう、こんなことはするな」

 朱嗚の白のシャツに、真っ赤な液がついた。色はどんどんと服に広がっていく。

「ホント? ホントにスキ? アイシテル?」

「ああ、本当、だから」

 より強く、それでいて優しく、朱嗚は真葵を抱きしめる腕に力を入れた。大丈夫、置いていかない。好き、愛してる。その言葉を繰り返し、耳元で囁きながら。

 それに安心感を覚えたのか、真葵の身体からゆっくりと力が抜けていった。

「よかった……アタシには朱嗚しか、イナイから」

 ほっと溜息をつき、真葵も朱嗚の背に手を回した。涙がようやく流れを止めた。

 真葵の手から、無残な死体が離される。ビチャンと嫌な音を立てて床へと落ちた。

 すでに原型を留めない、ただの物体へと姿を変えた死体。それを横目で見ながら、朱嗚は再び目を閉じた。

 どうしてそれほどまでに感情が高まってしまったのか。どうしてそんなにも愛を確かめたがるのか。その、異常なまでの独占欲。

 色々と浮かぶ疑問は、すぐに頭から掻き消されていった。

 今はやっと落ち着いた真葵の暖かさを、感じていたい。疑問を真葵に聞くことを頭は拒否し、朱嗚はただ一心に真葵を強く抱きしめた。

 もう二度と、こんなことにはならない様に。そう、心の中で切に願いながら。


 それでも本当は、分かっていたのだ。


 この後、どんな事態になるか。本当は朱嗚も分かっていた。

 それでも、朱嗚は最悪な事態を必死に考えないようにして、腕の温もりに力を篭める。どんどんと深刻になる関係に、瞳も心も思考も、閉ざした。

 完全に落ち着いたら真葵と埋めてやろうと、朱嗚はただ最低限すべきことだけを頭に思い浮かべ、息をする。

 最悪の状態になる、その日まで。


ご観覧ありがとうございました。

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