涎を垂らして待っていた
私も、その背徳感を味わいたい。
パブロフの犬が鐘の音を聞くだけで餌がもらえると思って涎を床に溢すように、
私たちも他人の不幸が落ちてくることを舌なめずりをして待っている。
他人の不幸は蜜の味とはよく言ったもので、姉のショッキングなゴシップから1週間も経たないうちに
私は家の中で言いようのない居心地の悪さを感じている。
姉とは仲が良かったし、一緒にショッピングにも行く仲ではある。
しかし、些細なこと、例えば姉が私のはしたなく開いた足を注意するだけで私は口を開いては噤むを繰り返している。子供のころ、もごもごと笛の音が出るラムネを吐き出してしまわないために口の中で遊ばせるように。
わたしたち姉妹の絆をぶち壊す大陸間弾道ミサイルを発射してしまわないように。
「お姉ちゃんも、はしたないことしてるんでしょ」なんて口が滑らないように。
けれども今日、テレビのコマーシャルをボーっと見ている時にはたと気づいた。
わたしはいつでも姉を蹴落とすことができるこの状況を楽しんでいる。
ぞっとした。私は、なんて醜い人間なんだろうと、自分自身に反吐が出る。
それでも常に姉への劣等感を抱いていた私にとってはそれはもう手放すことのできない蜜だった。
姉は今日も新聞を読みながら甘くないコーヒーを口にしているが、私の視線は彼女のピンクの唇に釘付けだ。
「なあに?あんまり見られちゃ恥ずかしいよ」
にこりと笑って見せる姉に私は口をもごつかせて何もなかったかのようにふいと顔を背ける。
こんなにも美人で、教養もあって、所作やマナーに厳しい姉が、本当にあの女だったのか。
もしかしたらあれは私の願望が見せた幻覚だったのではないか。
そうだ。きっとそう。私はこんなにも偏屈な人間なのだから、それくらいの幻覚だって見るかもしれない。
私はこんなにもはっきりとした劣等感を持っている。
そう暗示をかけるように私は姉に対する疑惑と、あの日の光景を忘れようとした。
あの事件から1ヶ月も経たない内のある週末。
世間は金曜日ということに託けてどこか浮かれた雰囲気で、
繁華街には学生、OL、サラリーマンが騒然と溢れ返っていた。
それらの人を客観的に見ながらも、私は大学のサークルの仲間たちとともに
浮かれてスポーツバーでサッカーの国際試合を見ながら慣れないビールを煽っていた。
スポーツバーの中はゲームが進むにつれて人々の熱気で心地よい蒸し暑さが充満していった。
私たちも化粧を気にすることなく汗をかきながら大きな声を張り上げ、
画面の向こうの日本代表たちに声援を送っていた。
前半の45分が終わると一度スポーツバーの中もクールダウンするようで、みんなで元の席に座り、
これまでのハイライトや、自分の好きな選手について語りだした。
「あっつ・・・・」
私は独り言をつぶやきながら汗が染みたシャツをぱたぱたと体から浮かす。
「ほんとにね!」
同意しながらその暑さが苦ではないことがわかる満面の笑みで現れたのはサークルイチの噂話大好き、典型的な女、原谷絢だった。
「ねえ、それ何飲んでんの?」
「あ、スプモーニ・・・・」
「へえ、私も次それにしよー」
絢はそのまま私の隣の席にどっかりと腰を下ろすとタバコを吹かし、温くなったビールを喉の奥に流す。
わたしはそれをぼんやり眺めながら冷たいスプモーニをちびちび舐めていた。絢は突然、顔をこちらに寄せた。
「知ってる?ここのVIPルームの話」
お得意の噂話が始まったことに後悔しながら私は首を横に振る。
「そこってね、お金持ちのVIP会員しか入れないんだけど、毎晩入り浸ってる同じ大学の子がいるんだって」
「へえ、そうなんだ」
「え〜それだけ〜?」
「うーん。あんまり興味がないっていうか・・・」
絢は途端に肩の力を抜き、大げさにため息を吐く。
煙草を吹かして私への興味が早くも薄れてしまっているようだ。
気まずくなって間を繋ぐように私は重たい口を動かす。
「ウワサ、とか、さ。興味が湧かないんだよね」
「・・・へえ、それってなんのアピールしてんの?」
「え」
絢はずい、とご自慢の豊満な胸を私の腕になすりつけるかのごとく体を寄せる。
額どうしが触れてしまうくらいの距離で、絢は吸っていたタバコを消し、肺に溜まっていた煙を吐き出した。
ぱさ、と髪の毛が落ちても私の目から視線を外さない。
狩りの対象を見つけたように舌なめずりをして、カラーコンタクトの嵌った非現実的な瞳で私を睨む。
「ウワサっていうか、人のゴシップネタっていうのかなあ。そういうのに興味のないように見える人間は確かにいるよ?けどね、その人たちだって興味は沸いてる。隠してるだけ。だって、人が不幸になるネタだよ?その人を陥れることのできるネタだよ?それをね、手の内にひた隠しにするの。その飴を吐き出さずに、口の中でこれでもかってくらい吟味する。飽きてきた時にでも吐き出せばさ、それはそれは蟻が集るわけよ。つまりさ、」
あんたはそれを持ってるわけ。
左胸のあたりを感触を楽しむように指先で軽く押される。
ぐわん。大きな銅鑼を耳の真横でおおきく振りかぶって力一杯鳴らされた。
ビリビリと体が痺れて、私は絢を呆然と眺める。
「・・・・図星だね」
するりとパステルカラーに彩られた爪先が私の頬を撫ぜる。
びくり。何かの快感を与えられたように声が漏れる。
すかさず絢は机の上にあった私の手を自分の手と絡める。
ぞくん。内臓から湧き上がる緊張の兆しが、はくはくと声にならない息を漏らす。
その間にも指先の侵攻は止まらない。
緩慢な動作でけれども確かにそれは快感を与えるほうへ意地悪くやってくる。
ちかちか。目の前で火花が飛んで頭は思考を溶かし始める。
「早川さん」
「・・・・」
私はただただ下を向いて、なぜが頰を紅潮させて、果たして酔いのせいか、絢のせいか。
「行こっか。・・・ねえ?」
「・・・・」
俯いているのにさらに深く頷いて、私は手を繋がれていないのにぴったりと絢の後ろにくっついて、人混みの中をかき分けていった。
螺旋階段を一段一段登っていくたびに見せつけられる絢の足首から内腿のかけてのしなやかなライン。
普段太陽に焼けないそこは暗い店内でも浮き上がるように真白で、さながら百合が甘い香りで誘惑しているようだった。
暗い店内でより一層暗いカーテンに囲まれた最奥の部屋に誘われて、私はどうすることもできず立ち尽くした。
黒いソファに映える、艶めかしい絢の白い肌。
しなやかな手足に、少し汗ばんだ髪が張り付く首筋、紅潮した頬、とろりとさせた瞳が、私を誘い出す。
私はここで初めて手を引かれ、そのソファに雪崩れ込む。
有無を言わさず絢と同じように肌をさらけ出すことに少しの恥ずかしさを残したまま、次の日の朝、足先の冷えによって目を覚ました。
ソファから起き上がった私は体の至る箇所が痛くてしょうがなくって、隣で未だ寝息を立てる絢を横目に見るがぐいぐいと眉間を明日にとどまった。
私はそっと起き上がり下着を身につけるときっちりとボタンを全て閉める。
置き手紙を残して私は昼の町並みに溶けていく。
姉は、こういう気分だったのだろうか。
私は、こんなにも次の逢瀬が待ち遠しい。
昨日のキスを思い出して私はまたゾワ、と内臓が浮く。
こんなふわふわろ浮ついた気分だったのだろうか。
どちらかが言わないと誰にもバレないような関係。
そんな関係が、姉を、変えてしまったのだろうか。
私も変わろうとしていた。午前10時の、渋谷駅前。
【涎を垂らして待っていた】