4.酒
あたたかな夜風が、通りを歩く梓娟の頬を優しく擽る。
三人が向かったのは『灯華』という大きな街だった。繁華街として有名な街のようで人通りも多い。
建物の間には数多の灯籠が吊るされており、街全てが赤や橙に明明と輝いてとても綺麗だ。
通り沿いに構えたお店からは美味しそうな匂いと酒の匂いが漂い、街にいる人々は陽気に満ちている。
「とりあえず買ってはみたものの、蒼眞佳はまだ起きているかしら?」
右手に持つ酒瓶を見つめ呟く声も、周囲の賑わう声に掻き消される程だ。
「本当に、賑やかな街ねぇ」
梓娟はこんなにも人の多い街にどこか既視感を覚えた。
幼き頃は父母と旅をしていた。その時に訪れた街に似ている気がする。
──あれはどこの街だったかしら?
首を捻りながら記憶を手繰り寄せる。
確か……と思い出そうとしても幼き頃の記憶は曖昧で、街の名前は覚えていない。ただ丁度祭りがあるとかで多くの人で賑わっていた。
──花びらが、降っていたような気がする……?
それがとても綺麗だった事だけは微かに思えている。
―――――――――
「…⋯え?」
何かに優しく腕を引かれたような感覚に体がふらつく。その直後、梓娟のいた所を肩を組む男二人組が通り過ぎて行った。
男たちはかなりの千鳥足で、ろくに前も見えてないようだ。あのまま突っ立っていたら梓娟はぶつかられていだだろう。
──こ、大通りは呑気に考え事をしている場所じゃないわね。
危なかったと息を吐いたとき、手を繋いで歩く父娘の姿が目に入った。
楽しそうに話すほのぼのとした光景だ。父娘を見つめていると思い出が少しずつ蘇ってきて胸に手を当てる。
片方の手で父と手を繋ぎ、もう片方の手でお土産に買った絵を握りしめ、帰りを待つ母の下へ急いで歩いていた。
人混みではぐれないように握りしめた父の手は、少しひんやりとしていて、けれども大きくて、優しかった。
──……懐かしいわね……。
梓娟は懐かしさにくすりと笑う。その笑みはどこか寂しさがあった。
梓娟が足を止めたのは街で一番大きな宿の前。建物の壮観から豪華さがはっきりと分かる。そうそう泊まる事の出来ない高級宿だ。
──まぁ、蒼家は五門家の一つ。次代の当主ってなればそこら辺の安い宿には泊められないわよね。
苦笑しながら宿の中へと入る。
階段を上がり、向かったのは自分が一夜を過ごす部屋……ではなく、その先にある眞佳の部屋だった。
そしてその手前の部屋には、結局一緒に残った蒼晏が泊まっている。
彼はとても地獄耳だと龍東万雷の祓氏達の間で有名だ。修練場で言った小言を、降龍館にいた彼が何故か知っていた事があったとか。
──噂は怪しいけれど、用心に越したことはないわね。
蒼晏に気づかれぬよう、音を立てないように部屋の前を通り過ぎ、眞佳の扉の前へと辿り着く。
いざ声をかけようとすれば心が揺らぎ始めたものの、覚悟を決めてすっと息を吸う。
今まさに部屋主の名を呼ぼうとした瞬間、口を「か」と形取った所で、急に扉が開いた。
「こんな時刻にどうかしたかい?」
扉の向こう側には菩薩が立っていた。
梓娟はまだ声を発する前だった。床音を立てぬように慎重に廊下を歩いていたにも関わらずだ。
その微笑みはまるで端から梓娟がここに来るのを知っていたかのように見えた。
「どうし──!?」
思わず声を上げようとする梓娟に、眞佳は口元に人差し指を当て、しっと制する。
「こんな時刻に声を上げるのは良くない。さぁこちらに」
その仕草すら美しさを感じ、不意打ちにもときめいてしまう。
──……一々様になるわね。
梓娟は小さく頷くと、誘われるままに部屋の中へと入る。
一歩足を踏み入れた時、微かに風を感じたような気がして、梓娟は小さく首を傾げた。
「それで私に用とは?」
「えっと、その、慣れない所で眠れないので、あの……一緒に飲んでくれませんか?」
顔を俯かせやや上目遣いで、可愛らしい女を演じる。色仕掛けなどやったことも無い梓娟にはそれが精一杯だった。
思い付いた策は『酒の力を借りて兎に角無理矢理良い雰囲気を作る』というもので、その為にわざわざ少し値の張る酒を街で買ってきたのだ。
──そういえば蒼眞佳ってお酒は飲めるのかしら?今思うと飲むようにも全然見えないわ。
聞いた話では眞佳は山狩りの後の夜宴にも参加していないようだった。
改めて思うと酒を嗜む印象がなく、誘ってから失敗するのではないかと不安に駆られたが、「杯を二つ用意する」と返ってきてほっと胸を撫で下ろす。
『何とか相手を乗せてどんどん酒を飲ませる』
梓娟が考えた二つ目の策だ。
あまりにも雑な策だと自覚があった。しかし梓娟に注がれる度に眞佳は次々と杯を空にしていった。
乗せられているようには思えなかったが、眞佳は意外と女の誘いを断れない性分なのだと察した。
──伯父上がこれまで送ってきた女は好みではなかったんだわ。蒼眞佳はきっと淑やかではない女が好みなのよ!
でなければ淑やかな女たちが玉砕する訳はない。淑やかな女は蒼家で見飽きているのだと、梓娟は推測する。
ただ一つ、誤算だったのは蒼眞佳の酔う気配が全く無いことだ。いつになったら酔うのかと、梓娟はげんなりとしていた。
「はは……眞佳様はお酒にお強いんですね」
「どうだろう?これまであまり口にした事はなかったから自分でも分からない」
──え、飲んだ事がないのに誘いに乗ったの!?
梓娟の驚く表情が面白いのか、眞佳は小さく笑みを零した。
「酒をあまり好ましく思えなかったが、今は美味しく感じる。君が注いでくれるからだろうか?」
「ま、またまた~」
それは酒宴で酔っ払い爺が言うような言葉だった。
眞佳の予想外の軽口に梓娟は笑いながらも内心驚いていた。
──もしかすると表情に出てないけど、実は酔っていたりする?
そんな疑いの目を向けると目が合ってしまう。ぱちくりと瞬く梓娟に眞佳はふっと微笑んだ。
──なっな、なっ……!
美しい微笑にどきどきと胸が高鳴り、それを誤魔化すように杯の酒を煽った。
ぷはっと豪快に息を吐くとくらりと頭が揺れた。
額に手を当てれば手のひらから顔の熱さが伝わって、どうやら自分の方が酔ってしまっていたようだ。
梓娟は内側から込み上げる熱さに「はぁ……」と熱のこもった息を吐く。
「……延芳、深酒は良くない。部屋に帰りなさい」
先ほどとは違う低くなった声。急に突き放すような言葉に梓娟は焦り出した。
「も、もう少しここにいては駄目ですか?眞佳様と一緒にいたいんです!」
「……どうして?」
──どうしてって、こういう時なんて言うんだっけ?何か良い言葉は……。
酔いが回ってうまく頭が働かない。それでも何とか記憶を呼び覚まし、黒家の使用人たちの間で流行っていた恋愛小説の存在を思い出す。
その小説の中に、今と状況が似た場面があった気がして、「それは……」と言葉を濁しながら必死に記憶を巡らせた。そうしてとある台詞を思い出した。
「わ、私は眞佳様の事を初めてお会いしたあの時からずっとお慕いしているからです!」
頭に浮かんだ言葉を丸々読み上げからはっとする。
──しまった!会ったのはついさっきだわ!
今と状況は似ているものの、小説に出てくる人物とは立場は全く違う。なのにその通りに言ってしまい、背中には冷や汗が湧き出していた。
「それは真か?」
「……え?」
「君も、ずっと同じ気持ちを抱いてくれていたのだな」
眞佳は嬉しそうに微笑み近づいてくる。いつもとは違う、どこかあどけなさを感じさせた。
──……近くで見るとさらに美しいわ。
眞佳に目を奪われているとゆっくりと顔が近づいて、そして二人の唇が重なった。




