横浜の異邦人
雨の匂いがした。
高瀬修司はゆっくりと目を開ける。
見慣れない木造建築。石畳の道路。耳に飛び込んでくるのは、自動車ではなく馬車の車輪が石を叩く乾いた音だった。
「……ここは?」
起き上がろうとした瞬間、背中に鈍い痛みが走る。
最後の記憶は、出張帰りだった。
半導体メーカーで営業係長を務める四十歳。取引先との打ち合わせを終え、駅へ向かう途中で眩しい光に包まれたところまでは覚えている。
その先が思い出せない。
スーツの内ポケットには社員証が入っている。財布には数万円とクレジットカード。胸ポケットにはスマートフォン。
画面を見ると圏外の表示。
「圏外……?」
現在地を確認しようとしても、地図は読み込めない。
周囲を見渡すと、洋装の紳士に和服姿の人々が混じって歩いている。頭上には電線があるものの、本数は驚くほど少ない。
街角には「横浜正金銀行」の看板。
修司は思わず息をのんだ。
歴史好きではない。しかし、日本史の教科書で見たことのある名称くらいは知っている。
近くの新聞売りが声を張り上げる。
「本日の新聞! 明治三十三年七月!」
修司は凍りついた。
「明治……三十三年?」
西暦一九〇〇年。
冗談ではない。
テレビ番組の撮影でも、テーマパークでもない。
目の前の空気、人々の表情、馬の匂い、石炭の煙。そのすべてが現実だった。
「タイムスリップ……したのか。」
そう呟いた瞬間、自分でも笑ってしまった。
四十歳にもなって、そんな言葉を口にする日が来るとは思わなかった。
その日の夕方。
修司は現実を受け入れ始めていた。
スマートフォンの電池は残り四十七パーセント。
充電する方法はない。
検索もできない。
未来の知識は、自分の記憶だけが頼りだった。
営業という仕事柄、専門知識だけではなく、経済ニュースや世界情勢にも目を通してきた。
半導体市場。
自動車産業。
品質管理。
生産方式。
為替。
物流。
「全部覚えているわけじゃない。でも……。」
未来に何が起きるかは知っている。
日露戦争。
第一次世界大戦。
世界恐慌。
そして、太平洋を挟んだ大国との決定的な対立。
歴史は変えられるのだろうか。
修司は首を振った。
「いや、そんな大それたことじゃない。」
まずは、生き残ることだ。
翌日。
英語が多少話せることを頼りに、外国人居留地を歩き回る。
営業として海外企業との打ち合わせを何度も経験してきた。
流暢ではない。
しかし、意思疎通には困らない。
それだけでも、この時代では十分な武器だった。
ある貿易商社の事務所で声を掛けられる。
「君、日本人かね?」
「はい。」
「英語はできるのか?」
「日常会話程度なら。」
相手は驚いた顔をした。
当時、英語を使いこなせる日本人は決して多くない。
簡単な通訳を頼まれた修司は、商談の席に同席することになる。
輸入機械の価格交渉。
納期。
支払い条件。
聞き慣れた単語ばかりだった。
営業として二十年近く積み重ねた経験が、そのまま通用する。
交渉後、商社の支配人が言った。
「君、働く気はあるか?」
修司は即答した。
「あります。」
働き始めて一週間。
修司は違和感を覚え続けていた。
帳簿は手書き。
在庫は担当者の記憶。
納期管理は経験頼み。
担当が休めば誰も分からない。
「これじゃ、ミスが起きる。」
営業時代、修司は何度も見てきた。
情報共有ができない会社は、大きくなれない。
ある日、支配人へ提案する。
「商品ごとに番号を付けませんか。」
「番号?」
「帳簿も同じ番号で管理します。誰でも確認できます。」
支配人は首をかしげる。
「面倒ではないか?」
「最初だけです。あとで必ず楽になります。」
半信半疑で始めた管理表。
一か月後には、商品の紛失が激減した。
納期遅れも減る。
「あの若い……いや、若くはないが、新入りは変わっている。」
社内でそんな噂が広まる。
さらに修司は営業方法も変え始めた。
これまでは商品を並べるだけだった。
彼は顧客へ質問する。
「何に困っていますか。」
「どのような用途ですか。」
「一年後には、どれくらい必要になりますか。」
現代では当たり前の提案営業。
しかし、この時代では珍しかった。
顧客は驚く。
「売ることより、話を聞くのか。」
結果として、取引は増えた。
必要なものだけを勧める。
無理に売らない。
信頼が積み重なる。
修司は知っていた。
営業とは商品ではない。
信用を積み重ねる仕事なのだ。
半年後。
商社の利益は前年を大きく上回った。
理由を分析した支配人は首をひねる。
「特別な商品は増えていない。」
「人も増えていない。」
「なのに利益だけ増えている。」
修司は静かに答える。
「無駄が減っただけです。」
支配人は笑った。
「君は商人ではないな。」
「え?」
「経営者の考え方をしている。」
その言葉に、修司自身が驚いた。
未来では当たり前だった。
数字を見ること。
在庫を減らすこと。
品質を一定にすること。
情報を共有すること。
それだけで、この時代では革新的だったのである。
その夜。
港を見渡せる丘に立つ。
横浜港には世界各国の船が停泊していた。
「あの向こうに、二十一世紀がある。」
帰れる保証はない。
家族にも会えない。
会社もない。
それでも、不思議と絶望はなかった。
営業として全国を飛び回り、多くの工場を見てきた。
半導体メーカーで培った知識は、この時代では未来の断片そのものだ。
だが、知識だけでは歴史は動かない。
人を動かさなければならない。
信頼を得なければならない。
その積み重ねの先にしか未来は変わらない。
修司は静かに拳を握る。
「日本を変えるなんて、大きなことは言わない。」
「まずは、この会社を変えよう。」
その小さな決意が、やがて国家の運命を少しずつ動かしていくことを、この時の彼はまだ知らなかった。




