いただきます
「いただきます。」
新聞の文字から顔を上げると、目の前に、両手を胸の前で合わせる妻の姿があった。
「…毎回よく飽きないな、その合掌。」
「いいじゃないですか。あなたが作ってくれたんですし。」
彼女は小さく笑い、手元の箸先をぴたりと整える。その何気ない動作が、いつもの朝を呼び戻した。
ゆっくりと食事を口に運ぶその仕草を、俺はしばらく黙って見つめていた。
「…まあ、いい。それより、あれ取ってくれ。」
彼女は、薬の瓶を差し出した。白いラベルの角は少し捲れていて、マジックで「食後」と走り書きがある。蓋の溝は指に馴染むほど擦り減っていた。
「…また、眠れないんですか?」
瓶を傾けると、いくつもの薬がぶつかり合い、からからと乾いた音を立てた。
「違う。」
「じゃあ?」
少し間を置いて、言葉を選ぶ。
「…悪い夢を、見るんだ。」
「…どんな?」
彼女が席を立ち、俺の顔を覗き込む。瞳に、遠い目をした自分の影が揺れていた。
声が、震えそうになる。
「こんな…」
息を整え、まっすぐ彼女を見据えた。
「こんな風に…お前が、俺の隣にいる、夢。」
部屋の空気が重く沈む。妻は、寂しそうな笑みを浮かべていた。思わず、目が潤んだ。
──
線香の匂いが、鼻に突き刺さる。目を開けると仏壇が視界いっぱいに広がった。妻のための、それだ。
黒縁の額に閉じ込められた彼女。
ダブルベッドの広さを知ったのは、いつだったろう。
呼吸が詰まる。身体を起こし、戸棚に向かう。薬の瓶を手にした。かつて、彼女がそうしていたように。指先に冷たいガラスの感触が残る。
皿に散った錠剤。ひとつ、またひとつと、指で軽く触れながら、その存在の重さを確かめる。錠剤もまた、温もりを拒むように冷たかった。
席に着き、箸に触れる。
しかし、すぐにそっと離した。
箸先が、卓を打つ。
時計の針が、微かに動いた。
目を伏せ、語りかけるように囁く。
「…また、一緒に食べよう。」
錠剤の白が、静かに滲んでいく。
そっと、両手を合わせた。
「いただきます。」




