『ばいばいサンキュー』
「さよなら。今まで本当にありがとう」
にっこりと笑った彼女に、「いや。こちらこそ」なんてありきたりな言葉を返す。
「あたし、ここに来て良かったと思ってる。短い期間だったけど、この町はあたしに初めての感動をたくさん与えてくれたから」
「そうか。それは良かった」
彼女には敵わない笑顔を作って外面を保つ。そうでもしないと、とてもやっていられない。
「それに……」
言葉を続けようとする彼女に注目すると、一瞬目が合って、恥ずかしそうに目線をそらされた。
「あなたに、会えたし」
照れ隠しからか少し体を揺らしながら、彼女は目を瞑って首を傾けた。そうしてから開いた目の端に、うっすらと光るものが見えた。それを視界に捉えながら、彼女を連れ去る汽車が来る方向に体を向けた。
「これからまた、新しい旅に出るんだな」
「そうだよ。今までもそうしてきたんだもの」
肩越しに様子を見ると、かばんの取っ手を強く握る手が震えていた。俺は彼女の方に向き直り、さっきと同じ間隔を保って黙っていた。
そのまま、時が流れるのを止めたならどれだけ幸せだったろう。
「あ、来た」
その声を聞かなくても、遠くから近づく汽車の車輪が鳴らす音はちゃんと耳に入っている。嫌でも、律儀に俺の耳は現実を拾う。車輪を止めるためのブレーキ音。彼女のかばんが地面を蹴る音。彼女の躊躇いがちな音。何を躊躇うんだ。行けばいいじゃないか。
「なぁ」
「何?」
汽車の頭が駅に入った。その動きが起こす風に彼女の髪は激しく揺れた。
「俺、応援してるから。お前のこと。だから……」
大きく息を吐く。
「旅に疲れたら、生きるのに疲れたらここに来い。今のお前をいつまでも覚えているから。お前をまた歩かせてやる。だから」
最後の一言は、目を瞑って堪えた。そうか、だから躊躇うんだな。
「うん。ありがとう」
汽車のドアが開く。あまりにタイミングが良すぎて笑えそうだ。なんて切りのいい、尾を引かない都合の良い別れだろう。
「……じゃあ、行くね」
「あぁ」
全ての荷物を汽車に乗せて、最後に一番大切なものをどうにか乗せることの出来た彼女は、荷物だけを見つめていた。
「忘れ物、ないよね」
そんな事を、どこか自分からは手の届かない遠くで行われているかのように、ぼうっ。と見ていた。本当、都合が良い別れだ。このまま終われば、俺も楽になれるんだ。楽になれる。
「ないみたい、だね」
寂しそうな声がして、俺の中の何かが――そう、今まで知っていたのに気づかなかったものが急に飛び出した。
「あるよ」
「え?」
ジリリリリリ……
「お前じゃなくて俺の方」
彼女と俺の間が、無機質な分厚い壁で遮られる前に。
「お前が好きだ。また戻ってきて欲しい。何年後でも何十年後でも、死ぬまで待ってるから。だから」
今度は、言える。
「今までありがとう。また会おう」
涙混じりのかっこ悪い笑顔を見せ付けた。彼女の喉からも、大きな泣き声が漏れた。その中に、俺は確かに聞き取った。
「ありがとう。ありがとう」
汽笛を鳴らし、速度を上げ、汽車は彼女を次の旅へと連れ去った。なんて都合の良い。どんなに大きな声で泣いても分からない。それでも、大切な声はきちんと聞かせてくれる。
呟き続ける「ばいばいサンキュー」。また会えることを信じて。