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9.結界

 梓娟は髪を優しく撫てられる感触を感じ、擽ったさにゆっくりと瞼を開いた。

 そして視界に見えたのは眩しい菩薩の微笑だった。


「あぁ起こしてしまったな。すまない」


 眞佳は額にそっと口づけを落とす。

 

 ──…⋯あぁ、また朝がやってきたのね。


 抱きしめられる腕の中で、梓娟は小さくため息を落とした。



 行ってくると言い残し、眞佳は今朝も朝早くから魔物退治へと向かった。

 一人残された部屋はあまりにも広すぎて、居心地の悪さを感じる程に静まり返っている。

 未だ寝台の中にいた梓娟だったが、意を決すると扉の方へと向かった。

 ここへと連れて来られたあの日から三日が経っていた。

 朝は祓氏として魔物退治へと向かう眞佳を見送り、夜になると戻ってきた眞佳を迎える。まるで妻のような日課だ。


──まさか、蒼眞佳があんな強引な手に出るなんて。


 この部屋へと連れてきたあの夜、強引に契りを交わした。あれは眞佳にとって夫婦としての契りだった。

 本来家から認められなければ婚姻を結ぶ事は出来ない。なので正式な夫婦ではなかった。

 だが眞佳は使用人たちに『永遠を誓った伴侶』というような話をしたようだ。

 廊下から聞こえてきた使用人たちの、そんな噂話を耳にした時、梓娟は強烈な目眩に襲われた。

 はぁ、とついつい重々しいため息も溢れてしまう。

 固く閉ざしていた扉を少しだけ開いて、外の様子を覗き見る。見えるのは四方を囲む廊下と、その中央にある小さな美しい庭と清らかな池泉だ。


 ──よし、今は誰もいない。


 音を立てないように慎重に扉を開くと部屋の外へと出た。

 警戒しながら綺麗に磨かれた廻廊を歩んで行き、角の向こうへと一足を踏み出した、その時だった。

 ふわり……と何処からともなく風が吹いた。

 梓娟は思わず目を瞑った。そして何かを祈るように、ゆっくりと目を開けば、目の前には眞佳の部屋の扉があった。

 先程背後にあった部屋の扉が今は目の前にあり、がっくりと膝から崩れ落ちた。


 ──まだ結界が張られたままだわ……。


 この場所から逃げ出せない。眞佳が結界をかけているのだ。

 その事に気づいたのは一昨日。

 ここの御殿から逃げようと試みたが、そんな梓娟を嘲笑うように風が吹き、気づけば部屋の前へと戻っていた。

 諦めずに幾度となく試してみたが、どう足掻いても廻廊の向こうへ行く事が出来ないのだ。

 使用人たちは変わった様子もなく行き来している所を見ると対象者は限定されているようだ。

 結界を長期間かけるにはそれなりの霊力を消耗する。しかも本来術者もこの場に留まり、霊力を注いでいなければ術は保つ事が出来ないものだ。


 ──翌日になれば少しぐらいは綻びも出来てるかと期待したけれど……術者の蒼眞佳は此処にいないのに、綻び一つない完璧な結界をかけれている。蒼眞佳は一体何者なの!?

 

 度々聞こえてくる使用人たちの話から、何処の馬の骨とも分からない梓娟が歓迎されていないのは明らかだった。

 おまけに御殿の外にいる蒼の祓氏たちにまで『若君が女を囲っている』と伝わってしまっているようだった。

 

 ──こんな関係長続きしないわ。なのにどうしてそこまで私を……?


 梓娟には眞佳がこんなにも一緒になりたがる理由が分からなかった。

 あまりにも強引な行動に戸惑いながら、けれど強く拒絶できない自分がいた。

 私に触れないで、とはっきりと言ってしまえばきっと彼は無理強いしないだろう。彼の優しさは痛い程に身に染みている。

 だが面倒な事に……。


 ──蒼眞佳に触れられるのは、嫌、じゃないのよね……。


 なので面と向かって拒絶を吐き捨てる事が出来なかった。

 梓娟は自覚していた。眞佳への情が芽生えてきている事に。


 ──だからこそ、早く此処を出ないと。


 自分の中でもっと眞佳の存在が大きくなる前に、彼の元から離れたかった。


 ──そろそろ使用人が通る頃ね。


 梓娟は部屋に戻ろうと扉に手を重ねてそっと開く。


 ──でもどうしようかしら?約束の二週間が経ってしまったから、そろそろ黒家に戻らないと煩い人がいるのよねぇ……本当に煩い人が。


 苦笑いをしていると、背後からざぶんっと激しい水音が聞こえてきた。

 後ろにあるのは池泉だ。鯉でも飼っていたのかと振り返る。そこにはずぶ濡れの黒衣の男が池の中で立っていた。


「れ、れ、れっ──」


 男はとんっと軽やかに跳ねると、羽でも生えているかのような一跳で梓娟の元へと辿り着いていた。 

 その勢いのまま素早く伸ばした手で梓娟の口を塞ぐと、部屋の中へと押し込む。

 そして扉は閉ざされた。

 

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