182センチと、モニター越しの距離(前編)
午後イチの会議が終わって、自分の席に戻る。
メールボックスを開くと、さっきの星置さんからのメールが一番上に来ていた。
『件名:操作フロー確認のお願い
御園さん
本日このあと、15時半ごろにそちらの席へお伺いしてもよろしいでしょうか。
通常業務フローを一通り見せていただけると助かります。
システム開発部 星置』
(かっちりしてるなあ……)
社外宛てみたいなちゃんとした文章に、思わず小さく笑ってしまう。
『15時半、問題ありません。よろしくお願いします。
営業企画部 御園』
簡単に返信を送ってから、なんとなく机の上を片づけた。
(……デスクまわり、書類山積みなの、ちょっと恥ずかしいし)
キーボードまわりの紙をまとめてトレイに突っ込み、モニターの横に積んであるスナック菓子も引き出しに隠す。
そうしているうちに、あっという間に時計の針は15時半に近づいていた。
◇
「御園さん、今いいですか」
ちょうど15時半を少し過ぎたころ、島の入口から控えめな声がした。
顔を上げると、星置さんがノートPCを抱えて立っていた。
「大丈夫です。どうぞ」
慌てて立ち上がると、星置さんは軽く会釈してから、私の椅子の後ろに回り込む。
「じゃあ、いつもの日報入力からお願いしてもいいですか。
普段どおりのフローで操作してもらって、途中で“押しづらいところ”“迷うところ”があれば教えてください」
「分かりました」
私はノートPCの画面を新システムのテスト環境に切り替え、よく使う画面を開いた。
その瞬間、背中にすっと影が落ちる。
(近……)
椅子に座った私のすぐうしろで、星置さんがモニターを覗き込んでいる。
視界の端に、黒いスラックスと、まくり上げたワイシャツの袖口が見えた。
猫背ぎみだからか、普段フロアで見かけるときはそこまで大きく見えないけれど、こうやってすぐ後ろに立たれると、やっぱり背が高い。
(思ってたより、ぜんぜん高い……)
椅子に座った私の頭の少し上の位置に、彼の胸あたりが来る感じ。
ちゃんと姿勢を伸ばしたら、きっと180は軽く超えてる。
ほんのりと、柔軟剤っぽい匂いがした。
主張しすぎないのに、近くにいると分かるくらいの、淡い香り。
(やば。変なとこ意識してどうするの私)
自分で自分にツッコミを入れながら、私はマウスを握り直す。
◇
「じゃあ、ここからですね」
「はい。えーと、まずこのボタン押して……」
私は日報の入力画面を開いて、いつもの手順で数字を入れていく。
まだテスト環境だから、実データではない。
でも、指はもう体で覚えているとおりに動いて、ほとんど迷いなく項目を埋めていった。
——はず、だった。
「あっ」
保存しようとして、マウスカーソルが少し滑った。
“保存”ボタンと、そのすぐ横にある“破棄”ボタンの境目あたりで、一瞬カーソルが揺れる。
「ごめんなさい。今のは完全に私のミスです」
とっさにそう言い訳しながら、マウスを戻そうとしたところで、背後から声がした。
「いえ、今の、ちょっと止まってもらっていいですか」
「ここですか?」
「はい。そこ、“保存”と“破棄”が近すぎるんですよね。
今みたいな動きになる人、多そうだなって思ってて」
「……たしかに。さっきも一瞬ヒヤッとしました」
ぽろっと本音が口から漏れる。
星置さんは「ですよね」と小さく笑った。
「ここ、“保存”のほうをもう少し大きくして、“破棄”はワンクッション挟む形に変えます。
“本当に破棄しますか?”の確認ダイアログ出すだけでも、だいぶ事故減るので」
「そんなところまで、変えられるんですか?」
「変えられます。
“押し間違えた人が悪い”っていう設計、あんまり好きじゃなくて。
押し間違えそうなところは、押し間違えにくくするほうが早いので」
さらっと言われて、胸のあたりがふっと軽くなった。
(前のシステムだと、“気をつけてね”で終わりだったのに)
何度「ここ分かりづらいです」って言っても、「マニュアルに追記しておきます」で片づけられてきた場所だ。
“こっちの注意力”じゃなくて、“画面のほう”を直そうとしてくれる人がいる。
それだけのことなのに、なんだか嬉しかった。
◇
「次、集計レポートのほうもお願いしていいですか」
「ええと……ここから、こうですね」
私は慣れた手つきで、別のメニューへ移動する。
途中で、ちょっとだけ階層が深くなっている場所で、またマウスが迷った。
「あれ、ここでしたっけ」
「今のところも、少し戻しておきますね」
星置さんは、背後でカチャカチャとノートPCのキーボードを叩きながら、落ち着いた声で言う。
「“完全に私のミスです”って、現場の人はよく言うんですけど……
そういうところに、だいたい設計の悪さが潜んでるので」
「そういうものなんですか?」
「“注意してれば避けられるミス”って、基本的に避けられないので。
御園さんたちの集中力を責めるより、
“集中力切れてても押し間違えにくいボタン配置”にしたほうが、全体としては安全なんですよ」
言い方は穏やかなのに、中身はやたら現実的で、筋が通っている。
(仕事できる人だな……)
心の中で、素直にそう思った。
一通りのフローを終えたころには、約束していた15分を少し過ぎていた。
「すみません、長くなっちゃいましたね」
「いえ、むしろ助かりました。
実際の動きを見ないと分からないところ、多かったので」
星置さんは、私の少し斜め後ろあたりで、すっと一歩下がる。
さっきまで背中に感じていた気配がふっと遠ざかって、急に周りの空気が冷たくなった気がした。
(なにこれ、変なギャップ……)
近くに立たれているときは、それはそれで落ち着かなくて。
いなくなると、いなくなったで物足りない。
(いやいやいや。なにを求めてるの私)
自分にツッコミを入れながら、私はマウスから手を離した。




