11.池泉
梓娟は恐る恐る池の中を覗き込む。怯える情けない表情が、ゆらゆらと穏やかに揺れる水面に映っていた。
──聯明兄様はここを通って帰って行ったのよね?
池の水は清らかに澄んていて、その透明さから水底が見える。いや正確には混沌とした闇が広がっていた。
聯明が言う通り、池底は遥か深くにあるのだと、ぞっと肩が震え上がった。
──やっぱり私には無理だわ!こんなの落ちたら最後!浮かぶことのない底なし池よ!
恐怖から首を左右に激しく振る。水の中に入る事を想像しただけで全身の肌がぞわぞわと逆立っていた。
「先程から何をしてますの?」
「ぁ、月桂様」
一人挙動の可笑しい梓娟を、お上品に佇む月桂が不審な目で見つめていた。
月桂は部屋を訪ねて来た。彼女が会いに来たのは部屋の主ではなく眞佳ではなく、その部屋に居座る梓娟だった。
本来部屋の中へと迎え入れる所なのだが、生憎部屋は何処かのずぶ濡れ男に水浸しにされてしまったので、廊下の濡れた場所を避けながら、池泉へと場所を移したのだった。
人払いをして今は梓娟と月桂の二人だけ。何とも気まずい空気が流れていた。
彼女が訪ねて来た理由など一つしかなく、美しくもどこか冷たさを感じさせる女神の微笑に、梓娟はごくりと唾を飲み込んだ。
「こうしてお会いするのは初めてですわね。わたくしの事はご存知かしら?」
「ええ……」
──そりゃもうここ最近、祓氏たちの噂の的でしたから。
「そうでしょう。貴女も龍東万雷の祓氏なのですから。この頃は祓氏をお止めになられたようですが」
──私、除名扱いされていたのね……。
それは眞佳が手を回したのか、それとも他の者がそうしたのか。どちらであっても今となっては都合が良い。
「わたくしは眞佳お兄様の妻となるべくして育てられてきました。許嫁と定められたのは先日ですが、けれども生まれた時から既に決まっていましたの、わたくしがお兄様の妻となる事が」
月桂は梓娟とそう歳は変わらない。梓娟がのびのびと生きてきた間、恐らく月桂は蒼家当主の妻となる為にひたすら己を磨いてきた。
未来の五門家の当主夫人なのだから、途轍もなく厳しく辛い人生であったのだと簡単に理解出来る。
けれど彼女の言葉に胸が痛んだ。
「なのに眞佳お兄様は、嫡流どころか青龍の血の薄い貴女と共になりたいと、お祖父様に訴えた。これがどういう事が分かるかしら?」
──蒼眞佳は老大家に直訴までしていたの?
そこまでやっていたのかと、梓娟は額に手を当てる。
蒼家は先代当主が亡くなってから十数年。その間老大家が絶大な力を持って蒼家を束ねてきた。
その老大家が決めた許嫁を断り他の女と婚姻を結ぶ、それは老大家に逆らったという事になる。
──とことんぶっ飛んた事をするのね、蒼眞佳は。
あはは、と眞佳の行動力に呆れて思わず笑ってしまった。
「何を笑っていますの?」
「あら、ごめんなさい」
梓娟は口を手で覆ったが、その行動すら月桂は不快そうに眉を寄せた。
その表情から笑った事を変に誤解されているようだったが、今はその方が良い。
「延芳、貴女は眞佳お兄様の事どう思っているのかしら?」
月桂の問いに、ぎゅっと手を握りしめる。梓娟が何と答えるかなんて決まっていた。
「……私は、あの方を蒼の若君だと思っていますよ。それはもうとても高貴で、純粋で、騙されやすい人」
梓娟はくすくすと卑しく笑う。
そんな梓娟の態度に月桂の白い顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「それはどういう意味ですの!?貴女は眞佳お兄様の事愛してるのではなくて!?」
「まさか?私が?若君を?顔が良くて、当主の座を約束された高貴な人だから、ちょっと甘い言葉を囁いてみたらころっと騙されて。ふふっ、真に受け過ぎちゃってちょっと困ってた所だわ」
「なんて酷い人!貴女の所為で眞佳お兄様は祓氏五門から好奇の目に晒されてしまっているのに!」
目を吊り上げ声を張り上げる月桂は、折角の美人顔も台無しだ。
──あぁ良かった……。
月桂は眞佳をちゃんと愛しているようだ。
「一刻も早くこの龍颯山から立ち去りなさい」
長い袖を横に揺らし、月桂は想像通りの言葉を告げてくれた。
彼女が此処へ来た時から覚悟していた。だが実際言われてみると少し堪えた。
このまま立ち去るのが眞佳の為である。だから遊びで誑かした悪い女を演じてみせた。
元々延芳という別の女を演じていたのだから、もう一役増えた所で問題はない。
実際蒼眞佳に色仕掛けをするという不純な動機で彼に近づいたのだ。
──もし蒼眞佳が声を拾えているのなら、今のを聞いて私の事嫌いになったわね。これであの菩薩みたいな微笑みを向けられる事はない……。
強く締め付けられるような胸の痛みを誤魔化すように小さく笑う。この上ない完璧な幕引きだっだ。
けれど一つ大きな問題が残っていた。
──どうやって此処から去ろう……。
梓娟は池を横目で見つめる。出口は一つしか無いが、覚悟が決まらなかった。
そして問題がもう一つあった。
「……貴女さえいなければ」
月桂が予想以上に激怒してしまった事だ。
「────え?」
月桂に背中を強く押され、梓娟は池泉へと突き落とされていた。
「────ッ」
激しい水音を立てて落ちた池の中は冷たくく暗い。梓娟の口から零れた息が、大きな気泡を作り上へと上がっていく。
恐怖が体中を包み込み、目を開ける事も出来ずに本能的に必死にもがいていた。
──息がっ……くるしいっ!
地上へと行きたいのに、体はどんどん水底へと沈んで行くのが分かる。
──誰かっ……!
ぼんやりとした視界の中で、ゆらゆらと煌めく遥か遠くの水面へと必死に手を伸ばしても届く事はない。全身の力はどんどん抜けていく。もう手を動かすのもままならない。
過去に川に落ちた時の記憶が重なった。あの時も必死に足掻いていた。
──もう、だめ……、
気力をなくした梓娟の手を、何かが掴んだ。
強く、強く握り締めて上へと引っ張り上げていく。決して離す事のない強い力。
──ぁ……眞、佳…………。
遠くなっていく意識の中で、梓娟は蒼眞佳の名を呼んだ。




