第三節 領地の不穏、戦場の真実
十月の柔らかな陽光が、サロンの窓辺から差し込んでいた。公爵家のタウンハウスには穏やかな暖気が満ち、お茶会はすでに和やかな雰囲気の中で進んでいる。
紅茶の香りがふんわりと空間を包む中、クラリーチェ侯爵夫人がふと声を発した。
「うちの領地では、近年の気候不順の影響で主作物の収量が安定しませんの。万が一に備えて、代替作物も数種育てておりますのよ――王国の物流に影響が出ないよう、街道整備も欠かせませんわ」
その言葉に、ミレーユが少し首を傾げて問いかける。
「代替作物の選定は、どのような基準でなさっておられるのですか?」
その声は幼くも真剣で、サロンに一瞬の静寂が訪れた。
「……えっ?」
クラリーチェ侯爵夫人が思わず目を瞬かせ、マティルダ公爵夫人もティアーヌも、そして他の夫人たちも同様に驚きの表情でミレーユに目を向けた。
ミレーユは続ける。
「気候変動による影響を抑えるには、周期ごとの土壌変化のデータもお持ちなのでしょうか? あと、流通網との連動も……」
「ちょ、ちょっとお待ちなさいな、ミレーユ」
クラリーチェ侯爵夫人が慌てて手を振る。
「わ、わたくし、――王立学園の特別講義を受けている方とお話しているのではなくてよ?」
「私は三歳ですわ。でも、興味があることは学びたいと思っております」
ふんわりと笑ったその顔に、再び場が凍りついた。夫人たちは、可愛らしい少女の口から出る専門的な単語にただ圧倒されるばかりだった。
やがてクラリーチェ侯爵夫人は、ぽつりと呟いた。
「……うちの執政官より話が深い気がしますわ」
その呟きを皮切りに、エレオノーラ伯爵夫人が慎重な面持ちで話題を切り替える。
「帝国との戦争は落ち着きましたが、最近は魔物の数が増えてきております。特に北東域は、以前と様子が違うのです――決して気を抜けない状況ですわ」
それに反応したのは、今度はレグルスだった。
「アル兄が言ってたよ! 『北西域は安定したけど、北東域はその影響がないとは思えない』って。やっぱり、そうなんだ!」
エレオノーラ伯爵夫人は瞳を丸くし、頷いた。
「鋭いご指摘ですわね……驚きました」
その場を受け継ぐように、マティルダ公爵夫人が静かに口を開く。その視線は遠くを見据えている。
「実家には話を通しているわ。マリーニュ伯爵にも声をかけて、乾燥薬草を実家に送りましたから。ポーションの増産で一息つけると思いますわ」
その声には、さきほどまでとは異なる重みがあった。戦場を知る者の、確かな意志が宿る響きだった。
その空気を和らげるように、リヴィアーナ子爵夫人がふわりと話題を変えた。
「最近、王立学園ではブリーフィングという議論の輪が広がっておりますのよ。特設講座から始まり、今では騎士科や魔法科にも波及して、ちょっとした流行になっておりますの」
「それって、アルお兄様が始めたものですの」
ミレーユが、まるで当たり前のようにさらりと口にした。
「ふふ、やはりそうでしたのね。まさか『否定しない』という、それだけのルールが、これほど広く受け入れられるとは――ミレーユたちのお兄様は、本当に凄い方ですわ」
その言葉にティアーヌが微笑みを返すと、今度はエレオノーラ伯爵夫人がふと声を低めた。
「そういえば……先日の異変の折、マティルダ様が出陣なさったという話が、王都でもささやかれておりますの。〈王国の盾〉と並び立ち、戦火を抜けた少年と少女がいたと」
「それって――アル兄とリュミ姉のことが、噂になってるの?」
レグルスがきょとんとしながら問いかけると、エレオノーラ伯爵夫人はわずかに口元を緩めて頷いた。
「ええ。ですが、どの話もまるで物語のようで――聞く者は皆、最初は戸惑うのです」
「窮地に陥ったシグヴァルド様。そこへ駆けつけた少年と少女。ふたりは最後までその場を守り抜き、時間を稼ぎ――そして、マティルダ様の到着と共に反撃が始まった」
「終盤には、最後の魔物に共に挑み、戦いに終止符を打った――と」
まさしく、英雄譚のような語り口だった。
マティルダ公爵夫人は肩を小さく震わせると、口角を上げてゆっくり語り出す。
「ふふ……今の話、すべて事実だな」
強く、誇りをにじませる声だった。
「あの二人が、あの場にいたおかげで最悪の事態は避けられた。持ち込んだポーションで命を救われた者も多かったし、ポーション増産の道筋を立てたのも、あの二人とティアーヌの功績だ」
そこまで言って、ふっと目元を和らげる。
「最後の決戦――真っ先に立ち向かったのも、二人だった。わたし? 慌てて追いかけた側さ。あのときはらしくもなく、『大人に頼れ』なんて説教めいたことまで口にしたよ」
懐かしむようなマティルダ公爵夫人の笑みに、ティアーヌはそっと目を伏せた。
「アルフォンスは……『前しか見えてませんでした。まだまだ未熟です』と、そう話していたわ」
マティルダ公爵夫人はわずかに鼻を鳴らす。
「未熟だと? ……その未熟さが、戦場を支えたのだ。あのとき、誰よりも早く立ち上がったのは、彼だったのだからな」
その言葉には、誇りと深い信頼が宿っていた。
ふいにマティルダ公爵夫人の表情が和らぎ、ふっと懐かしむように口を開く。
「そういえば――あの戦場の前にも、もうひとつ別の戦場があったんだ。マリーニュ伯爵領で起きた異変騒動……あの二人は、そこでも最前線に立っていた」
「まあ……!」
思わず息を呑む夫人たちの反応に、ミレーユとレグルスは誇らしげに胸を張る。対照的に、ティアーヌの表情には一瞬だけ陰りが差した。
「二人は民の避難を先導し、最後の決戦では〈賢者〉セレスタンと共に封印術式を立ち上げ、異変を終わらせた――その足で、我が家へ――シグのもとに駆けつけてくれたのよ」
マティルダ公爵夫人はそう語ると、そっと目を閉じた。
「感謝しかない。シグも含め、三人はまだ十一歳。王立学園にも通っていない子どもたちが、王国の命運を背負って戦った」
「――私はね、あの三人を心から英雄だと思っているわ」
ゆっくりと目を開いたマティルダ公爵夫人は、空気を変えるように明るい笑みを浮かべた。
「そうそう、いま話題になっている西方探索のきっかけ――西方の大河と大湿地帯を最初に見つけたのも、アルフォンスなのよ」
その一言に、サロンの空気が一気に軽くなる。あちこちで驚きの声と笑いが重なった。
「ふふっ、ははっ……まったく、あの子はどこまで行くつもりなのかしらね」
思わず笑い声をこぼす夫人たち。その中で、クラリーチェ侯爵夫人が肩をすくめながら吐息をついた。
「英雄譚どころか、これはもう、王国の歴史そのものを動かしていますわ、マティルダ様」
その言葉に、誰もが思わず頷くしかなかった。やがて話題は、冬の社交の動向や流行の装いといった軽やかなものへと移っていく。
その中で、ミレーユとレグルスは実に自然に会話へ入り込み、要所で頷きや質問を交えながら、大人たちの言葉を的確に拾っていった。
双子の可憐なやり取りに、夫人たちはふと目を見交わす。
『この子たち、三歳……よね? 本当に三歳なのかしら……』
可愛らしさと聡明さ、そして年齢に似つかわしくないほどの礼儀正しさに、気づけば皆、すっかり話題を引き出され、会話の中心に引き込まれていた。
こうして、名残惜しさを胸に抱えつつも、夫人たちはそれぞれに屋敷を後にするのだった
落ち着きとともに夕刻となる――。
シグヴァルドとマリナ、そしてアルフォンスたちが帰宅し、食堂に全員が揃うころには、双子はすっかり上機嫌だった。
「今日お会いした夫人たち、とっても素敵な方ばかりでしたの」
「うん、すっごく楽しかった! 優しくて、お話もいっぱいできた!」
目を輝かせて語るふたりに、ティアーヌは静かに微笑みを浮かべて頷いた。
夜が深まり、居間に響いていた笑い声も落ち着いたころ。久しぶりに、アルフォンスとリュミエールだけの夜のお茶会が開かれていた。
ミレーユとレグルスは、興奮が尽きた途端に、あっさりと夢の中へと誘われていた。
窓越しに星がまたたくなか、リュミエールが湯気立つティーカップを傾けながら、そっと口を開く。
「マティルダ様、動き出したようね」
アルフォンスは静かに頷き、椅子にもたれかかった。
「どれだけの人たちが、二人の〈暴風〉に巻き込まれていくのか……次は、王宮に連れていきそうだな」
「行くのは確定ですわね。先にソフィアを挟むかしら?……ないわね。きっと国王陛下、両妃殿下方、ソフィア、まとめて全員よ」
「……はぁ。あれだよね? 大茶会ってやつ。あれにきっと連れ出される感じだな」
わずかにため息をこぼしながら、アルフォンスは目を伏せる。
リュミエールが思い出したように「ミレーユたちが来る少し前からソフィア『忙しくなった』と来てませんよね」と、言葉をもらした。
少し気が逸れていたアルフォンスは、「大茶会の準備が大変なのかな?」と応えつつ、別のことも口にする。
「大茶会とか、父さんが一番ヤバいけど……どうするんだろ」
ジルベールは、公爵邸ではまるで暗殺者のように気配を消し、静かに行動していた。なぜか執事長と意気投合し、できることを手伝っているらしく、今ではゼルガード公爵を始め執事たちの信頼も厚い。
その様子を思い出し、リュミエールがくすっと笑った。
「アルの家族って、みんな変わってるわね」
「否定しようがない事実だな……」
「でも、愛しい家族よね」
「もちろん」
暖かな灯火に包まれた居間には、穏やかで静かな時間が流れていた。
王都に巻き起こる暴風は、まだ始まったばかり。それでも今夜だけは――優しいぬくもりと共に、ふたりだけの時間が静かに過ぎていく。




