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姉の口紅

理想はある人の中で生まれた虚像であり多くの場合美化されている。

その理想が崩れるのは案外あっけなくて、その事象にショックを受けている自分を鑑みて、自分はなぜあの人に期待していたのか分からなくなるが、勝手に理想にされていた人言い分はこうだ。

その虚像はあなたの産物であり、勝手に私を殺さないでください。と。

子供の頃からケーキ屋で好きなものを選んでいいと言われるとミルフィーユを選ぶ癖があった。子供心に絶妙なバランスでパイ生地とクリームが層を成すそのスイーツが美しいと思っていた。軽やかなパイと滑らかなクリームのハーモニー。しかし、その演奏は後半に差しかかるにつれ徐々に崩れていく。パイは粉々に砕け、クリームは皿にべっとりとついて、そのふたつは本来のミルフィーユの美しさを奏でることはなくなる。悲惨な最期を迎えるミルフィーユを食べる機会は年を取るごとに少なくなっていたが、今日はその機会が向こうからのこのこやってきた。年の離れた姉が久しぶりにデートと銘打ったショッピングに私を連れ、休憩にと私の好物を買ってきてしまったのだ。

姉は、早川早妃は、わたしの憧れの存在であり、最も尊敬する人であった。私の目の前でエスプレッソを嗜み、眉を顰めることなく、洗練されたマナーと動作で口にミルフィーユを運んでいく。もちろん姉のミルフィーユは常に美しいバランスを保ったままで、わたしのはと手元を見ると彼らは演奏を放棄した後だった。姉のエスプレッソが入ったカップには厭らしくない程度に艶のあるピンクのグロスが薄らと付いていたが、女性らしい指先がそれを攫っていった。わたしのマグカップには返却口に置かれてもなお真っ赤な口紅がべったりとついていた。きっと洗い場のバイトはその赤に嫌気がさしただろう。



店の外に出て姉と別れた。それが私の見た最後の姉の凛々しい後姿だった。私が居酒屋のバイトを終えて歓楽街と呼ばれるネオン街を家に向かって歩いている時、以前とは似ても似つかぬ姉が出てきた。姉の隣にいるおじさんは爽やかなお義兄さんとは正反対の中年男性。その男は姉に似た女性の腰をいやらしく撫でる。その女性は「やだあ」と拒絶には程遠い猫なで声をてかてかした下賤な赤いグロスの乗った唇から紡いだ。水の中に落とされたように遠ざかる周囲の雑音。ちかちかと目の前が明滅を繰り返す。ネオンと疲れのせいだと自分に言い聞かせる。煙草の酩酊感よりも吐き気のある眩暈。


私の姉が不倫してました。



シーツに反射した太陽を疎ましく睨み付け、私の一日は始まる。昨夜はベッドに逃げ込むように眠ってしまった。べたべたした汗を早く流したくてシャワールームに歩を進めながらシャツを脱ぎ捨てていく。熱いシャワーが心地よくて鼻歌でも歌いながらクレンジングをしようと手を伸ばした時だった。自らのマニキュアの赤が昨日の出来事を全て思い出させるようで鳥肌が立つ。一度湧き上がった嫌悪感をすぐに沈めるのは難題であって私はとっさにボディソープに手を伸ばし、泡立てネットで腕を、首を、腰を、腹、背、足、顔までを擦っていた。自分の体が汚されたわけでもないのにひりひりしたってお構いなしに擦り続けた結果、シャワールームから出ると私の体は日焼けしたかのように真っ赤に腫れていた。扇風機の風でさえも痛覚が反応していまい、姉に対する恨みをさらに募らせた。

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