第二節 家族の温もりと、ふたりの未来
馬車止めでのひと騒動が落ち着くと、公爵邸の中にはようやく穏やかな日常の気配が戻り始めていた。
アルフォンスは父ジルベールと弟レグルスを伴い、館内奥にある湯殿へと向かう。
ほんの少し汗ばんだ身体を湯で流す。ただそれだけのことが、今はひどく贅沢に思えた。湯気の立ちこめる静かな空間で、ジルベールがぽつりと口を開く。
「……お前から、『戻れそうにない』って手紙が届いてな。その場でティアが『王都へ行く』って言い出した」
アルフォンスは呆れと苦笑が混ざった表情をし、ジルベールは妻の行動力を思い浮かべる。
「……気づいたら、マリーニュ男爵夫人のところに相談に行ってて、もう止めようがなかった」
それがすべての始まりだった――マリーニュ伯爵家とマリーニュ男爵家の全面的な手配により、書類も宿もあっという間に整い、気がつけば一行はマリーニュ伯爵領を出発していたとのこと。
「……あの手際は凄いな。セラリア伯爵夫人、エリシア男爵夫人、それとティアは仲良く手際良く準備を整えていったぞ。伯爵様たちも唖然としてたのが印象的だったな」
「母さんとセラリアお母さん、エリシアお母さんは仲良しだからね」
レグルスが胸を張ってアピールする。その誇らしげな様子に、アルフォンスは頭を抱えて「……母親多すぎだろ」と、つぶやいた。
王都に向う道中、マクシミリアン公爵領を通過する際に挨拶のため公爵邸を訪ねたところ――思いがけず、そのままゼルガード公爵が同行することになった。
「公爵様、本当に気楽にお会いしてくれてな、歓迎してくれたのに驚いたぞ」
アルフォンスは嬉しそうに頷きながら応える。
「公爵様は平民を見下さない。初めて会ったとき、父さんはどう感じた?」
「ミルド村の入り口だったな。ニコニコしながら握手を自然にしたのを覚えてる。そうだな、あの時に信頼できるお方と感じてたな」
ジルベールは当時の記憶を辿りながら話す。
レグルスは旅の中で感じた感想を伝える。
「騎士さんも魔導士さんも皆んな優しかったよ」
アルフォンスは少しドヤ顔でレグルスに応える。
「レグルス、あの騎士さんたちは三騎の突撃で盗賊たちを一瞬で蹂躙してたぞ。異変のときも思ったけど、――本当に強くて優しくて仲間思いの素晴らしい人たちだぞ」
レグルスは目をキラキラさせながら頷く。
「僕も頑張って頼られるようになるよ!」
アルフォンスとジルベールは顔を見合わせ、レグルスに向き直って頷く。
「レグルスなら大丈夫だ」
家族の談笑が一区切りついたとき、アルフォンスは少しうつむき小さくこぼす。
「……アラン伯爵様やダルム男爵様に、迷惑をかけたかなって思ってる。何も考えずに『帰れない』なんて言って、ちょっと後悔してるよ」
アルフォンスのつぶやきに、ジルベールはゆっくりと首を横に振った。
「だが――こうして会えた。それだけで、十分じゃないか」
湯のぬくもりに包まれながら、互いに黙って湯に浸かるひとときも、言葉に勝る語らいのようだった。
一方、婦人用の湯殿では、リュミエールがティアーヌとミレーユを伴っていた。
立ちこめる湯気の向こうから、柔らかな声が届く。
「婚約の準備は、滞りなく整います。公爵様にも、それとなくお伝えしました――とても優しい笑顔をなさっていましたよ」
ティアーヌは安堵したように応じる。
「……そう。よかったわ」
湯に肩まで浸かりながら、リュミエールは小さく息を吐いた。婚約が正式に決まることは、もちろん嬉しい。けれど、その裏には、避けがたい波が潜んでいる。
ゼルガード公爵が何かを仕掛けてくるのは、ほとんど既定路線。そしてきっと、国王陛下もその流れに乗って、愉快そうに場をかき回してくるに違いない。
――ならば、逆らわず、流れに身を任せるのが一番。
そんな風に静かに思考を巡らせる。
「リュミお姉様と姉妹になれるんですね!」
ミレーユのぱっと花開いたような声が響いた。その純粋な喜びに、リュミエールの唇にも自然と微笑みが浮かぶ。そっと身を寄せ、少女を優しく抱きしめた。
「私も嬉しいわ、ミレーユ」
心の奥が、ふんわりと温かくなる――。
その夜、晩餐の食卓はとても賑やかだった。
ゼルガード公爵とマティルダ公爵夫人。
シグヴァルドとマリナ。
アルフォンスとリュミエール。
そしてジルベール、ティアーヌ、ミレーユ、レグルス――十人が揃った長い食卓は、まるで祝宴のような華やぎに満ちていた。
マティルダ公爵夫人とティアーヌは、子育ての工夫や王都の流行、美容に関する話題で楽しげに笑い合う。チラリと、ティアーヌが冒険者時代の話もしていたようだ。
ゼルガード公爵はジルベールに近づいてミルド村の近況を尋ね、西方の大河や大湿地帯の変化、北部遺跡の調査についても耳を傾けていた。遺跡調査はさほど進展はないが概ね問題ないと知りゼルガード公爵はほっとしていた。
リュミエールとマリナの両脇に陣取ったミレーユとレグルスは、王都への旅で見たもの聞いたものを競うように語り、テーブルの一角は笑い声であふれていた。
その様子を静かに眺めながら、アルフォンスは心の内で思っていた。
これが、幸せというものなのだと――。
晩餐後、アルフォンスは自室に戻り、いつものように手慣れた所作でお茶の準備を進めていた。ポットから立ちのぼる湯気が、静かに部屋の空気を和らげてゆく。
コン、コン――
控えめなノックの音が響いた。
「どうぞ」
扉が静かに開き、リュミエールが姿を見せる。
「私たちの婚約、整いそうよ」
その言葉に、アルフォンスはわずかに目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「――リュミィを初めて見たのは、祝福の儀の日だった。母から容姿のことは聞いてたから、すぐ分かったよ。でも、それでも見惚れたんだ」
凛としていて、可愛くて、そして――まっすぐで、眩しかった。その想いは、今も少しも色褪せていない。
リュミエールは、ふと視線を伏せた。
「あの時……ティアーヌさんには、気づいていたの。でも、何も言わなくてごめんなさい」
「ううん。あれは、素敵だったよ」
アルフォンスはゆっくりと首を横に振る。
「平民の母に、にこやかに小さく手を振ってた。あれが、リュミィなんだって思った。身分や立場にとらわれず、ちゃんと人を見て、向き合ってる」
「――最初から、そんなところに惹かれてたんだと思う」
リュミエールは、くすっと喉を鳴らしながら微笑んだ。
「今日は、大サービスね」
「気持ちを伝えられる機会って、ありそうで意外とないからさ」
口にしなければ、想いは届かない。言葉にしなければ、心は交わらない。それを、少しずつ理解しはじめている。
「これから、末永くよろしくね」
「ええ。こちらこそ、よろしくお願いするわ」
あたたかな空気のなかで、いくつか他愛ない言葉を交わしたのち、リュミエールはそっと立ち上がった。
「おやすみなさい、アル」
「おやすみ、リュミィ」
扉が静かに閉じる音が、夜の静けさを深くする。
アルフォンスは湯気の立つティーカップを手に取り、そっと口をつけた。
微かに甘い紅茶の香りに――二人の未来を感じさせ、自然と笑みがこぼれる。
 




