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「夜半のハーフムーン」
bar「ハーフムーン」夜半過ぎ、カウンターの内側。
最後の客が帰って、洗った皿を拭きあげた。
難しいつまみなど置いていないし
酒の種類も音楽も、すべて自分の道楽のうちだ。
商売が成り立っているのは
世の中に同じ嗜好の人間が多いからだろうか。
そんな筈はない。
多ければ、俺はこんな片隅で酒場を営業していない。
社会に適応しきれなくて、それでも社会に繋がっていたかった。
客を通して見る社会は、こんな年齢になっても眩しい。
レコード棚から出すケニー・ドーハム。
他人の話を聞き続け、自分の話はグラスの底に沈める。
去っていった時間を惜しむのは、年を取った証拠か。
バカ笑いに埋もれた学生時代、美しい花はただそこに在った。
手折った末に水も遣らずに、枯らせたのは俺だ。
なあ、今はまた、美しく咲いているかい?
酔いが回ると思い出す、懐かしい笑顔。
裏口に鍵を閉めて、静まり返った街を歩く。
いつか、野垂れ死ぬ。
永井荷風のように、ひとりで逝く。
その望みをポケットに入れ、家路を歩く。