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風の小道と小さな剣  作者: うにまる
第十四章 公爵家の喜び、学園の変化
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第四節 灯る息吹、喜びの連鎖

 十一月に入り、王都(リヴェルナ)の朝は、淡い靄に包まれていた。セトリアナ大河から流れ込む冷たい空気が街路を抜け、石畳をしっとりと濡らしてゆく。大通り沿いの街路樹は、赤や金に染まりはじめた葉を小さく揺らし、通りを行く人々の肩にひとひら、またひとひらと落ちていった。


 その一角、公爵邸(タウンハウス)は、白亜の外壁を秋の陽がやわらかく照らしている。広い玄関ホールを抜けた奥の食堂には、銀器の静かな触れ合う音と、香ばしいパンの香りが満ちていた。


 アルフォンス、リュミエール、シグヴァルド、マリナの四人は仲良く並んで食堂に入ってきた。椅子に腰掛けながら、シグヴァルドが口を開く。


「今日は武術実技だよな。――最近、ちょっと雰囲気が気になるんだけど」


 マリナが席に着きつつ、軽く頷いた。


「そうね。――女子と男子の温度差は前からあったけど」


 そう言って、ちらりとアルフォンスに視線を送る。


 すでに配膳された朝食に手を伸ばしているアルフォンスとリュミエール。アルフォンスはスープをひと口すすってから答えた。


「んー……確かに温度差は、あまりよくない感じになってきてる。前の騒ぎで、男子のやる気が悪い方向に作用してるのは確かだな」


 リュミエールはパンをちぎりながら、静かに問いかける。


「手を打つ?」

「多分、今日もいつも通りだろうし――武術担当の教師に声をかけてみるよ」


 食事を終えると、それぞれが登校の支度を整え、馬車へと乗り込む。秋の冷たい空気の中、車輪の音を響かせながら、王立学園へと向かっていった――。


 王立学園に向かう馬車とは別に、マティルダ公爵夫人のための馬車の支度が進められていた。準備が整うまでの間、マティルダ公爵夫人とティアーヌは、侍女たちが身支度を整えるのを待ちながら、向かい合って腰掛けていた。


「今日はジークも休みを取って自宅にいる手筈よ。今回の診察で、妊娠かどうか判断できるのよね?」


「ええ。今日の段階で確認できれば、その後の動き方も決まるわ」


「マリエッタ、ずっと悩んでいたから……妊娠だといいのだけれど」


 マティルダ公爵夫人の声音には、母としての優しさと、淡い期待が滲んでいた。やがて支度が整うと、二人は馬車に乗り、ジークハルト邸へ向かった。


 この日、ジークハルト邸はいつもより慌ただしかった。


 マリエッタに妊娠の兆しが見られ、ティアーヌが追加検査を行うことになったためだ。母の勧めもあり、ジークハルトも仕事を休んでいた。もっとも、侍女たちが優秀なため、彼が直接指揮を執る場面は少ない。それでも、落ち着かない様子で家中を行き来していた。


 ほどなくして馬車が到着し、母とティアーヌをラウンジに迎え入れる。マティルダ公爵夫人はまっすぐ息子を見据えて告げた。


「ジーク、まだ確定ではないけれど、マリエッタに妊娠の兆候があるわ。今日はティアーヌに検査してもらって、はっきりさせましょう。それでいいわね?」


 ジークハルトは真剣な面持ちで頷き、ティアーヌに向き直る。


「ティアーヌさん、今日はよろしくお願いします」


「検査は長くかかりません。調薬師として何人も診ていますし、自分自身の経験もあります。任せてください」


 二人はそのままマリエッタの寝室へ向かい、ジークハルトはひとりラウンジに残された。深く腰掛けても、どうにも落ち着かない。彼は窓の外をぼんやりと見つめる。


 マリエッタと出会ったのは、学生最後の卒業パーティだった――。


 当時一年生だった彼女が、伯爵家の子息にしつこく絡まれていた。気がつけば仲裁に入り、激昂した相手に詰め寄られたが、結局その子息は非常識さを家族によって糾弾された。


 その後、宰相府で忙しく働きながらも婚約を交わし交流を続け、卒業と同時に婚姻を結んだ。


 それから五年――。

 子どもができず、彼女が悩んでいることはわかっていた。けれど、何と声をかければよいのかもわからず、母に助けられることが多かった。


 ラウンジの扉が静かに開く――。


 次の瞬間、目に飛び込んできたのは、泣きじゃくるマリエッタの姿だった。考えるより先に身体が動き、駆け寄って抱きしめる。


「マリエッタ――私は君が愛おしい。たとえ子ができなくても、君と夫婦でいることが私の喜びなんだ!」


 勢いで口にしたその言葉に、マティルダ公爵夫人はにやりと笑い、ティアーヌは少し気まずそうに視線を逸らす。


 そして、マリエッタが真っ赤な顔で告げた。


「ジーク様、妊娠していました。私たちの赤ちゃんが――」


 再び彼の胸に顔を埋め、声を詰まらせる。


 マティルダ公爵夫人とティアーヌはそっと視線を交わし、二人を残してラウンジを後にした。


 帰りの馬車の中――。


 マティルダ公爵夫人は涙をこぼしながら、何度も「よかった……おめでとう、マリエッタ」と繰り返した。ティアーヌはその背を静かに撫で、微笑む。


「今まで、よく頑張ってきたね」


 マティルダ公爵夫人の情の厚さに触れ、ティアーヌは改めて思う――やはり、この人は素敵だ。やがてマティルダ公爵夫人が少し落ち着くと、ティアーヌはいたずらっぽく口を開いた。


「マティルダ、これからは違う戦いよ――幸せを、この手で可愛い孫を抱くための戦い。頑張りましょう!」


 マティルダ公爵夫人は一瞬きょとんとしたあと、ふっと笑みを広げる。


「もちろん! 幸せに向けた戦い――全力で勝ち取るわ! ティアーヌ、手伝ってくれるでしょう?」


「もちろんよ、マティルダ」


 馬車の揺れの中、二人の笑い声が、冬の始まりの王都リヴェルナに溶けていった――。


 王立学園の広大な運動場は、朝から熱気と喧噪に包まれていた。


 全学年合同の武術実技、男子生徒たちは木剣を交え乾いた衝撃音とともに土煙を舞い上げる。剣戟の響き、掛け声、荒い息づかいが、運動場の空気を熱く震わせていた。


 一方、女子生徒たちは広場の片隅に集まり、小声ながらも熱のこもった議論を交わしている。指先で地面に陣形を描き、簡易な図に戦術案を書き込む者、手振りで魔法式の展開を示す者――まるで小さな参謀会議のようだ。


 剣を振るう男子と、理を組み立てる女子。互いに直接の干渉はない。けれども、その間にある空気はどこか張りつめ、見えない壁が静かに横たわっていた。


 アルフォンスはその様子を横目に、武術実技担当の教師のもとへ歩み寄った。


「先生、女子たちは……魔法のブリーフィングをしているようです。いっそ、この場で魔法実技をやらせたほうがいいと思います」


 武術教師は腕を組み、女子たちの輪に一瞥を送った。


 そこにあるのは、ただの世間話ではない――。

 視線の鋭さ、指先の動き、それらが空気ごと一点に凝縮している。


 本来なら「武術に集中しろ」と言いたいところだが、無理強いはできず、これまでは静かに傍観していた。


 しかし、アルフォンスから提案を受けた以上、もはや決断せざるを得ない。


「ふむ……確かにな。時間を無駄にさせる必要はないな」


 近くを通りかかった男子生徒を呼び止める。


「おい、魔法実技の教師を呼んできてくれ」

「はいっ!」


 短い返事と同時に、生徒は駆け足で運動場を飛び出していった。


 ほどなくして、魔法実技担当の教師が現れた。灰色のローブの裾を揺らしながら、運動場の全景を一望する。


「なるほど。これは確かに実技のほうが早いな」


 武術教師と視線を交わし、即座に判断が下された。


「全員、注目!」


 武術教師の大声が運動場に響き渡った。


「これより、男子は武術実技を継続。女子は魔法実技を開始する! ――互いに干渉せぬよう、運動場を分ける!」


 ざわり、と全体に緊張と興奮が走る――。

 女子たちは一斉に顔を見合わせ、次の瞬間、表情を輝かせた。

 男子は男子で「よし、こっちも負けられん」と木剣を握り直す。


 魔法実技教師が手を掲げ、南側の空間に簡易的な防御障壁を展開する。


「よし、これで遠慮はいらん。実戦形式で行くぞ!」


 魔法実技が始まるや否や、女子たちは息を合わせ、一斉に動き出した。障壁内には、まるで軍隊さながらの陣形が展開される。前衛は〈防御障壁〉を重ね張りし、中衛は炎弾や風刃を次々と放つ。


 後衛は広域魔法の詠唱に集中していた。


「撃ち方――はじめ!」


 魔法実技教師の号令と同時に、南側の空が光と炎で染まる。紅蓮の火球が放物線を描き、雷撃が青白い閃光を残す。


 熱風が防御障壁を震わせ、砂塵が舞い上がった。


 その迫力に、北側で木剣を構えていた男子たちが思わず動きを止める――。


「おい……女子たち、なんかすごくないか?」

「ちょっと見ろよ、あの連携……」


 その一瞬の隙を、模擬戦の対戦相手が逃さない。


「おい、集中しろ!」


 剣戟の音が再び響く。だが男子たちの胸には、妙な闘志が芽生えていた。


「……負けてられねぇ」

「女子に気圧されてどうする!」


 互いに気合を入れ直し、木剣を強く握り込む。そして男子武術組の動きは目に見えて鋭くなった。足運びは速く、踏み込みは深く、打ち込みは力強い。運動場北側にも砂煙が立ち上り、木剣の衝撃音が渦を巻く。


 一方、女子魔法組も負けてはいない。


「次、属性変更! 風に切り替えて!」


 指示役の声が響くと、前衛はすぐに詠唱を切り替え、雷撃と風刃を一斉に放つ。障壁の内側は稲光と疾風が渦巻き、見学していた生徒たちが思わず後ずさった。


 アルフォンスはその光景を運動場中央から見渡し、確信する。


『これは想像以上にいい。男子は女子に刺激を受け、女子は男子の熱気に応える。まるで競技会みたいだ』


 剣戟と魔法の轟音は、昼の鐘の合図をもかき消すほど響き渡っていた。北側の武術実技場では、男子たちが木剣を打ち鳴らし、掛け声を交わしながら互いの力をぶつけ合う。南側の魔法実技場では、女子たちが障壁内で炎と風、雷撃を絶妙な連携で繰り出し、息の合った動きを見せている。


 そして午前の実技授業が終わると同時に、場内には自然と拍手と歓声が広がった。


 夕刻前、タウンハウスの門前に蹄音が響いた――。


 二日と少しの強行軍を終え、ゼルガード公爵が愛馬を駆って帰還する。馬車なら六日はかかる距離――本人としては上出来だった。


 公爵邸(タウンハウス)はどこか落ち着かない空気に包まれている。


 玄関をくぐった瞬間、行き交う侍女たちの足取りの速さが目に留まった。マティルダ公爵夫人の姿を見つけ、ゼルガード公爵は問いかける。


「……何があった」

「マリエッタが――」


 満面の笑みを浮かべるマティルダ公爵夫人の顔を見た瞬間、ゼルガード公爵はもう踵を返していた。


 会いに行き、祝福を――。

 ガシっ! その肩をマティルダ公爵夫人の手ががっしりと掴む。武人の握力は容赦がない。


 力強く首を横に振ると、その瞳が告げた。


『今は駄目』。


 ゼルガード公爵の足が止まり、短く息を吐く。マティルダ公爵夫人は声をやわらげ、静かに言った。


「長かったわ――二人きりで、幸せを分かち合う時間は必要よ」


 ゼルガード公爵は短く頷き、わずかに口元を緩める。


「……そうだな」


 その夜の食堂は、普段よりも明るく華やいでいた。長男のジークハルトとマリエッタ長男夫人の妊娠が確定し、晩餐は自然と祝宴の趣を帯びた。


 食卓の中央には、香ばしく焼き上げられた肉料理や彩り豊かな温野菜、祝いの意を込めた金箔入りの菓子まで並ぶ。


「女の子なら、わたしがリュミお姉様に教わったように、さらに磨いてみせますわ!」


「男の子なら、僕がアル兄のように手本になれるよう精進する!」


 ミレーユとレグルスは声を張り上げ、まるで自分たちの弟妹が生まれるかのような熱のこもりようだ。ティアーヌも柔らかな笑みを絶やさず、シグヴァルドやマリナも温かな眼差しで二人を見守っていた。


 食後、そのままラウンジへ移る――。


 双子は興奮冷めやらず、クッションを抱えて次々と抱負を語り、周囲を巻き込みながら賑やかさを増していく。


 祝いの喧騒から少し離れたラウンジの片隅。


 アルフォンスは黙々と作業台に向かっていた――。

 卓上には、朝摘みの林檎や洋梨が並び、薄く切り分けられた果実が複雑な紋様を刻む錬成陣の上にそっと置かれていく。


 瞬間、淡い金色の光が広がり、果実の水分が静かに抜けていった。乾燥魔道具を使えば数分で済む作業だ。


 だが、これは違う――。


 魔道具よりも甘みを引き立て、香りを損なわない、アルフォンス独自の錬金術による乾燥。その味を知る者はほとんどいないが、マティルダ公爵夫人は知っていた。


 しかも、今日は特別だった。


『こんなに舞い上がってるマティルダ様、初めてだな』


 マリエッタ長男夫人の妊娠がわかって以来、ずっと顔を緩ませている戦姫。


 その姿を思えば――『美味しい果物を作ってくれ』と頼まれて断れるはずがない。


 隣から「魔道具のほうが早いのに、律儀ね」と、リュミエールがからかうように声をかける。


 アルフォンスは肩をすくめた。


「味が違うんだよ。今日は特別だしな」

「……うん。特別だもんね」


 リュミエールはやわらかく微笑むと、黙って包丁を手に取った。言葉にせずとも、彼女にはわかっている。マティルダ公爵夫人のため、マリエッタ長男夫人のため――そして、この家族のため。


 二人は黙々と、しかし息の合った動きで果実を切り分け、錬成陣へと並べていった。


 その夜――。


 ラウンジの一角では、シグヴァルドとマリナが、湯気の立つティーカップを静かに傾けていた。近頃は、念願かなって夜のお茶会を二人きりで過ごすことが許され、こうしてゆったりとした時を味わえるようになったのだ。


 マリナがそっとティーカップを置き、柔らかな声で口を開く。


「ジークハルト様とマリエッタ様――本当に、よろしかったですね」


 シグヴァルドは小さく頷き、ティーカップを見つめたまま言葉を紡ぐ。


「俺は……気づかなかったんだ。母上が、あんなに喜ぶ姿。今まで表に出さなかっただけで、ずっと苦しかったんだと思うと、胸が痛くなる」


「でも、あの笑顔を見られて本当に良かった」


 マリナは静かに笑みを浮かべた。


「……シグを好きになって、本当に良かったと思ってしまいましたわ。このタウンハウスを離れることにはなるでしょうけれど――」


「あれほど素敵なご家族と、将来家族になれるなんて――幸せにしてくれるんですよね?」


 見惚れるようにマリナを見つめたシグヴァルドは、真っすぐに頷く。


「あの両親を見て育ったんだ。理想を見続けた俺に任せてくれ。マリナを幸せにしたぶん以上に、俺は幸せになってみせる」


「まぁ……私より幸せになるなんて、ずるいです」


 ドア脇では――。

 この甘すぎる会話を全身で浴びてしまった侍女が、胸焼け寸前の表情で、ひっそりと佇んでいた。


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