ネコとネズミのワルツー宵語りー後編
翌日、ご主人は元気に引き取られていったらしい。
「あの娘が去ってからの日々は、本当に空虚なものでした。本来ならわたしはその環境に身を置き、そして生活していたのですから、不思議なものです……また、あの娘が家を出たのと時を同じくして、シルクからの交信も、途絶えました」
招かれざる珍客は去り、影からこぼれる不可思議な声も消えた。
そして、日常が宗谷のもとに戻って生きた。
朝日はいつものように昇り、夕日はいつものように沈む。
たとえ朝日の光に色彩が失われ、沈む夕日に優しさが感じられなくなったとしても、それが、本来の形。
宗谷が、ご主人に出会う前の、『いつもどおり』の世界の形だったのだ。
「わたしは、ただ単に、生きていました。あの娘が家に来てくれる前からそうしていたように、ただ、ただ、生きていました」
ただ、生きる。
ヒトという生体に備わった必要最小限のプログラムをこなし、
それ以上のものを求めること無く、世界に在る。
「失うものなど、もはや何もありませんでした。大切なモノの多くは過去に失っていましたし、おそらく、当時の私は自身の命にさえ、価値を見いだすことが出来ないでいたのです」
だから、もう死んでも良いと。
このまま、静かに世界から消え去るのなら、それも一興だろうと、宗谷がそう思っていたその矢先にーーー
「香織が失踪したとの旨を、知りました。夜遅い時間に、秘書の方が私の家の戸をたたき、あの娘が逃げ込んでいないかということを、尋ねてこられたのです」
そして、そのときの秘書の顔が忘れられないと、宗谷は語る。
「彼が家に入り、香織を探していたときのことです。最初は……私たちが初めて会った時と同じように、能面のような顔であの娘を探索してい彼でしたが、あの娘がいないということが分かると、とたんにその表情に明らかなーーー」
必死さが。
まるで、本当にご主人のことを想うような、まるで親が必死に大切な子を探すような感情が、能面の男に漂いだしたのだという。
「私は何かがおかしいと、感じました。何か大事なものを見落としているような、しかし絶対に取りこぼしては行けない何かを、まさに目にしているように、私は感じたのです」
黒服の話では、ご主人の失踪は明らかに、誘拐の類いでは無いらしい。
これまでと同じようにご主人は、自らの意思で家を抜け出していることは間違いないということなのだ。
「今にして思えば、それが答えだったのです。さまざまな理由から筋道がゆがみ、多くの物事で視界が閉ざされてはいましたが、それでも私にはそれがはっきりと見えました」
結局、それは『大切』なものでありながら『無価値』であり、
『無価値』でありながら、切って捨てることができない、そんな矛盾をはらんだ何かに宗谷はーーー
「気づいたのです……いいえ、気づけたのです。だからこそ、私と香織は、後に彼女と向かい合うことになります。それはーーー」
それは。
これまでご主人と宗谷の物語のに出てくることの無かった人物であり、
そして、だからこそ、大切な意味を物語にもたらすことが出来る者。
「私と香織は、彼女の叔母である、氷室佐百合さんと向かい合うことになります。そして、それがターニングポイントとなり、私たちは今ここに…こうしていられるのだと思うのです」