第四節 八歳の探索者、伯爵の会合
ミルド村の夏がようやく深まり始めていた。
畑には緑が満ち、森では薬草が芽吹き、川のせせらぎに混じって鳥のさえずりが響く。少年にとって、それはただの季節の移ろいでわない〈本格的な探索〉がついに始まるという合図だった。
八歳の誕生日を過ぎて間もないころ、アルフォンスは父ジルベールから、単独での遠征探索を許された。日帰りでは届かない範囲。それはただの森歩きではなく、行き先も帰り道も自ら決める旅の始まりだった。
火起こしや野営の訓練、道具の選別や荷の調整。ひとつひとつの準備を経てすべてが許可という形で結実し、少年の背中を押した。
最初の一歩は緊張に満ちていた――
背負った荷は普段の倍に感じられ、草を踏む音さえ無意味に大きく響いた。それでも足を止めることはなかった。森を抜けるたびに地図に線が引かれ、わずかずつだが自分だけの領域が確かに広がっていった。
そうして探索はいつしか二か月目を迎えた。夏の陽射しはその鋭さをやや和らげ、森の緑も深く落ち着いた色合いに変わってゆく。
西の尾根を目指し、彼はいくつもの獣道を切り拓いた。風の流れ、土の匂い、草葉の揺れ。感覚を研ぎ澄ませ、薬草や魔石の気配を追ってゆく。発見と記録を繰り返すその行為は、もはや採集ではなかった。
それは静かな、けれど確かな〈森との対話〉だった。
そして、その日。森を抜けた先で、アルフォンスは〈それ〉に出会った。
尾根の麓――
木々の切れ間の向こうに、まるで世界の底が裂けたかのような水の帯が広がっていた。広く、静かで、深い。ただの小川ではない。見たこともない大河だった。
河幅はとても泳いで渡れるものではなく、水音さえ重たい静寂に包まれていた。その存在は村の地図にも、伯爵領の記録にも残っていなかった。
けれど大河は確かにそこにあった――
時の流れだけが削り、形づくったような、人工の気配を一切持たない〈本物の風景〉。胸の奥に、熱いものがじわりと広がる。
まだ知らない世界が待っている――
目の前に広がる未知に、ただ立ち尽くす。けれど、その足はすぐに動き出した。地図のない場所に、自分の足で線を描く。その行為が、少年の心に火を点した。
河原には岩場が入り組み、安全に腰を据えられる場所もあった。アルフォンスはそこを臨時の活動拠点に選ぶ。崖の窪みに木を渡し、枝と布で屋根を組み、石を積んで簡易の竈を設ける。干し薪や調理道具を収めると、小さな〈森の隠れ家〉が完成した。
そこを起点に、彼は周囲一日圏内を丁寧に歩いた。薬草、魔石、見慣れぬ鉱石。すべてを採集し、地図に記し持ち帰っていく。
その中には、村の誰もが知らない薬草があった。ミレイ婆さんは指先でその葉を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「こんなの……見たことがないわのぉ。あんた、本当に村の外を歩いてきたんじゃな」
いくつかは伯爵領の記録にも存在せず、マクシミリアン公爵領へ送られ、専門家による調査が始まる。
魔石は属性の偏りが強く、色も既知のものとは明らかに違っていた。さらに、周辺で採れた鉱石の中には、鉄や銅のほか、ミスリルや金、磁鉱石も微量ながら混ざっていた。
村長は鑑定結果を眺め、ぽつりと漏らす。
「量は少ないが、情報としての価値は高いのぉ。領主様にも報告しておくのじゃ」
森の葉が色づきはじめるころ。虫の声に秋の調べが混じるようになっていた。薬草、鉱石、魔石。知られざる河川と、新たな拠点。どれもが確かな発見だった。そしてそれらすべてが、少年の描いた地図の上で、確かな意味を持ちはじめていた。
アルフォンスの旅は、着実に、しかし揺るぎなく前へと進んでいた。その背には、責任の重みと、少年らしいまっすぐな夢とが静かに、重なっていた。
――マリーニュ伯爵領 領都〈ヴァレオル〉
秋の気配が領都の空をやわらかく染めはじめたころ。アルフォンスは再び、石畳の街を歩いていた。今回は薬草採集や調薬のためではない。彼自身の〈探索行〉に関する正式な招集を受けての訪問だった。
西方の森で発見された河川や薬草、鉱石の報告に対し、マリーニュ伯爵家から会合の召集状が届いたのだ。召集状の名義人は、領主アラン・マリーニュ伯爵。そしてその出席者のひとりに、八歳の少年アルフォンスが指名されていた。
マリーニュ伯爵は、フェルノート王国北西部を治める在地貴族。その領地は〈魔の森〉と地続きの厳しい地勢を抱え、王弟ゼルガードが治めるマクシミリアン公爵領とも接している。この地を治めるには、名誉だけでなく、覚悟と実力が不可欠だった。
公爵、辺境伯、侯爵、伯爵――
王国各地に広がる領地はこの四爵に属し、四爵は在地貴族と呼ばれる上位の家格に位置づけられていた。いずれの家も王国防衛の要を担い、それぞれが自らの戦力を備えている。その中でも北西部を一手に預かる筆頭伯爵家こそ、マリーニュ伯爵家であった。
そのマリーニュ伯爵家が直々に開いた会合に、八歳の少年の名が記されたことは、単なる儀礼などでは決してなかった。
探索を実施し、地図を描き、採取物を持ち帰ったのは、他ならぬアルフォンス自身だったからだ。
村長は言った。
「現場の言葉を聞かずして、結果だけで結論を出すべきではないのじゃ」
その言葉通り、村長の推薦でアルフォンスの出席が決まった。
伯爵邸の会議室。高窓から陽光が射し込むその広間には、厚い石壁の冷気と重厚な静けさが漂っていた。すでに家臣たちと村の代表者数名が揃い、最奥の席にはアラン・マリーニュ伯爵が静かに腰を下ろしている。
灰銀の髪に蒼灰の瞳。無駄のない佇まいには、自然と人々を制する威厳があった。
アルフォンスは一礼し、持参した地図と標本を丁寧に並べた。手のひらは汗ばんでいたが、言葉に乱れはなかった。
探索に至った経緯、獣道や水場、薬草の群生地、鉱石の分布、そして誰にも知られていなかった大河の存在。地形と地質、座標と周囲環境。それらすべてを順序立てて説明し、必要な図表を示しながら淡々と報告を進める。
声は幼かったが、伝えるべき内容に迷いはない。資料の整然とした構成と観察の正確さが、会議室の空気をじわりと変えていった。
やがてアラン伯爵が席を立ち、静かに地図の前へ歩み寄る。視線が地図上の描線をなぞり沈黙、そして重く穏やかな声が響いた。
「見事な仕事だ」
その一言に、場の空気が静かに震えた。
「報告の正確さ、観察の緻密さ、そして未知を恐れず歩いた胆力。この成果が、少年の手によるものという事実は、まことに賞賛に値する」
その言葉に、場に立ちこめていた緊張はやわらかくほどけていった。
アラン伯爵は続ける。
「今回の探索地域については、特別な規制を設けず村人の自由な活動を認める。ただし河川と鉱脈については伯爵家が調査隊を派遣し、詳細な調査を行う。村には間引きや採取の面で協力を求めるが、生活を損なうような制限は課さぬ」
その判断に、村長は即座に同意し伯爵家との連携を誓った。さらに今回の報告は王都にも伝達され、必要に応じてマクシミリアン公爵家や他領との協議も行われるという。
だがそうした調整の一切は伯爵家が担い、少年には余計な負担を負わせない。それがアラン・マリーニュ伯爵の決意だった。
「少年に過度な責任は負わせぬ。だが、その名と行動は記録に残す。いずれ、それが価値として問われる日が来るだろう」
静かでありながら揺るぎない声音。その眼差しには真摯な敬意が宿っていた。八歳の少年にとって、広すぎる会議室。言葉のひとつひとつが重く、遠く感じられた。
それでも己の歩んだ道がこうして認められ、人々の前に示されたという事実は、胸の奥に小さな炎を灯した。
この日、アルフォンスの名は「西方探索の報告者」としてマリーニュ伯爵家の正式な記録に刻まれた。
その名がやがて王国中に知られることになる。
このとき、まだ誰も予想していなかった。