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10.黒衣の男

 黒衣の男が飛び込んで来た所為で、梓娟は盛大に床に倒れ込んだ。

 背中を強く打ち、ずきずきと痛みが走っている。その痛みに自分を組み敷く男をキッと睨み上げた。

 文句の一つも言ってやりたかったが、今も尚、口を塞いでいる大きな手が邪魔だった。

 男の垂れた長い髪から、ぽたりと滴る雫が床に落ちていく。雫が弾けた直後、それが二人を中心に薄く広がり、辺りをみるみる内に侵食して空間を支配した。

 まるで水の膜、その中に二人はいた。


「ふぅ、危なかったな」


 男はようやく声を発しながらゆっくりと立ち上がった。

 未だ長い黒髪や黒衣からは水が滴り、落ちた雫は水の膜に波紋を描いて飲まれていく。

 自由になった梓娟は直ぐ様起き上がった。


「何がよ!痛いじゃない、聯明(れんめい)兄様!」


 突然現れたずぶ濡れ男の名は黒聯明。梓娟の従兄妹だった。

 聯明は怒る梓娟を気にも留めず、顔に張り付く髪を掻き上げる。露わになったのは中々の端正な容姿だった。

 その見た目では黒善爾の息子と信じるのはかなり難しい。しかし聯明は母似で、切れ長の目が特にそっくりだった。

 ちなみに性格は、どちらにも似ていない。

 母に似て若々しく、その為歳は三十手前なのだが、見た目では梓娟とそう変わらないように見えた。

 梓娟は聯明を指差した。


「急に現れて襲いかかって来る方が危ないわよ。それに『水膜(すいまく)』まで張るなんて!」


 水膜とは聯明が水を使って張る結界の事だ。

 とても薄い膜のようなそれは柔らかくも丈夫で、全てを遮断する厄介な結界だ。

 黒家の祓氏は水を使いこの結界を張るが、聯明程の完璧な水膜を作れる者はいない。

 どんなものをも通さない、遮断性に優れた結界をさらりとやってのける聯明は、かなりの強い霊力の持ち主だと証明していた。


「張らなければ声を聞かれてしまう」

「声?」

「お前も知っていると思うが、蒼家は風を使う一族だ。風で結界を張る事も出来れば、風で音を拾う事も出来る。昔の当主は千里先の他家の戯言まで拾っていたと言うから、とんでもなく悪趣味な一族だ」

「声を、拾う?」


 その言葉が梓娟の中で引っかかった。


 ──そういえば此処へと連れてこられたあの日、私は此処から逃げ出そうとしていたわ。もしかしてあの独り言を聞かれて……いやまさか、ね……。


 恐ろしい考えは止め、床に転がった際に乱れた衣を整えながら聯明に問いかけた。


「でも聯明兄様はどうして此処に?」

「父上から聞いた。お前に変な命を下した事を」


 聯明は深いため息を吐いた。

 声色からして呆れ果てているのが伝わってくる。


「全く、父上も梓娟に何て事をさせるんだ。しかも、よりにもよってあの蒼眞佳の元へ行かせるなど!」


 足元では幾つもの波紋を描いていた。聯明の心情の表れだ。

 聯明は良いも悪いも感情の起伏があまりない男だ。それなのに今は肩を震わせ激しく怒っている。こんなにも感情を露わにしていてる事は滅多にない。


「め、珍しいわね、聯明兄様が怒るなんて」

「彼奴は!あの蒼眞佳は!山狩りに乗じて俺を殺そうとしたんだ!」

「まさか、あの菩薩のような蒼眞佳が?」


 その話は初耳で、梓娟は目を丸くする。

 蒼眞佳が誰かに殺意を抱くように思えなければ、聯明相手に、多少は苛立つ事は合っても、殺意を抱くまでの理由が思い当たらなかった。


「俺も初めは気の所為だと思った。突き刺すような視線を向けられた年も、勢い良く剣が飛んできた年も、斬った魔物をそのまま放り投げられた年も!」

「……え?」

「山狩りに熱心になるあまり勢い余った行動なのだと思っていた!」

「……そう思ったの?」

「だが前回の山狩りで!奴の無数の剣風が俺に向かって飛んできた時は確信した。あれは俺を殺そうとしたのだと!」

「…………き、気の所為、じゃないかしら?」


 そう言って梓娟は笑顔を作ったつもりだか、うまく笑えなかった。梓娟ですら心の中では、それはもう気の所為ではないと思ったからだ。

 むしろ途中までそう解釈出来していた聯明の鈍さに驚いてしまった。

 

「あの時そばの湖に潜らなければ胴体が真っ二つになっていた!だから彼奴は駄目だ!俺は、あんな可愛くない義弟は欲しくない!」

「そこなのね兄様は」


 一人っ子の聯明は兄弟に強い憧れを抱いていた。従兄妹の梓娟を妹同然に可愛がるのもそれが理由だ。

 怒りを向ける矛先に、やはり変わった人だと聯明を冷めた目で見つめる。

 聯明はあまりの強さに祓氏の中で『奇才』とも呼ばれているが、奇才の奇には『珍奇』という意味も含まれていた。


「でもどうして義弟なんてぶっ飛んだ話になるの?伯父上の命は婚姻ではないわ」

「何を言ってる、お前は蒼眞佳と内縁関係にあるんだろう?」

「はい!?」

「あの聖人がとうとう女に現を抜かして、果てには御殿にまで連れ込んで夫婦ごっこをしてる、などと祓氏五門の間で最早誰もが知る話だ。父上なぞ昨日から酒宴を開いて高笑いをしているぞ」


 聯明の言葉に梓娟は絶句した。

 まさか話はそこまで大きくなっているとは予想を大きく上回る早い展開だった。


「お前を連れ戻しに此処へ忍び込んで、その相手が梓娟だと知った時は流石に驚いたが……だかそれも終わりだ。父上が言った二週間は過ぎた。もう十分だ。さぁ、今すぐ黒家へ戻ろう」


 聯明は梓娟の手を取ると足早に歩き始めた。

 力があまりにも強く、体が扉の方へと引きずられていく。


「ちょっ、ちょっと待って!辺りには結界が張られているの!此処から出る事なんて出来っこない…………待って、そういえば兄様何処を通って来たの?」

「何処とは今更だな。俺が使う道なぞ一つ」


 聯明は扉を指差した。

 正確には扉の向こう。そこにあるのは池泉で、梓娟の顔が青ざめていく。


「水脈だ。小賢しい風も水の前では無力。水に風の結界など効かない」


 玄武の血を引く黒家の特有の才、それは大地に張り巡る水脈を辿る事。黒家の者は水の中を自由に渡る事が出来た。

 それを『渡脈(とみゃく)』と言う。


「あの泉の底は遥か深くで北南中の水脈へと繋がっている。北方の水脈を辿れば黒家は直ぐだ」

「無理無理無理無理!本当に無理だわ!」

「無理では無い。お前は一度渡脈をしている」

「あれは偶然よ!私は泳げないの!あの時は溺れ死ぬかと思ったんだから!」

「黒家たる者が泳げない筈がない。お前は少し水中に抵抗があるだけだ。これを気に克服すれば良い」

「無理だってば!」

 

 ずっと掴んだままの聯明の手を大きく振り払う。今は聯明の力よりも梓娟の抵抗感が勝っていた。

 ここまで恐怖を感じるのは過去に濁流の中に落ちた経験があるからだった。

 あれはまだ幼き頃、天が荒れ狂う日に梓娟は川に落ちてしまった。

 その時に初めて渡脈する事が出来たのだが、一度死にかけた苦い思い出から、水に入る事に体が受け付けなかった。

 今も池に入ると聞いただけで膝ががたがたと震えていた。

 頑なな奴だと呆れる聯明だったが急に表情が変わる。目を鋭くさせて扉の向こうを窺っているようだった。


「誰か来る」


 聯明は手を前へと出すと水膜がみるみると縮小し始め、手のひらの上で水の球が出来上がっていく。


「俺は先に行くからお前も直ぐに追って来い」

「ま、待って兄様っ!」


 梓娟が手を伸ばした先で、聯明の体は下から這い上がってくる水に包まれて、手のひらの上の水球をぐっと握りつぶすと共に、体がバシャンッと弾けた。

 勢いよく飛び散った水は、扉にまで届いて下の隙間から廊下へと流れてしまっている。

 そして目の前には水浸しになった床があるだけで、聯明は忽然と姿を消してしまった。


 ──行って、しまった。


 話を突然打ち切られ、置いていかれた梓娟が呆然としていると、扉の外から可愛らしい悲鳴が聞こえて来た。


「どうして廊下が濡れていますの!?」


 何処かで聞いた事のある、鈴を転がしたような声に胸が跳ね上がった。

 どうして彼女が部屋の主不在な時刻に此処を訪ねるのかと言えば、何の話かはすぐに察しがつく。

 しかし、


 ──ここでお姫様をお迎えするのは無理そうね……。


 びしょ濡れの床を見渡しながら、嵐のように去って行った従兄妹を少しだけ憎く思った。

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