無給パパ活以下にさよならするために、アプリ削除します
スタッフ用のバックヤードの横にある、小さな休憩スペースに通された。
テーブルと椅子が数脚。自販機と、ポットと、マグカップ。
さっきの清掃のおばちゃん——楠さんが、湯気の立つお茶を入れてくれる。
「はい、これ飲んで。落ち着いたらでいいから、どうしたのか話してごらん」
「……ありがとうございます」
少しずつ言葉をひねり出すように、私は今日1日のことを話した。
マッチングアプリで出会ったこと。
1回目のデートでぬいぐるみをもらって、正直少し引いたこと。
でも、条件が良すぎて、「ここで切るのは高望みなのかもしれない」と思ってしまったこと。
2回目のデートで、また夜景のきれいな店に連れて行かれて、
地下鉄の前でいきなりハグされて、
汗とニンニクの匂いがきつくて、
そのままホテルに連れてこられて——
「さっき、部屋でキスされて。
掃除機みたいに思い切り吸いつく“バキュームキス”で、
青髭ざりざりで、リップも全部はがれて、
ここ、真っ赤になっちゃって」
口元をおそるおそる触ると、やっぱりヒリヒリした。
「ほんとは、そこでちゃんと“嫌です”って言えばよかったんですけど、
知り合いにも“高望みするな”って色々言われたばっかりで……」
自分で話しながら、だんだん情けなくなってくる。
「自分で選んでここまで来たのに、
いざとなったら怖くなって逃げ出して。
自分が恥ずかしいというか……」
楠さんは、黙って聞いていた。
相づちも、変な同情も挟まず、ただ最後まで聞いてくれる。
「警察、呼びますか?」
さっきのスタッフさんが、慎重な声で言う。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
(……レイプ、って言ってもいいくらい、つらかった)
でも、口から出てきた言葉は全然違った。
「いえ……自分で選んだことなので、大丈夫です。
いい年して、こんなことで警察沙汰にするのも、恥ずかしいので……」
本音と建前がぐちゃぐちゃになって、声が震える。
本当は、「大丈夫」なんかじゃない。
本当は、「あれはほとんどレイプだ」と言いたい。
でも、言えなかった。
楠さんが、ふうっと小さく息を吐いた。
「自分で選んだからってね、なんでもかんでも“自己責任”ってわけじゃないんだよ」
カップを指でくるくる回しながら、私の顔を見る。
「好きでもない相手に、キモいことされて、
嫌だったって泣いてる時点で、十分つらいんだわ。
そこに“恥ずかしい”まで乗っけて、自分を責める必要はないよ」
その言葉だけで、また涙がにじんだ。
◇
しばらくして、スタッフと一緒に、部屋に残してきた私物を取りに行った。
ドアの前でスタッフがノックする。
「ホテルの者ですが、先ほどのお客様の荷物を受け取りに来ました」
中から、苛立ったような声が返ってきた。
「はあ? さっき逃げたあの女の?
金返せよ。こっちはホテル代も飯代も払ってんだぞ。
こっちには“女にありつく権利がある”んだよ。
おれ弁護士だぞ!いざとなったらお前なんて——」
そこまで聞いて、楠さんがすっと前に出た。
「お兄さん」
さっきまで私に向けていた柔らかい声とは、まったく違うトーン。
「それ以上言うなら、こっちも“それなりのところ”に相談するよ。
女の子を無理やり部屋に連れ込んで、
嫌がってるのにキスして、それを“女にありつく権利”って言っちゃう人間が
どういう評価されるか、弁護士さんなら分かるでしょう?」
ドアの向こうで、短い沈黙があった。
「……チッ。勝手にしろよ」
乱暴にドアが開き、出部さんが荷物を廊下に放り出す。
私のコートとバッグだけが、床に投げ出されていた。
ホテルのスタッフが、それを静かに拾い上げる。
「お客様、こちらで間違いないですね?」
「……はい。ありがとうございます」
視線の端で、出部が私を睨みつけているのが分かった。
でも、もう目を合わせる気にもなれなかった。
「では、お客様はこれでご退館ください」
スタッフのきっぱりした声に、彼は舌打ちをしてドアを閉めた。
◇
バックヤードに戻って、お茶の残りを一口飲む。
さっきより少しだけ、心拍数が落ち着いてきた気がした。
「焦っちゃダメだよ」
楠さんが、ぽつりと言う。
「焦って、“条件だけ”で選んだ相手と結婚したら、
後悔するのはあんた自身だよ。
結婚だけが幸せじゃないし、自分の人生なんだから、
自分を粗末にしちゃダメ」
その言葉に、胸の奥の何かがカチッとはまった気がした。
(私、何やってたんだろう)
(元彼に振られて、
“元彼よりスペックの高い誰かと結婚したら勝ち”って、どこかで思ってた)
(でも、さっきの人と結婚して、“勝ち”って言える自分になりたいかって言われたら——
100%、ノーだ)
パパ活も、風俗も、それを選んでいる人たちは、自分で選んでいる。
自分の中で何かを天秤にかけて、「やる」と決めている。
さっきの私は、何も選んでいなかった。
ただ、「29だから」「クリスマス前だから」「子ども欲しいから」と自分を追い込んで、
好きでもない男に、タダで身体を差し出そうとしていた。
(それ、一番、自分の尊厳、踏みにじってない?)
喉の奥が熱くなって、また涙が出そうになる。
「……ありがとうございます。本当に」
やっとそれだけ言うと、楠さんは「はいはい」と笑った。
「帰って、ちゃんと温かいお風呂入って寝な。
で、明日の朝になっても“やっぱ嫌だった”って思ってたらさ」
人差し指を立てて、にやっとする。
「そんなアプリ、さっさと消しな」
◇
家に帰り着いたのは、日付が変わる少し前だった。
コートも脱がないまま、ベッドに倒れ込む。
スマホの画面には、マッチングアプリのアイコン。
(条件だけで、“キモいかどうか”を誤魔化すの、もうやめよう)
指先で、アイコンを長押しする。
「このアプリを削除しますか?」のポップアップが出る。
一瞬だけ迷ってから、「削除」をタップした。
アイコンが、ホーム画面からすっと消える。
「……さよなら」
誰にともなく呟く。
「好きでもない人とする付き合う婚活なんて、
“パパ活や風俗以下”だ」
声に出してみると、思ったよりもすっきりした。
パパ活だって、風俗だって、私はきっとやらない。
でもそれを選んでる人たちは、自分でそう決めている。
(自分で選んで、お金もらってやってる人の方が、
さっきまでの私よりよっぽど自分を大事にしてる)
(私、自分のこと、安売りしたくない)
だから、やめる。
条件だけで「まあ、いいか」と思い込む婚活も。
「29だから」と自分を妥協品扱いすることも。
◇
翌朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。
メイクをしながら、鏡の中の自分をじっと見る。
口の周りは、まだ少し赤い。
昨夜のバキュームキスの痕が、情けないくらいはっきりと残っている。
「……うん」
いつもより、ほんの少しだけ丁寧に眉を整えた。
ファンデーションで赤みをカバーして、リップを塗り直す。
髪を巻いて、スーツを着て、コートを羽織る。
(どうせなら、“自分で稼いで、自分を大事にしてる女”でいたい)
そうしていたら。
(いつか、本当に“本物”と出会えたとき、恥ずかしくない気がするから)
電車を降りて、会社のビルを見上げる。
朝の光に、ガラス張りの外壁がきらりと光っていた。
「……よし。とりあえず、今日は仕事」
深呼吸をひとつして、ビルの中に足を踏み入れる。
その少し前に、背の高いスーツ姿の男性が、同じビルに入っていくのが視界の端に見えた。
整った後ろ姿。広い背中。まっすぐな脚。
(……わ。スーツ、似合う人だな)
一瞬そう思ったけれど、相手の顔までは見えなかった。
私はそのまま、自分のフロアへ向かうエレベーターに乗り込む。
(マッチングアプリには、“本物”なんてほとんどいなかった)
でも——もしかしたら。
(意外と、近くにいるのかもしれない)
そんな予感が、ほんの少しだけ胸をよぎった。
もちろん、このときの私は、まだ知らない。
このビルのどこかに、「条件」じゃなくて「私」を見てくれる人が、本当にいるってことを。
そして、このあと迎えるクリスマスとお正月が、
29年間でいちばん忙しくて、いちばん甘い年末年始になるってことを。




