リリアナの時は巻き戻る
「――っ!」
目が覚めた。
私は……生きている?
「夢……だったの?」
私はゆっくりと周囲を見回した。
見慣れた、けれど随分と前に見なくなった木目のある天井。壁は剥がれかけた白い漆喰。隅には黒いカビが生えている。破けた薄い布で出来たカーテンがかかった小さな窓からは朝日が差し込み、埃が光の中で舞っている。
私が寝ていた木製の簡素なベッド。薄い毛布。継ぎ接ぎだらけのシーツ。
壁際には古びた木製の箪笥が一つ。その上には欠けた陶器の水差しと洗面器。
そして……、
「……母様?」
部屋の隅、壊れかけた椅子の上で……私が破滅させた、させてしまった大切な母様が眠っていた。
痩せた頬。疲れ切った表情。安物の木綿のドレスは色褪せ、袖口がほつれている。しかしその美貌は娘の私が見ても一切衰えておらず、むしろこの空間ではその魅力が際立っている。
一体何が起こったのかしら……?
母様は公爵家に迎え入れられてから、あんな粗末な服とは無縁だった筈。母様は今と未来を見据える方が建設的だ、と考える人だったから、過去を懐かしんでこの格好をしているなんて有り得ない。
そして何より……母様はあの処刑の時、私と一緒に裁かれる立場だったじゃないの。私が何もかも悪かったのに私に罵声の一つも浴びせず、ただ娘の罰を幾分か背負おうとしていたのに。
「ここは……どこ?」
部屋を改めて見回す。
この部屋には見覚えがあった。薄れかけていた遠い記憶を何とか思い出す。
私がまだ幼かった頃、母様と二人で暮らしていた貧民街の長屋の一室……じゃないかしら? 部屋が区切られていなくて狭かったけれど、二人で慎ましく住むには充分な空間だったって記憶している。
両断されたはずの自分の首元をおもむろに触る。ある。首がある。ちゃんとty名がってる。それどころか切断された跡すらない。
むしろ、違和感はそっちじゃなくて……首の太さと手の大きさね。細いし、小さい。身体が縮んだ……いえ、幼くなった?
まさか。
まさか、そんな。
私は慌てて毛布を跳ね除け、床に降り立った。裸足の足裏に冷たい木の床の感触。窓辺に駆け寄り、所々破れた布のカーテンを開けて外を覗く。
入り組んだ狭い路地。向かいの建物との距離は手を伸ばせば届きそうなほど近い。下を見れば、もう人々が行き交っている。魚売りの掛け声。物乞いの老人。路地で元気に遊ぶ子供たち。
そして、通りの向こうには……王都の大聖堂の尖塔が見える。
「まさか、本当に……戻ってきたの?」
信じられない。でも、これは現実だ。頬をつねってのちゃんと痛いもの。
私は鏡を探す。箪笥の引き出しを開けると、小さな手鏡を引っ張り出す。使い古して曇った銀の鏡面に、見慣れない……正確には久しく見ていなかった顔が映った。
幼い。
丸みを帯びた頬。大きな瞳。処刑台で最期を迎えた私、やつれて絶望に彩られた顔ではない。煌びやかな貴族社会に染まっていない、貧しいながら日々を懸命に生きる、元気な少女の顔だ。
そして……紫水晶色の瞳。
魅了の異能を宿した、呪われた瞳。
それが鏡の向こうにいる私自身をも魅了せんばかりに輝いている。
間違いない。
私は過去に戻ってきている。
貴族の娘として迎えられる前の、母様と一緒に二人で暮らしていた頃に。
「もしかして、やり直し……できるの?」
口から出た声は震えている。
もう一度、人生をやり直せる。あの愚かな過ちを繰り返さずに済む。
でも同時に、恐怖が込み上げてくる。
私は知っている。この瞳がどれほど恐ろしいものか、を。
どれだけの人を狂わせ、どれだけの人生を破壊したことか。
私が命で償った後、魅了した人たちはどうなったことか。
(落ち着け……。一旦整理しましょう)
私はこの王国の公爵家の当主たる父、それから没落して平民になった母様との禁断の愛で生まれた私生児だ。
父……いえ、公爵様は公爵夫人が亡くなってからすぐに、私たち母娘を本当の家族として迎え入れた。公爵様が本当に愛を誓い合った相手は母様で、公爵夫人との婚姻は政略結婚の側面が強い、と公爵様は熱く語っていた。
公爵様と公爵夫人との間にも子がいて、公爵家の後継者は異母姉のセシリアお姉様だ。母様が最愛の女性だったとはいえ、公爵様は公爵夫人との関係も良好だったし、きちんとセシリアお姉様を愛していた。公爵様は私にもセシリアお姉様を敬うようにと言っていたっけ。
まあ、私が魅了の異能で公爵家全体を虜にしてしまったことで、全てが狂ってしまったのだけれど。
セシリアお姉様はさぞ居心地が悪かったことでしょう。どうしてか効き目が無かったものだから、公爵様にお願いしたり使用人に命じて虐げようともしたし。
結局、私はやりすぎてしまい、魔女であることを疑われた。異端審問にかけられて、魔女に認定されて、処刑された。あの末路は罪を犯し続けた私に相応しい罰だった、と受け入れている。
「絶対に……絶対に、もう二度と」
あんな過ちは繰り返さない。
小さくなった拳を強く握りしめる。
「魅了の魔女になんて、ならない」
背後で物音がした。振り返ると、母様が目を覚ましていた。
「リリアナ? どうしたの、そんな朝早くから」
母様の声は……あまりにも優しかった。まだ私に本当の愛を注いでくれていた頃の声。異能に支配される前の、本当の母の声だ。
あまりにも懐かしくて、自然と涙があふれ出てしまう。
いけない。母様に変に思われたら困る。心配もさせたくない。
でも……今の私は幼い子供だから、理性より感情が勝ってしまう。
「母様……!」
駆け寄って、母の胸に飛び込んだ。
「リリアナ?」
母が困惑した様子で私を温かく抱きしめてくれて、私の背中を撫でる。
「どうしたの? 悪い夢でも見たの?」
悪い夢。そう、あれは悪夢と言ってしまいたかった。でもそれは、私自身が作り出した否定してはいけない現実でもあった。罪に背を向けるつもりはないし、過去に戻ったからって私がやった罪が清算出来たとは思ってない。
「ごめんなさい、母様。ごめんなさい……!」
「まあ、どうして謝るの? 何も悪いことなんてしていないじゃない」
ええ、私は何も悪いことをしていない。……今は、まだ。
でも、このまま進めば私は間違いなく同じ道を辿る。私自身が魅了に取りつかれ、周囲を自分の意のままに操って、そして断頭台で最期を迎えることになる。
「母様、今日って何日だったっけ?」
「ええっと、そうねぇ。確か……」
母様は棚に置かれた回転式の卓上カレンダーの日付を一つ進めた。そして母様に読み上げられた日付がいつだったかを思い返し……愕然となる。
(今日ってまさか、公爵邸からの迎えが来る日……!?)
まずい。このまま公爵家の一員になったら前回と同じ道を辿ることになる。かと言って、今更逃げ出したり隠れたところで公爵家の追跡から逃れられやしない。
考えろ、私。
公爵家の娘になってから大人しくする……いや、駄目だ。私の異能は私の意思とは関係なく周囲に影響を及ぼす。自覚があるか無いかの差だけじゃあ運命を変えるなんて出来やしない。
修道院や教会に駆け込んで真実を告白する……魔女として断罪されるのが目に見えている。一生幽閉されるだけならまだ良い方で、下手したら異能を持っているだけで大罪扱いになり、処刑される可能性だってある。
そもそもこんな異能なんて最初から使えなくなってしまえばいいのに。ヴィクトール様に捕らえられた時、他の異端審問官とか裁判官が魅了されないように、異能を封じ込められた。その時と同じようになれないかしら?
(あの時は確か……ヴィクトール様が秘術を使った、とか異端審問官が言ってたような……)
それが本当なら、私の異能はヴィクトール様だけが封じられるってことになる。どうやってヴィクトール様に私の異能を封じてもらおうか。いえ、そもそも会う手段だってありやしない。
(……いえ、迷っている時間なんてないわね。駄目で元々よ)
私は母様の目を見つめた。ただし、異能を使わないように注意して。視線を少しだけ逸らしつつ。
「母様。朝食食べたらちょっと出かけてくるね。夕食までには戻るから」
「一人で?」
母様が心配そうな顔をする。
「危ない所、人がいない所には行っちゃだめよ。それから外が暗くなる前に帰ってくるのよ」
「ありがとう、母様。約束する」
私は母様に微笑みかけた。
少しでも安心させないためだけど、母様ったら鋭いから、きっとこんなごまかしは通じてないんだろうなぁ。
それでも、母様には何も心配をかけたくない。異能、処刑、運命、何もかも。
そのためにも私一人で、今のうちに全てを解決しよう。
そして今度こそ、母様と一緒に幸せになる。
そう。今日は運命の日。エルフリート公爵が、愛人である母と、その娘である私を屋敷に迎え入れる日。
公爵の正妻……セシリアお姉様の母君は三日前に病で亡くなった。喪が明けるのを待たずして、公爵は母様を後妻として迎える手はずを整えている。
公爵と母様は相思相愛だけど、母様は公爵夫人に悪いからと、ここで慎ましく生活している。
まだ母様は公爵夫人が天に召されたことを知らない。そして、まさか自分が後釜に座るだなんて夢にも見ていないはずだ。
やり直し前の私は、何の疑問も持たずに公爵家に入った。いや、むしろ喜んで入った。貧しい暮らしから解放され、温かくて美味しい食事、着心地が良くて鮮やかな色のドレス、煌びやかに輝く宝飾が待っていて、ため息が出るほど豪華な屋敷で贅沢な生活ができると、心から楽しみにしていた。
(でも……今は違う)
公爵家の一員になることは避けられない。
だったら、そこまでは受け入れるとして、そこから先を変えなきゃ。
そのためにも、公爵家に入る前に、全ての元凶を消し去らなきゃいけない。
母様には内緒でシュタイナー侯爵の屋敷に向かえば……きっと何とかなる。
私は再び窓の外を見た。王都の街並み。石造りの建物。行き交う人々。そして遠くに見える、シュタイナー侯爵家の屋敷の尖塔。
あそこに、私を処刑した方がいる。
いや、正確には「処刑することになる方」がいる。
ヴィクトール・シュタイナー侯爵。代々異端審問官を務める名家の当主。魔女の異能を封印できる唯一の一族。
魔女として捕らわれた私にとっては絶望の象徴。
そして、今となっては私の唯一の希望だ。
母様には言えない。この瞳のことも、異能のことも、そしていずれ処刑されることになるとも。
もし母様が異能のことを知ったら、きっと心配して、私を守ろうとするだろう。
でもそれは、やり直し前と同じ道を辿ることになる。
母様をまた巻き込みたくなんて……ない。
だから……私一人で行く。
私は小さく微笑んだ。
これが、私の二度目の人生の始まり。
今度こそ、魅了の魔女にならずに生きていく。
今度こそ、母様には幸せになってもらう。
そして……そのためにも、あの冷徹な異端審問官に、この呪われた異能を封じてもらおう。
それはまだ、淡い希望に過ぎない。
でも、断頭台で首を刎ねられるよりは、ずっとましな未来のはずだ。
窓の外で、教会の鐘が時を告げる音が響いた。
新しい一日の始まりを告げる、清らかな音色。
「……よしっ」
私は深く息を吸い込み、決意を新たにした。
今度こそ、正しく生きよう。
今度こそ、誰も傷つけずに生きよう。
そして今度は幸せになろう。
断頭台の冷たい石の感触は、まだ頬に残っている。あの恐怖を、二度と味わうわけにはいかない。味わいたくもない。
私、リリアナ・エルフリート……いえ、ただのリリアナは、この日、この瞬間から、新しい人生を歩み始める。
魅了の魔女としてではなく、一人の少女として。
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