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いただきます

作者: 紅葉 葵
掲載日:2026/02/01

「いただきます。」


新聞の文字から顔を上げると、目の前に、両手を胸の前で合わせる妻の姿があった。


「…毎回よく飽きないな、その合掌。」


「いいじゃないですか。あなたが作ってくれたんですし。」


彼女は小さく笑い、手元の箸先をぴたりと整える。その何気ない動作が、いつもの朝を呼び戻した。


ゆっくりと食事を口に運ぶその仕草を、俺はしばらく黙って見つめていた。


「…まあ、いい。それより、あれ取ってくれ。」


彼女は、薬の瓶を差し出した。白いラベルの角は少し捲れていて、マジックで「食後」と走り書きがある。蓋の溝は指に馴染むほど擦り減っていた。


「…また、眠れないんですか?」


瓶を傾けると、いくつもの薬がぶつかり合い、からからと乾いた音を立てた。


「違う。」


「じゃあ?」


少し間を置いて、言葉を選ぶ。


「…悪い夢を、見るんだ。」


「…どんな?」


彼女が席を立ち、俺の顔を覗き込む。瞳に、遠い目をした自分の影が揺れていた。


声が、震えそうになる。


「こんな…」


息を整え、まっすぐ彼女を見据えた。







「こんな風に…お前が、俺の隣にいる、夢。」


部屋の空気が重く沈む。妻は、寂しそうな笑みを浮かべていた。思わず、目が潤んだ。





──


線香の匂いが、鼻に突き刺さる。目を開けると仏壇が視界いっぱいに広がった。妻のための、それだ。


黒縁の額に閉じ込められた彼女。

ダブルベッドの広さを知ったのは、いつだったろう。


呼吸が詰まる。身体を起こし、戸棚に向かう。薬の瓶を手にした。かつて、彼女がそうしていたように。指先に冷たいガラスの感触が残る。


皿に散った錠剤。ひとつ、またひとつと、指で軽く触れながら、その存在の重さを確かめる。錠剤もまた、温もりを拒むように冷たかった。


席に着き、箸に触れる。

しかし、すぐにそっと離した。


箸先が、卓を打つ。

時計の針が、微かに動いた。


目を伏せ、語りかけるように囁く。


「…また、一緒に食べよう。」


錠剤の白が、静かに滲んでいく。


そっと、両手を合わせた。


「いただきます。」


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