1、出会い
雨の中、青年は美しい女に出会った。
出会いはまさに小説のよう。綺麗で美しい恋の始まり、と、思われたのだが……
Ⅰ
闇。
黒一色と言っても間違いではないほどに、空の色は暗かった。
太陽も月の光もない真っ暗な夕方。普段ならまだ付いていない街灯が光を燈し、申し訳程度に濃紺を和らげている。
暗黒の原因は雨雲。分厚い雲が空を支配し、色を全て黒で埋めてしていた。明日の朝まで晴れと言った天気予報は外れ、仄暗い空は一転して暗澹だ。既に雨が降り始めている。
初めは小雨だった。だが、時が経つにつれ、あっという間に台風のような大雨となっていた。轟音まがいの雨は滝のように、ザーザーと地面に突き刺さっていく。
傘を持つ人間も打たれる雨の強さに負け、早く雨から逃れようと早足で進んで行く。傘を持っていない人間にとっては、この天気は一たまりもなかった。
鞄で何とか顔だけでも死守しようとする者。全力疾走で駆けていく男。車で迎えに来てもらう女性など、色々な人々が道路から家路へと消えていく。
青年も、雨の被害に巻き込まれていた。
学校帰りに突然の雨に見舞われ、一瞬にしてずぶ濡れ。財布を家に忘れてきた為傘も買えず、何の装備もなしに家までの道のりを全力で走っていた。
パシャン、パシャン。
足を前に踏み出す度に、聞きなれてしまった水音が雨音に混じって響く。
青のジーンズにも黒い英語文字で柄が描かれるシャツにも、雨のせいで肌と密着して色を変えている。 普段はワックスで上に立てられている薄い茶の髪も、ぺたりと頭や額に密着していた。
走りながら、青年は空を見上げた。
黒い雲で空は覆われている。雨が止む気配は盲等ない。見上げた瞳の中に雫は容赦なく突き刺さり、青年はすぐに顔を伏せた。
これだけ濡れてはもう走っても意味はない。そう考えた少青年は、全力で走り続けていた速度を緩めた。
「はぁ、はっ」
上下する胸は、歩くことさえ限界だと訴えていた。荒い呼吸が外に吐き出される度に息は白くなる。
呼吸さえままならず、少年はやむなく一度足を止めた。雨の中、道の真ん中で立ち止まる。
容赦のない雨のおかげで、青年の火照った身体は急激に冷やされていく。だが、その雨のせいで疲労感は何十倍だ。
青年は膝に手を突き、深く息を吸い込み、吐き出す。吸い込む酸素と一緒に、頬から鼻から垂れてくる雨水も中に進入してくる。どう足掻いても無駄だろうと諦め、青年は不味い水で喉を潤しながら呼吸を繰り返した。
何度も深呼吸を反復しているうちに、苦しさは消えていた。
次第に、芯から冷えていく身体。雨は遠慮なく熱という熱を奪い、唇の赤ささえ持っていく。
それに合わせるかのように、感情も冷まされていく。走ることが億劫となり、足は思考に合わせて動きたくないと訴える。
「明日も、学校なんだけどなぁ」
一人呟いた青年の声は、雨の煩さに飲み込まれた。
走る体力はもう残されていない。体調が崩れたら休めばいい。疲れに負けた青年はそんな楽天的な考えに身を任せ、鉛のように重くなった足を引きずるようにして進み始めた。
辺りを観察しながら、青年はゆっくりと足を進めていく。
見慣れた景色は雨のせいで少し姿を変えて瞳に映し出されている。実際に存在する物自体は変わりない。しかし、続くブロック塀。等間隔で並ぶ電信柱。それぞれ形も色も異なる家。空の色と雨の存在でどれも黙って身を竦ませているように、青年には見えていた。
人々はとっくに家に帰宅しているのだろう。いつもなら数人は隣を横切っていく道なりでも、擦違う人はいない。道路には青年以外の影は一つもない。
諦めたことで雨の忌々しさが消えた青年は、水のカーテン越しの景色を楽しみながら歩いていた。靴の中に染み込んだ水音を音楽代わりに、リズムよく地面を踏み締めていく。
あと少しで家に着く。そんな時だった。前方で、何かが揺らいだ。
曲がり角の傍にある、たった一つの街灯。その下に、静か過ぎるほどに小さく微動する影があった。
青年は焦げ茶の瞳を凝らし、じっと影となる一点を見つめる。
「……女の、子?」
影は人だった。強すぎる雨の中で傘も差さず街灯の下に立ち尽くす女の姿が、小さな光の中にあった。
場違い。青年の頭に思い浮かんだのは、そんな言葉だった。
女が身に纏う、純白のリボンとフリル満載のワンピース。ピンクのリボンは全て解かれてだらしなく垂れ下がり、透明なフリルが雨色に染まっている。濡れているせいか貧相に見えるが、凝った模様や身体にぴったりと合っているその服は高価だと象徴している。
服だけではない。
冷たい風を浴び、雨を受けているというのに、背筋だけは姿勢よく、真っ直ぐ空へ伸びている。雨の水が全身の線をくっきりと浮かばせて、強調させられた細く美しい身体のライン。露出された胸元や太股が大人びた色香を放ち、青年の冷えた頬に軽く朱を施すほどだ。
腰まである黒真珠のような長い髪が、完全に女の表情を隠してしまっている。女の顔は見えない。しかし、髪の間から覗く蒼白の頬の色が、黒の中で光るように目立つ。肌だけではない。全身白の服は、肌と同じで暗黒世界では全て浮いていた。
消えそうな明かりの下の為なのか、白い服のせいか。それとも他の理由か。少女は今にも倒れそうなほどに弱々しく、ぱっと消えてしまいそうだった。それでいて、強すぎる存在感がある。
青年は知らぬうちに足を止め、雨さえ忘れて、女に見入っていた。幻想的な存在に、目を離せなくなっていた。
数分、数十分。時は確実に経過していく。
女がそこから動く様子はなかった。ただじっと、何かに耐えるように、誰かを待っているかのように立っていた。
「さっきから、何。アタシに何か、用でもあるの」
突然、女が言葉を発した。小さく弱々しく、だがはっきりと耳に届く高い声だった。
周りに、青年以外の人は居ない。声は、確実に青年に向けられていた。
「あ、あの、その」
見つめていることを知られていた。青年は我に返り、言葉を詰まらせる。頬には自然と赤みが掛かり、寒さが一瞬にして熱に変わっていく。
雨の音に小さな単語は打ち消され、女には聞こえない。しかし、女はさほど青年に興味を向けず、それ以上は何も話さなかった。
雨の音だけが二人の間に流れていく。
青年は再び女を見つめ、立ち尽くす。だが、律儀な青年は女の言葉に答えようと、戸惑いながらも口を開いていた。
「えと……君は、何やってるのかな、と思って見てたら、声をかけ損ねて……」
先程よりも声を上げ、青年は正直にそう言った。
「君は、こんな所で何してるの?」
問いかけに、女は肩を微かに揺らした。だが、反応はそれだけで、何時まで経っても返事はなかった。
「あ、あのさ、寒くない? 雨、だしさ」
女は何も答えない。それでも青年は必死に言葉を拾い集め、女に向ける。
「雨宿りした方がいいんじゃないかな。このままじゃ、風邪引くと思うし」
「……」
「あ、もう少し先にコンビニがあるはずだし、さ」
「……」
「あー……」
返されない返答に、ついに青年からも言葉が消えた。ザアザアと激しい雨の音だけが、虚しさを倍増させていく。
普通の人間ならば、無関係の人間にこれ以上時間を裂くことはせずに立ち去るだろう。
しかし、青年は違った。
「えっと」
青年は不思議な雰囲気を纏う女に惹かれていた。それ以上に、雨に打たれている女を心配し、口からは自然と言葉が出ていく。
「家に、帰れない理由でもある?」
「……えェ」
その問いに、女がようやく口を開いた。青年が諦めないことを悟ったのか、躊躇いがちにだが、返答することを選んだらしい。
出された声は、初めに発しられた声よりも数倍も張りがあった。
「そうなんだ……理由、親と喧嘩でもしたとか」
「違うわ」
「そっか。じゃあ、誰か待ってるの?」
「アタシを迎えに来てくれるヒトなんて、いない」
「そ、か」
今度は全ての質問が即答で答えられた。だが、青年はそれ以上質問を思い付けず、今更に口を閉ざしてしまった。
それから数分間。二人は微妙な距離を詰めることもなく、雨の音だけを耳に入れていた。
青年は言葉を失いつつ、その場から去ろうとはしなかった。一度閉じてしまった口をどのように開けようかと、焦りながらも思案を巡らせる。
そんな、いつまで経っても去ろうとしない青年の気配を気にしたのか、女がゆっくりと顔を上げた。
二人の視線が、合う。
女の顔に張り付いていた髪が雨に流され、青年に表情を見せた。
まだ少し幼さを残した、整った無表情の顔。寒さに震え、それでもぷっくりとしている赤く塗られた唇が薄く開き、白い息を吐いている。ぼぅと光るように白い肌は、可愛そうなほど肌を占める鳥肌が目立つ。
雨に濡れた不恰好。しかし、女の雰囲気は一般人とは掛離れて、どこか気品めいていた。
「アナタ、アタシと同じくらいの歳じゃない」
前髪の隙間から見える、闇に同化するような虚ろな瞳が青年を見つめる。漆黒の瞳が閉じられる度に、長い睫毛に乗った雨の雫が落ちていく。
「親が心配してるんじゃないの? 早く帰りなさいよ」
青年が言葉を返す前に、女はまた下を向いてしまった。髪が顔にかかり、表情が消える。
またも、二人に沈黙が訪れる。雨の音が増していき、轟音となっていく。だがそれを割くように、青年が口を開いた。
「家に、親はいないんだ」
意外な言葉に、女は素早く顔を上げた。虚ろだった双眸が大きく開き、青年を凝視する。
「よかった。また顔上げてくれて」
無表情を崩した女に笑顔を向け、青年は雨に負けないように声を張る。
「俺、一人暮らしなんだ。親と暮らしてたとしても、心配なんかしてくれないだろうけどね。だから、っていう訳じゃないけど、君みたいな一人でいる子を見てると、放っておけないんだ」
青年は女が怖がらないようにと、一歩だけ足を前に進めた。
「ごめんね、初対面で変な話しして。お節介って分かってても、このまま素通りなんて出来ないよ」
青年はもう一歩だけ足を進め、女に近づく。女は警戒しながらも、逃げようとはしなかった。
丸くなった双眸が青年を見上げる。その奥にある闇が、青年には見えていた。
暗闇の中、一人佇む女の姿に、青年は自分の幼い頃の姿を重ねていた。
言葉に出来ない、寂しさ。それがじわりじわりと女から染み出し、誰にも知られないまま雨に流されていくようで。
青年には、女を放って立ち去ることなど出来なかったのだ。
「ここにいると風邪ひくよ。俺の家でよかったら、おいでよ。マンションだけど結構広いし、誰もいないし」
女が、開いた瞳を更に大きく見開いた。
しかし、青年も自分の失態に漸く気が付き、治まっていた赤みを頬に燈していく。
「ご、ごめん! あの、その!」
青年は混乱を隠せず、後ずさる。
初めて会った女性に話しかけ、しかも突然家に誘う。不謹慎極まりない、ナンパと思われて仕方のない行動の数々に、青年は濡れている顔を覆った。
「あの! 全部、変な意味で言ってたんじゃないんだ! ただ、風邪をひかないかって、心配で! ストーカーとか、不審者とかでもなくって、ええと」
雨ではない水を額に浮かべ、青年は焦る。手や足が言い訳でもするかのように、忙しなく動き止まらない。
不審者のような妙な動きを繰り返す青年を、女は目をぱちぱちと閉開しながら凝視していた。
何かを言いたげにきゅっと締まっていた女の口が、薄っすらと開く。赤い唇から、真っ白な歯が覗く。
青年の胸が、とくりと鳴る。胸の高鳴りが、青年の女に対する興味を、強くしていく。
「と、突然、ごめん。別に変な意味はなくてほんと、ただ心配で。とりあえず、傘くらい買った方が……あ、俺、今は金持ってないんだけど、取りに戻ればあるし。家じゃなくても財布を持ってこれば、近くにファーストフードの店や、後は喫茶店もあるし!」
息も付かずに連ねた言葉のせいで、呼吸が荒くなっていく。ふわりと吐き出された白い息が雨に叩かれ、落ちていく。
「ここに居ると、本当に、風引いちゃうからさ」
青年は上がった息の合間を縫い、落ち着けた声を舌に乗せた。
雨の音に掻き消されそうな程、小さな声だった。しかし、女の耳には青年の優しさがきちんと届いていた。
「でも」
女は迷うように視線を揺らし、細い指で濡れたスカートを握る。小さな口から、小さな白の靄が出た。
「帰る場所、ないの」
雨の様に冷たい言葉は、青年の出そうとした言葉を途切れさせた。
「どこかで雨宿りしても、アタシはここに戻ることになる。家がないの。お金も、家族も、ないの。アタシには、何もないの」
女の表情に、先程まであった冷たさはない。
「だから、ここから動けない」
青年を見つめる女の表情には、見て取れる悲しみがあった。揺れる闇色の瞳、震える声に、嘘は感じられなかった。
「そ、それなら尚更だよ! ここにいちゃ、よくないよ!」
青年は、さも当然のように声を上げた。女を見つめる焦茶色の瞳は、至って真剣に状況を打破しようとしている。
雨にも負けない声と、青年の純粋すぎる瞳に、女は眼睛を細めて視線を落とした。
「……でも、アタシは」
「話はここじゃなくていいだろ? こうして会ったのも何かの縁だし、もし、話せる理由なら聞くし、俺に出来ることなら力になるよ。さ、どこか、雨宿りできる場所に行こう」
半ば強引に話を進め、青年は女にそっと手を差し出した。
無表情で暗かった顔は完全に崩れていた。女は出された手に戸惑い、指で口元を隠してしまう。
しかし、女の答えを聞く前から、青年の心は決まっていた。
どうしても、この少女をここから連れ出したい。守ってあげたい。青年の心は、そんな勝手な使命感で燃えていた。
青年は手を高く上げ、女の目の前で、止めた。
「……でも」
差し伸ばされた手を女はじっと見つめる。
手の平に雨が溜まり、そこに入りきらなくなった水は溢れ、地面へと落ちていく。それが永遠に繰り返される。女が、青年の手を取るまで。
青年は女の顔を、女は青年の掌を見つめ、言葉を発さず動かない。
そうしている間にも雨が二人の体温をじりじりと奪っていく。指先から掌、腕、顔、上半身から下半身、足の先まで。二人の体温は徐々に雨の冷たさに蝕まれていく。
重力に逆らっている青年の腕は、雨の容赦ない攻撃と同じ体制に疲れを訴え、痺れを来たす。
それでも青年は腕を下げようとはしない。指をピンと伸ばし、手を重ねやすいようにと指を広げて女を待つ。
長時間雨を浴び続けた女の身体は、青年以上に凍えきっている。指先の感覚など、もう当の昔になくなっている。
冷えた身体は女の体力を奪い、思考まで低下させていた。
だから、なのかも知れない。
女は少年の勢いに飲まれ、ぼうと揺れる意識のままに、流されるように動き出した。
躊躇いながらも、女はゆっくりと腕を上げた。細く長い指が青年の手に向かい、伸びていく。途中、一度引かれたが、しばらくすればまた女の指は青年を求めるように進んでいく。
そして、十分な時間を掛けて、女の指が青年の掌に、触れた。
少し触れただけでも分かる、女の低すぎる体温。僅かな体温の差が震えている女の指に、青年の体温を伝えていく。
それからはあっという間だった。女は自らの意思で少年の手を握り、にこりと笑った。
掌から溜まっていた水が全て溢れ、地面に飛び散って、水溜りの中に消えた。
「暖かい」
お世辞にも、暖かいとは言えない青年の体温。それでも、女にとっては確かに温もりを感じるものだった。
女は優しく微笑んだ。ふわりと、まるで咲いたばかり花のように。
ドクリと、青年の胸が、跳ねた。
その瞬間が、青年と、そして女の中で、見えない何かが弾け飛んだ瞬間だった。
「う、ん」
青年は頬を赤く染め、無意識に冷え切った手を握り返していた。頬から順番に、青年の体温が上昇していく。
「アナタの家でいいわ」
そんな青年の熱を更に上げるように、女は悪戯っぽく首を傾けた。驚いた青年は思わず握った手を離しかけたが、女がそれを阻止した。強く絡められた指が、青年の心臓に負担を掛ける。
「でも」
「アナタは、いい人そうだもの。信用するわ。それとも信用してはダメ?」
「そ、そんなことないよ!」
ぶんぶんと、青年は脳が揺れるほど首を横に振る。そうすれば女は、噴出すように笑った。
人形のように精巧な微笑。テレビに出ている女優顔負けの美しさを女は持っていた。
女の笑顔は、青年を魅了していく。
「家、連れていって」
甘く艶のある声だった。青年は女が発した声に聞惚れながら、小さく頷いた。そして、ガラズ細工を扱うように女の手を引き、歩き出す。
女はびくとも動こうとしなかったその場所から、糸も簡単に足を浮かせた。泥で汚れた白のヒールが、軽快に水溜りに飛び込んでいく。
「アナタの家、楽しみ」
女は青年の瞳を覗き込みながら柔らかく微笑む。青年の胸は女の笑顔を見る度に悲鳴を上げ、壊れるほどの脈を打つ。瞳を合わせていることもままならなくなり、青年は女から視線を逸らした。
初めて感じる不思議な気持ち。高鳴る胸の鼓動、働かない思考。気付けば青年はまた、女へと視線を向けていた。
女は柔らかく笑い、青年を見上げている。青年は足を進めながらも、女の微笑に見惚れてしまう。
青年は理解した。小学生の時に遡り、感情の名前を見つけたのだ。
恋。
体温ではなく、心からの暖かさが青年を満たしていく。
出会って数分。言葉すらろくに交わしていないというのに、青年は確信もなく、まだ名前すら知らない女を好きだと感じていた。
感情に気づいた途端、余計と青年は女の瞳を覗くことが出来なくなった。頬の赤さを隠すように青年は女に背を向け、今は帰宅のことだけを考えるようにして足の動きを速める。
女は少年から目を離すことなく、柔らかくなった表情でいつまでも青年を見つめ続けた。
冷たかった二人の身体は、いつの間にか熱を持ち始めていた。心には、仄かな明かりが燈り始め、ぎこちなさを溶かしていく。
雨の憂鬱さは消えていた。
あるのは、互いを想う、心だけ。
二人がその場から姿を消しかけた時だった。
先程まで女を真上から照らしていた街灯が、まるで蝋燭を吹き消したかのように、静かに光を失った。
唯一の明かりだったものがなくなり、そこは黒く染まった。何も見えなくなり、地面や壁、水溜りさえ、闇の中に飲み込まれたようだった。
女が後ろを振り向くことは、もうなかった。このまま青年に付いていけばどうなるかも、結末も、青年の運命も、女は分かっていた。それでも、歩み続けた。
握られた手の温もりに酔いしれ、心に染み渡る青年の優しさ溢れる行為の喜び。
忘れてはならない暗闇を、女は無視した。
女は笑った。まるで天使のような微笑で、にっこりと。
続きます。これは某出版社に応募して落ちてしまったものとなります。