42歳弁護士と、バキュームキス地獄
1回目のデートと2回目のデートのあいだに、会社の飲み会があった。
忘年会にはまだ早いけれど、プロジェクトがひと区切りついたということで、部署内+他部署数人の小さな打ち上げ。
そこにいた40代の男性上司・石井さんが、ビールが進むごとにめんどくさいモードになっていった。
「御園は、そろそろ結婚しないのか?」
「はあ……まあ、そのうちに」
「お前なあ。“同じくらいの収入で〜”とか言ってるからダメなんだぞ。女がそんな高望みしてどうする。結婚相談所でもな、30近くなったら年上すすめられるんだよ。世の中そういうもんなんだよ」
(出た、“高望み”論……)
隣で聞いていた同僚が、気まずそうに笑って場を変えようとするが、石井さんの舌は止まらない。
「男だってなあ、“女にありつく権利がある”と思ってんだ」
ジョッキを片手に、やけに楽しそうに続ける。
「男はみんな若い子が好きなの! こぎれいなおばさんより、若いブス! ガハハ!」
「お前くらいの年齢の女は、いい加減、現実見ないと」
(……お前だって私よりずっと年上で、おじさんのくせに)
(そもそも私、石井さんのこと全然ナシなんだけど。
既婚で子どもいるからって、何言ってもいいと思ってない?)
(“若い子が好き”って、じゃああなたは誰からも選ばれない側じゃん、って言ったらキレるんだろうな)
グラスの中のハイボールの氷が、からんと音を立てる。
(早く時間過ぎないかな……)
笑って聞き流しているふりをしながら、心の中でだけ深くため息をついた。
(元彼と8年ダラダラして、結婚はしてもらえなくて。
でも、私だってちゃんと働いてるし、美容だって頑張ってるし。
“同じくらいのレベルの人と結婚したい”って思うの、高望みなのかな)
そう考えたとき、頭の隅に、出部 勉の顔が浮かぶ。
高収入で弁護士。
条件的には、どう考えても「上」。
(……2回目、会ってみるべきなのかな)
私は、少し酔った頭で、そんなことを考えていた。
◇
2回目のデートも、夜景の見えるラウンジレストランだった。
今度は東京タワーが見える場所。
照明は落とし気味で、グラスに注がれた赤ワインが、妙に色っぽく見える。
「ここ、取るの大変だったんですよ。クリスマス近いし」
「そうなんですね。ありがとうございます」
会話の内容は、1回目と同じように、ほとんど出部さんの仕事の話だった。
裁判の武勇伝や、「いかに自分が頼りにされているか」という自慢話。
正直、退屈ではあったけれど、怒鳴られたり、説教されたりするわけではない。
話し方も穏やかで、店の選び方も悪くない。
(……好きか嫌いかで言ったら、“別に好きではない”んだけど)
グラスに残ったワインを揺らしながら、自分でもよく分からない評価をする。
(でも、条件だけ見たら、きっと“当たり”なんだろうな)
夜景とワインで、頭が少しぼんやりしていた。
◇
店を出て、最寄りの地下鉄の入り口へ向かう。
「御園さん、こっちですよ」
「ありがとうございます」
そう言って並んで歩いていたとき、不意に、ぐいっと肩を引き寄せられた。
「っ……!」
驚く間もなく、出部さんの腕が私の背中に回る。
人通りの多い地下鉄の入口前で、がっしりとハグされた形になった。
(え、ちょっと、ここ人多いし——)
抗議の言葉を出そうとした瞬間、鼻をつく匂いがした。
(……ニンニク?)
今日の食事には、そんなに匂いが強いものはなかったはずだ。
もっと、こう……昼に食べたラーメンの残り香、みたいな。
さらに、汗の匂いも混ざっている。
(うわ……)
思わず、背筋がぞわっとした。
(こんな人通りの多いところで、こんな高校生みたいなことして。
いい年して気持ち悪い。
しかもこんなデブで不細工な人とくっついてるところ、
会社の人や知り合いに見られたら、最悪じゃん)
頭の中で、ぐるぐると最悪なイメージが回り始める。
「このあと、近くにホテル取ってるんですよ」
耳元で、出部さんの声がした。
「え……」
「部屋、もうチェックインしてあるんで。
このまま行きましょう。クリスマス前だし」
クリスマス前。
1人で過ごすのは寂しい。
子どもだって、いつか欲しい。
——数日前、上司の石井さんに言われた言葉が、頭の中で蘇る。
『女はなあ、同じくらいの収入なんて高望みしてるから結婚できんのよ』
『男だって“女にありつく権利がある”と思ってんだ』
(……私、高望みなのかな)
(この人と結婚したら、とりあえず“勝ち組主婦”には見えるのかな)
(我慢しなきゃいけないのかな。
もうすぐクリスマスだし、1人はまずいのかな。
子どもだって、いつかは——)
そんな考えが、脳内を一瞬で駆け巡る。
「……分かりました」
気づいたら、そう答えていた。
◇
連れて行かれたのは、駅から少し離れた、大浴場付きのビジネスホテルチェーンだった。
ロビーには、出張らしきサラリーマンや、女子旅っぽいグループがちらほらいる。
「ここ、いいですよ。大浴場もあって」
そう言いながら、出部さんは当然のようにフロントで部屋のカードキーを受け取る。
私は、自分でもよく分からない無表情で横に立っていた。
(ここで帰るって言えばいいだけなのに)
(なんで、何も言えないんだろう)
エレベーターに乗り、部屋のフロアに着く。
カードキーでドアが開く音が、やけに大きく聞こえた。
「とりあえず、座ってくださいよ」
部屋に入った途端、私はベッドの端に座らされた。
コートを脱ぐ暇もないうちに、隣にどっかりと腰を下ろされる。
「やっと、2人きりになれましたね」
そう言って、出部さんの顔が近づいてきた。
さっきの地下鉄前と同じ、ニンニクと汗の混ざった匂い。
ぎょろっとした目。
青く残った髭が、近くで見ると余計に目立つ。
「ん——」
大きく開いた口が、そのまま私の唇に押し当てられた。
(やだやだやだやだやだ)
次の瞬間、ジャリジャリと顎の青髭が口の肌を削る感覚。
「っ……!」
反射的に身体を引いたけれど、後ろにはもうベッドの背があって逃げられない。
唇のリップが、一瞬で全部持っていかれる。
それどころか、口の周りの皮膚が、掃除機みたいに思い切り吸いつかれるバキュームキスでごっそり持っていかれて、ヒリヒリする。
苦しくて、息ができない。
(無理。ほんとに無理)
全身に鳥肌が立った。
「ちょ、ちょっとやめてください、いや・・・!」
「恥ずかしがっちゃってかわいいね。緊張してるね。かわいいね〜」
(嫌って言ってるのに!!)
そう言ってもう一度顔を近づけてこようとした出部さんの腕を、私は思いきり押しのけた。
「ご、ごめんなさい!
ここのホテル、大浴場もあるんでしょ! せっかくだからきれいにしたいので、
ちょっと……お風呂、入ってきます!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
でも、とにかくこの部屋から離れたかった。
私はタオルだけ掴むと、半ば逃げるようにドアへ向かった。
「え、ちょっと、待って——」
声を背中で振り切って、廊下に飛び出す。
ドアが閉まる音を聞いた瞬間、足から力が抜けそうになった。
◇
大浴場のあるフロアに向かうエレベーターに乗り、鏡を見る。真っ赤に腫れた唇、ぼろぼろだ・・・
人気のない廊下に出て、涙がぽろぽろとこぼれ落ちてきた。
(なにやってんの、私)
(好きでもないおじさんと、
こんなバキュームキスされて、髭で顔真っ赤に腫れて。
これからもっと気持ち悪いことされるつもりだったの?)
しゃがみ込んで、顔を両手で覆う。
口の周りがヒリヒリして、触るとさらに熱くなる。
明日、会社にいけるかな、こんな顔で・・・
(パパ活の子たちの方が、よっぽど条件いいじゃん)
頭の中で、妙に冷静な声がする。
(あの子たちは、自分で選んで、“お金もらう前提”で会ってるんだよね。
私は、自分で選んでもないのに、タダで、
キモいおじさんに身体差し出そうとしてたんだ)
そこまで考えた瞬間、吐きそうになった。
「大丈夫ですか?」
廊下の向こうから、誰かの声がした。
顔を上げると、制服姿のホテルスタッフと、清掃用具を持った年配の女性が立っていた。
「す、すみません……大丈夫です……」
反射的にそう答えると、女性の方がゆっくり近づいてくる。
「大丈夫な顔じゃないねえ。
こっち、おいで。誰かに変なことされた?」
その言い方があまりにも自然で、私は泣き顔のまま、こくりと頷いていた。
名札には「楠」と書いてある。
このときの私は、まだ知らない。
この人との出会いが、“無給パパ活以下”の婚活から私を引きずり出してくれるってことを。




