第一節 王都の朝、静かな気づき
十月の空は薄曇りで、淡い朝の光が王都の公爵邸をやわらかく包んでいた。朝食の席には湯気立つ料理が並び、家族の笑い声が静かに響いていたが、食後は一転して慌ただしい支度の時間となる。
アルフォンスとリュミエール、シグヴァルドにマリナの四人は、それぞれの荷物を抱えて廊下を行き来していた。王立学園へ向かうため、制服の襟元を整え、髪を結い、書類を確かめる。その合間、ふとした拍子に笑い声がこぼれ、玄関前に揃った彼らの姿は、まるでどこにでもいる学友同士のようだった。
ミレーユとレグルスは、兄姉たちを見送ると名残惜しげに手を振り、扉が閉まる音に肩を落とした。
ユリウスに予定を尋ねてみたが、どうやらまた貴族令嬢の茶会に呼ばれているらしい。二人はそろってがっくりとうなだれる。
「……仕方がないわ。ここは鍛錬場に行きましょう」
「だね。騎士のおじちゃん、誰かつかまえて探検させてもらおう!」
気を取り直したふたりは、くるりと向きを変え、庭の奥にある鍛錬場へと駆け出していった。芝生の向こうで舞う落ち葉を蹴りながら、背を追うように朝の日差しが差し込んでいる。
一方、中庭に向いたテラスに、ティアーヌが中庭を見ながら腰を下ろしていた。手にティーカップを包みながら、中庭の景色をじっと見つめている。その視線の奥には、言葉にできない引っかかりが滲んでいた。
「どうしたの、ティアーヌ。悩みごとかしら?」
そっと入室してきたマティルダ公爵夫人が声をかけると、ティアーヌはわずかに笑みを返しながら、手元のティーカップに視線を落とす。
「昨日の、マリエッタ様のことなの。少しだけ、気になってしまって」
あくまで平静を装うその声には、確かな観察と判断が込められていた。魔力の流れにも、身体的な異常にも、特に目立った乱れはない。しかし「疲れやすい」「冷えやすい」といった、本人の訴えは――ティアーヌの直感に引っかかっていた。
二人は並んで椅子に腰かけ、ゆるやかに会話を交わしながら、茶を口に運ぶ。マティルダ公爵夫人が語る日常は、確かに運動不足気味ではあるものの、不自然な生活の乱れは見られなかった。
「とても参考になります。お話を聞く限り、今すぐに何か心配するようなことではなさそうですね」
けれど、穏やかに言葉を返しながらも、ティアーヌの心の奥にはある推察がくすぶっていた。
「マティルダ夫人。もしかするとですが、妊娠初期ではないかと感じているんです。もちろん、慎重に確認するべき事柄ですが」
それはあくまで、まだ形にならない予感。しかし、だからこそ見落としてはならない兆しでもあった。
「まあ……最初からその可能性を見ていたのね? 本当に――あなたのそういうところ、私好きよ」
マティルダ公爵夫人が頬を緩める。その微笑には、信頼と敬意が滲んでいた。
「どちらであっても、私たちはマリエッタを支えるべきね」
そのひとことに、ティアーヌは静かに頷いた。
やがて二人は立ち上がり、準備を整えて馬車へと向かう。窓の外には、朝の王都がゆるやかに目覚めの気配を広げていた。乗り込んだ馬車の中、ティアーヌは何気なく外に視線を投げる。
ふと、心の中にひとつの疑問が浮かんだ――。
『マティルダ夫人、しれっと馬車でタウンハウスを出たけど……先触れとか、何も手配してなかったわよね?』
一方、鍛錬場ではミレーユとレグルスが思惑どおり、暇そうにしていた騎士たちを見つけ出していた。声をかけると快く応じてくれたふたりの騎士を伴い、四人は庭の奥へと足を踏み入れる。
もっとも奥といっても、そこは手入れの行き届いた美しい一角だった。
「このように整っているのですね……庭師さんたちは凄いですわ」
感心したように呟いたミレーユに、騎士のひとりが笑みを浮かべて応じた。
「実は、私たちも鍛錬の一環として手伝っているんですよ」
「ふふっ、騎士団の皆様はもともと素敵ですわ」
さらりと褒め返すミレーユに、レグルスが小さく頷いて口を開く。
「やっぱり、体を動かさないとな」
「それが基本ですからね」
もうひとりの騎士も、穏やかに笑ってうなずいた。
そうして、庭の石を運んだり、刈り残しの枝を整えたりといった軽作業を体験しながら、双子の小さな探検は静かに幕を下ろした――。
そのころ、マティルダ公爵夫人とティアーヌを乗せた馬車は、ジークハルト夫妻の住まう貴族街の邸宅へと到着していた。
エントランスでは、思いがけぬ来訪に少し驚いた様子のマリエッタが出迎える。
「お義母様、お声をかけていただければ、こちらから伺いましたのに……」
そう言いながらも、どこか嬉しげな微笑を浮かべ、三人は言葉少なにラウンジへと移動した。
「確証はないのだけれどね……ティアーヌと話していて、ふと気づいたの。マリエッタ、あなた――妊娠初期かもしれないって」
そっと告げられた言葉に、マリエッタの瞳が大きく見開かれる。
その反応を受けて、ティアーヌが静かに話す。
自らが双子を身ごもった際に感じた身体の変化や微細な兆候――そして、いまマリエッタの内からほのかに漂う生命の気配。魔力の流れにかすかに生じる揺らぎ。それらを一つひとつ、丁寧に言葉にして伝えると、マリエッタはゆっくりと頷いた。
そして、許可を得た二人は、侍女たちを下がらせたうえで、簡易的な術式を用いての確認を静かに行った――。
王宮の敷地内に建っている王宮図書館は、静謐な空気に包まれていた。アルフォンスとリュミエールは、並んで高い書架を見上げていた。
「理に関してはさ……時間泥棒な本が一番核心に近かった気がする。面白かったけど、ちょっと複雑な気分だな」
「理は確かに存在している。でも、概念だから掴めない。掴んだと思っても、すぐに揺らいでしまう――なんとも難儀なものね」
「セレスタンさんの講義がないと、これ以上は進めそうにないな。でも、人の認識が鍵かもしれないって確信は持てた。それだけでも、今日は大きな収穫になったと思ってる」
リュミエールは静かに頷いた。
「大湿地帯での異なる理……あれも、セレスタンさんの見解を聞いてみたいわね」
話しながら、ふたりは再び資料に視線を戻した。
晩餐の時間――。
ゼルガード公爵が所用を片付けに、領都へと発っていたため、主座は空いていた。
テーブルの一角では、マティルダ公爵夫人とティアーヌが並んで座り、何やら真剣な表情で言葉を交わしていたが、その内容までは聞こえてこない。
一方、奥地探検を終えたばかりのミレーユとレグルスは、庭の整備を鍛錬代わりに行っていた騎士たちの様子を楽しげに語り、シグヴァルドとマリナは「騎士もそんなことを?」と目を丸くしていた。
宵の口の小さなお茶会には、アルフォンスとリュミエールだけでなく、ミレーユとレグルスの姿もあった。
「ねぇ、アル兄って三歳の頃、どんな鍛錬してたの?」
レグルスの問いに、アルフォンスは少し思案するように目を細めた。
「一人で森の奥までは入れなかったけど、その手前を駆け回って薬草や魔石を集めてたよ。あとは、……石を投げてた」
「アルお兄様の投石は、ほんとうに見事でしたわ!」
「うん、僕も見たけど、あれはすごかった!」
レグルスも力強く頷く。
「祝福の儀の後からは、風属性の魔力を意識して石に纏わせるようにしたら、威力が桁違いになったんだ」
そう語ったあとで、アルフォンスは一度口をつぐみ、続けた。
「でもね、小さい頃から命中精度も威力も……少し変だった気がする。弓は苦手だったのに、石だけは的を外さなかった。――ひとつ、仮説があるんだ」
部屋の空気が静まり返る。皆の視線が、アルフォンスへと集まっていた。
「僕は、小さい頃から薬草や魔石のある場所が、感覚でわかったんだ。これって、おそらく感知の一種だと思う。でも、祝福の儀の前って、本来は魔力を使えない」
一瞬の沈黙のあと、アルフォンスはお茶をひと口含み、ゆっくりと続けた。
「だけど、思うんだ。女神様が禁じたのは、魔力そのものじゃなくて、危険な魔力だけだったんじゃないかって」
「危険な……魔力?」
ミレーユが、その言葉をゆっくりと繰り返す。リュミエールの視線が、静かに細められた。
「身体を守るために必要な魔力まで禁じてしまったら、むしろ危険だと思わない? もし女神様がそれを考慮していたとしたら、すごく納得できるんだ」
そう言って、アルフォンスは柔らかく微笑んだ。
「創世の女神様の優しさは、間違いなく本物だからね」
そして、ミレーユの方へ向き直る。
「ミレーユ。考えることは大切だけど、これは正解のある問いじゃない。だからこそ、自分で見つけた解釈こそが、自分にとっての真実になる」
「それを人に押しつけてはいけないって、わかってるよね?」
ミレーユは、ゆっくりと、けれど確かに頷いた。
「僕もまだ、自分の解釈を見つけたわけじゃない。でも、君たちとなら、きっと見つけていける――だから、いつかまた、このメンバーで話せたら嬉しいな」
夜のお茶会は、温かな空気に包まれたまま、静かにその幕を閉じていった。




